月別アーカイブ: 2014年5月

電気磁気学の古典的名著に思う

竹山説三著

 

森田 清著

古い物語を秘めた二冊の本が手元にある。古典的名著に当たる電気磁気学の本である。あるところで、ある人に『この本は君が持っていた方が良かろう』と言われて、そのまま手元に残っている。それが次の本である。竹山説三著と森田清著の二冊。
以前はその本に目が行くと、まだまだ勉強しなければならない事が多い。と無理とは思いながらも意識していた。ところが今はどうかと言えば、そんな意識はもう起きない。その御本の内容はとても高度で、努力なしには読み切れない。自分が辿って来た電気に関わる事柄は、既に過去の名著という伝統的内容は残念ながら不必要になってしまった。自分にとって無意味なのである。今『電気磁気学』として何をどのように学習すべきかを考える時、『エネルギー』概念を感覚的に認識出来るようにすることが欠かせないと思う。その基本的観点からどれだけ多様な世界を読み解けるかという問題に思える。『電荷』を捨てたら、教科書を読み切れなくなった。『電荷』無しに上の名著も解釈できないのだから。それは、新たな『電気磁気学』を創り直さなければならない処に来てしまったのだ。とても大きな仕事に成る筈だ。光と電気は同じという事(マックスウエルの電磁場方程式)が一世紀以上前に唱えられているにも拘らず、電気回路の現象を光と結び付けようという意識に成らなかった訳は何が原因であるかは「人間の意識」あるいは「人間の本質」に隠されている問題と観なければならなかろう。『電荷』という虚像 エネルギー(energy)とは? 『静電界は磁界を伴う』の解説  新世界への扉ーコンデンサの磁界ー 等にその訳を記した。

電気磁気学の数学的論理の問題 電気は数学の応用分野のように、数式による解釈が論理の中心に成っている。しかし、それが高度な数式の場合は、実際に電気回路設計になど全く使われていないと観て良かろう。精々オームの法則ぐらいだ。今では『電荷』が矛盾概念と成って、クーロンの法則に関する距離の逆二乗則など何の意味をも持たないのである。皆嫌いな数学的論理に悩まされて、科学・理科が嫌いになっているのだ。二次方程式を解いて、虚根を得たからと言って、そんなものは『虚時間』論と同じ全くの無意味である。虚数は現実世界に存在しない事を理解する為なら意味があろう。虚数が現実世界に存在するが如き指導は間違いである。今欲しい数式は、衝撃波の周期関数表現である。光の空間伝播式が欲しい。複素数を解剖する 虚数は自然描写に役立つか  光とは何か?-光量子像ー等にその関係記事。

学習と考える

『学習』と『考える』という間にある意味の違いを『考え』てみる。筆者が今、辿り着いたと思う自然科学の世界は今までの教科書的科学論とは余りにも懸け離れたところにある。それは現代物理学の世界的に認識された、科学常識の理論と全く異なるものである。何故人と異なる考えに到達したのかと、その原因を手繰り寄せてみたい。その事を『考える』という言葉の意味の中に探ってみたいと思った。『考える』という意味には、今までと異なる、あるいは自分が知っている事・知識と異なる物事に新しく挑戦して、より理解などを深めるという意味があるように思う。兎に角自分にとって新しい局面を切り開く場合に『考える』という意味が当てはまると思う。学校で、はじめて学習する場合の、学習内容も当然その『考える』中に当てはまるだろう。ところがその学習内容を、十分納得して、理解するまで考えるかという問題がある。教科書の内容はあるいは先生が教えることはすべて正しいと、『考える』事をせずに済ましていないかという問題である。『学習』は一通り教室で、先生の言う事を聞いて過ぎればそれで済んでしまう。誰もが社会的常識として広く合意を得ている内容なら、それを素直に受け入れるのが普通の理解の仕方である。だから耳や目で確認し、一つの認識の過程を通り過ぎれば『学習』の形体は成り立つ。『学習』という文字の意味をどのように解釈するかとなると、『学習』と『考える』の二通りの意味に分かれるように思う。辞書を引いて、『学習』という意味を理解すれば、それは『学習』であろう。しかし『学習』という意味を自分で辞書にある意味以外にもう少し深く、あるいは自分なりの解釈を付けると成るとそれは『考える』の意味に近くなると思う。もともと『学習』の文字を見れば、『習』は習うという意味で、むしろ考えるというより慣れる・習熟するという意味に成ろう。『学』も中々意味深長で、簡単には片付けられない。しかし『習』より学ぶという事で、『考える』比重が重くなるように思う。そんな意味の二文字で、割合軽く習うこと、あるいは習熟の仕方を学びとるぐらいに解釈してよさそうに思う。

