ここまで生きた目的 それは『電荷』否定への道であったと言っても良い。『電荷』否定は科学理論の全否定に近い意味であろう。科学が現代社会を支えているから、社会の否定とさえとられる。日本政府に、戦後処理の裏世界での闇に葬られ、排除された人生であった。御蔭さまで昭和55年長岡技術科学大学に転勤・転入でなく、前職歴なしの助手職でお邪魔虫となり、その人生の意味を学習する機会を与えてもらった。長岡技術科学大学の話は上の『電荷』否定への道に記した。長岡工業高等専門学校の話で、忘れていた事を思い出したので、この記事を書く。『電荷』否定は科学理論を根底から解剖して、市民の目線で分るように解き明かす事と悟る思いに今ある。人生を掛ける価値が有ったと。
断崖の道 昭和61年9月からが大きな暗黒の世界になった。高専2年目の8月初め、長岡技術科学大学で電気学会電力技術部門の研究会があった。そこで、「空間瞬時ベクトル解析法と交直変換器への適用」の論文資料を発表した。自分の人生は崖っぷちを歩いて来たと改めて思う。恐ろしい道を歩いていたのだと。この研究資料の発表がなかったら、恐らくそこで埋没していたのだと今頃気付いた。この研究資料の重要なデータは、高専の卒研の学生に手伝ってもらって、シミュレーションで過渡現象の計算結果を出してもらった。それは前年の4年生に『数値解析』の科目担当で、計算の過渡現象の手法(フォートランで、過渡現象解析のための微分方程式の解法で、ルンゲクッタ法だけは出来たから)を教えていたから出来たことであった。『数値解析』などコンピュータの操作も出来ずに、よく知らない自分が授業担当できるとは、思っていなかったのだと思う。だからそれだけでも、高専で潰れると『邪魔者は消せ』の日本政府、大学および高専関係者には見えたと思う。しかしコンピュータの操作など今でも良く出来ないのに、学生が良く授業をこなしてくれたと思っている。その御蔭で、研究会の資料を簡単(1週間位で)にシュミレーション結果を出してくれたのだ。高専の教官や学生の卒業生名簿も一度も見ていないから、手元に無いので名前も忘れてしまい、失礼してしまった。
暗黒の世界で殺害危機と生命保全対策 5月、7月および9月に留めの生命の危機を何とか感じとり逃れる事ができた。そこからは食べ物、飲み物すべてに厳重な危機管理の手立てを採った。《観世》と薄紙に筆書きし、南京錠を3個ほど用意し、金属工具箱の鍵掛けに使う。その錠前のカギ穴に《観世》の文字の紙をさらに細く切り、それを張り付けて毎日3個の錠前を(鍵屋が出入りしていたから)準備して学校に行った。一度開ければ二度とは使わない。その工具箱で食品を管理した。3月31日まで1日も欠かさずの対策であった。そんな蔭の秘策をその後誰にも話すことなど出来なかった。そんなことは誰にも理解されないから。筆者も自分がそんな目に合う理由が見当たらなければ、対策の取りようがないから。舞鶴鎮守府の香取丸など、その後10年経ってはじめて辿り着いた『殺害原因』がそこに在ると知る事になったのだから。暗闇の世界が魑魅魍魎に相応しいものと知る。
電気科教官集会室の暗闇 9月からと思うが、電気科事務室が真っ暗闇で、誰もその部屋を使わないようになた。事務連絡もその部屋の通知入れのケースを使うのだが、真っ暗闇で誰も入らないような部屋になった。何故かも聞くだけの感情も無く、四面楚歌の単独の闇の旅の学校となる。10月長岡技術科学大学での川上正光前学長の講演会を聞きに参加しただけで、大学に顔を出す事も出来ない授業と無視の世界での孤独な2年間であり、最後がその厳しさの頂点であった。事務室が閉鎖されたような暗闇になり、殆ど連絡の通知が届けられなかったように思える。きっと電気科で教官への通知は筆者には届けないで過ごしたと思う。電気科の学生の成績会議も無く、それを知る事もなかった。12月の末に電気科教官会議が有ったが、中身は殆どないものであったから、別に全て取り計らっていたのだろう。電気科事務室のポストに通知が入らなければ、誰とも口を利かないのだから、どんな行事も知らないで過ごすことになる。
学年後期について この記事を書かなければと思った事が有る。卒業研究生を7人ほど担当していた。しかし、その最後をどう終了したかを全く覚えていないのである。1月末に全科の教官会議が有った。そこで高橋校長が言った話が頭に残った。どうなるかは分らないが、代議士に話を聞いたら、何とかなるだろうと一安心だ。と言うように記憶している。筆者の人事問題とは薄々感じたが、具体的な意味を知る事は出来なかった。代議士とは、当時の中曽根内閣の副官房長官の渡辺秀央と思った。恐らく12月末に何らかの人事問題の処理業務が有り、それが不発で終わったのであろう。12月に校長から呼び出されて、話を聞いたがその意味を理解できなかった。2月になり、技科大の或る教授から高専に電話があった。多分人事問題の事とは思うが、「残念でしたね」と言われた。その意味も知らなかった。その辺の電気科内での連絡通知も何もなかったようで、卒業研究の発表会もいつ行われたかの記憶も無い。相当混乱していたのか、全く記憶がない。多分全ての連絡も遮断されていたのだろう。2月24日に長岡技科大の難波江教授から呼び出しを受けた(既に記す)。3月になって、確認のため、高橋校長に校長室を尋ねて聞いた。星野(技科大から一緒に監視役できた?)事務官を呼んで、長岡技術科学大学から『割愛』の話になっていると、告げられた。意味は分らなかった。3月の中頃かに、全科の教官会議の話を聞いた。人事関係の話が全て出た。しかし筆者については何もなかった。校長にその場で聞いたが答えが無かった。会計課に保険証を3月31日返して、生命保全対策の終わりにしておさらば。4月に校長から自宅あてに教官会議への出席要請の連絡があった。無視した、ただそれだけである。道が閉ざされたのか、美空ひばりの『みだれ髪』の意味なのか。
電気科の送別会? 電気科は羽賀?科長であった。卒業式に第2代の田校長がまだ出席していた。その雰囲気を異様に感じた。卒業式後、卒業生と一緒に街の料理屋(平潟神社付近)に集まり、お酒の出る会が有った。学生は二十歳過ぎだったかな?教官はひな壇に座っていた。筆者だけは学生の居る末席で過ごす。教官とは口も利かない間柄。