『学習』と『考える』という間にある意味の違いを『考え』てみる。筆者が今、辿り着いたと思う自然科学の世界は今までの教科書的科学論とは余りにも懸け離れたところにある。それは現代物理学の世界的に認識された、科学常識の理論と全く異なるものである。何故人と異なる考えに到達したのかと、その原因を手繰り寄せてみたい。その事を『考える』という言葉の意味の中に探ってみたいと思った。『考える』という意味には、今までと異なる、あるいは自分が知っている事・知識と異なる物事に新しく挑戦して、より理解などを深めるという意味があるように思う。兎に角自分にとって新しい局面を切り開く場合に『考える』という意味が当てはまると思う。学校で、はじめて学習する場合の、学習内容も当然その『考える』中に当てはまるだろう。ところがその学習内容を、十分納得して、理解するまで考えるかという問題がある。教科書の内容はあるいは先生が教えることはすべて正しいと、『考える』事をせずに済ましていないかという問題である。『学習』は一通り教室で、先生の言う事を聞いて過ぎればそれで済んでしまう。誰もが社会的常識として広く合意を得ている内容なら、それを素直に受け入れるのが普通の理解の仕方である。だから耳や目で確認し、一つの認識の過程を通り過ぎれば『学習』の形体は成り立つ。『学習』という文字の意味をどのように解釈するかとなると、『学習』と『考える』の二通りの意味に分かれるように思う。辞書を引いて、『学習』という意味を理解すれば、それは『学習』であろう。しかし『学習』という意味を自分で辞書にある意味以外にもう少し深く、あるいは自分なりの解釈を付けると成るとそれは『考える』の意味に近くなると思う。もともと『学習』の文字を見れば、『習』は習うという意味で、むしろ考えるというより慣れる・習熟するという意味に成ろう。『学』も中々意味深長で、簡単には片付けられない。しかし『習』より学ぶという事で、『考える』比重が重くなるように思う。そんな意味の二文字で、割合軽く習うこと、あるいは習熟の仕方を学びとるぐらいに解釈してよさそうに思う。
『考える』 人それぞれに学び方に特徴があろう。自分の事で恐縮であるが、記憶力が極端に劣ると悲観していた。何故そうなったかは何らかの理由があると思う。所謂『学習』があまり得意でない。言い換えれば、偏っていると思う。記憶の訓練を怠って来たから、脳が記憶の訓練を十分しなかった為に、その機能が劣ってしまったと思う。脳はそれぞれの成長過程で、それなりの訓練と鍛え方で、その脳の機能は個人的な特性を備えるものと考えている。その事は『基礎科学』とは何だろうに示した。記憶力を鍛えなかったが故にか、全て理屈を付けて理解するより脳に蓄える術が無いように成ったか。だから理屈は強いと思う。本を読む時も、遅い分それは本当かと疑いながら読み進む傾向にある。自分の感覚と付き合わせながらそれを理解する。上の『基礎科学』云々も勝手に自分の考えをまとめただけで、全くの素人論でしかない。しかし、筆者は誠に気に入っている解釈である。それは自分の考え方の方向性を感覚的に捉えて書き表したからかも知れない。どこにも無い、あるいは常識を覆すようなことを表現するには相当『考える』作業が要求される。不図気がついて、過去の記事を読んでみた。學力とはの筆墨がある。似た記事に知識と智慧を書いていた。偏屈な自分の考え方が記事の中に溢れている。悪い癖は皮肉が多い事と思いながらも、自分の記事を読み返して、中味は良かったかと確認をする。その時の想いであれば止むを得ないと覚悟して。
教育者側 先生といわれる立場の方々は既に教科書の教科内容については十分知識を備えている。だから、改めて教育内容について『考える』事をほとんど必要とは思わない。特に教育法を工夫して、その積み重ねを続けることによって、益々自信を持ちその社会的常識のルールから逸れる事は決して許されないと思う事に成る。それはその人の『脳機能』の方向性が固まってしまい、常に物事の考え方が専門という業界方式から外れられない。極めて保守的な思考形態に縛られてしまう。一つの教育内容や教育方法を守り、少しの手直し程度で十分改革的だと考える。だから、決して原理・原則・法則を疑う等という根本的な思考の『考え』は浮かばない。捨てる事がどんなに心細いかは、その経験以外に知る術はない。昭和62年夏、人に信じられない『電流概念』の破棄を電磁界研究会での表明を記した。しかも自分の身分が全く暗闇の中に居ることを薄々感じながらの覚悟。その覚悟は今も間違っていなかったと気持ちの昂ぶりを誘う。決して教師は自分の積み重ねた過去の指導内容を捨てる事は出来ないだろう。それは同じ内容の教育にしか携わらないから、他の観方が出来ない環境にあるからがその原因である。ここで断っておかなければならない点は、自分が今になればとても恵まれた(?)環境であったと言える。長岡技術科学大学から追放されて、長岡工業高等専門学校で抹殺の為の全く異分野の教科を指導した経験である。高等学校でも教えた事の無い教科『電気磁気学』を突然高専の4,5年生に指導する事に成った点である。専門らしき分野は『半導体静止電力変換回路』の開発であったが、突然の電気磁気学の指導は精神的な負担が大きく、そのストレスが神経を過敏に研ぎ澄ませた事も一因だろうと思う。しかも教科書も無い演習であれば、全て手作りの授業である。ポインチングベクトルで全てを解釈する授業体制を採った。そんな授業はどこにも無かろう。アンペアーの法則、ファラディの法則などに矛盾がある事を授業内容の中で認識を強める事に成った。これらは教科書の内容を否定する事であるから、『考える』そのものの意味に成る。授業内容が現在の筆者の自然科学認識を生み出してくれたのだと感謝すべきかと思う。
『電荷』否定 科学概念の中で、最も根源的な基礎概念が『電荷』である。その存在を否定すれば、もはや科学論として成り立たないと見られる。何故そんな『電荷』否定に到達したかを『考える』事の意味に触れながら論じたい。 『電荷』否定への道でその詳細を述べたい。『電荷』の否定以外真の自然科学の未来は開けない。
戻り方は『考え』られない 自然科学の矛盾は納得できる解決が可能。しかし、舞鶴鎮守府、「香取丸」戸籍の行政問題の矛盾は納得できる解決の仕方が見えない。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府