『考える』 人それぞれに学び方に特徴があろう。自分の事で恐縮であるが、記憶力が極端に劣ると悲観していた。何故そうなったかは何らかの理由があると思う。所謂『学習』があまり得意でない。言い換えれば、偏っていると思う。記憶の訓練を怠って来たから、脳が記憶の訓練を十分しなかった為に、その機能が劣ってしまったと思う。脳はそれぞれの成長過程で、それなりの訓練と鍛え方で、その脳の機能は個人的な特性を備えるものと考えている。その事は『基礎科学』とは何だろうに示した。記憶力を鍛えなかったが故にか、全て理屈を付けて理解するより脳に蓄える術が無いように成ったか。だから理屈は強いと思う。本を読む時も、遅い分それは本当かと疑いながら読み進む傾向にある。自分の感覚と付き合わせながらそれを理解する。上の『基礎科学』云々も勝手に自分の考えをまとめただけで、全くの素人論でしかない。しかし、筆者は誠に気に入っている解釈である。それは自分の考え方の方向性を感覚的に捉えて書き表したからかも知れない。どこにも無い、あるいは常識を覆すようなことを表現するには相当『考える』作業が要求される。不図気がついて、過去の記事を読んでみた。學力とはの筆墨がある。似た記事に知識と智慧を書いていた。偏屈な自分の考え方が記事の中に溢れている。悪い癖は皮肉が多い事と思いながらも、自分の記事を読み返して、中味は良かったかと確認をする。その時の想いであれば止むを得ないと覚悟して。

教育者側 先生といわれる立場の方々は既に教科書の教科内容については十分知識を備えている。だから、改めて教育内容について『考える』事をほとんど必要とは思わない。特に教育法を工夫して、その積み重ねを続けることによって、益々自信を持ちその社会的常識のルールから逸れる事は決して許されないと思う事に成る。それはその人の『脳機能』の方向性が固まってしまい、常に物事の考え方が専門という業界方式から外れられない。極めて保守的な思考形態に縛られてしまう。一つの教育内容や教育方法を守り、少しの手直し程度で十分改革的だと考える。だから、決して原理・原則・法則を疑う等という根本的な思考の『考え』は浮かばない。捨てる事がどんなに心細いかは、その経験以外に知る術はない。昭和62年夏、人に信じられない『電流概念』の破棄を電磁界研究会での表明を記した。しかも自分の身分が全く暗闇の中に居ることを薄々感じながらの覚悟。その覚悟は今も間違っていなかったと気持ちの昂ぶりを誘う。決して教師は自分の積み重ねた過去の指導内容を捨てる事は出来ないだろう。それは同じ内容の教育にしか携わらないから、他の観方が出来ない環境にあるからがその原因である。ここで断っておかなければならない点は、自分が今になればとても恵まれた(?)環境であったと言える。長岡技術科学大学から追放されて、長岡工業高等専門学校で抹殺の為の全く異分野の教科を指導した経験である。高等学校でも教えた事の無い教科『電気磁気学』を突然高専の4,5年生に指導する事に成った点である。専門らしき分野は『半導体静止電力変換回路』の開発であったが、突然の電気磁気学の指導は精神的な負担が大きく、そのストレスが神経を過敏に研ぎ澄ませた事も一因だろうと思う。しかも教科書も無い演習であれば、全て手作りの授業である。ポインチングベクトルで全てを解釈する授業体制を採った。そんな授業はどこにも無かろう。アンペアーの法則、ファラディの法則などに矛盾がある事を授業内容の中で認識を強める事に成った。これらは教科書の内容を否定する事であるから、『考える』そのものの意味に成る。授業内容が現在の筆者の自然科学認識を生み出してくれたのだと感謝すべきかと思う。

『電荷』否定 科学概念の中で、最も根源的な基礎概念が『電荷』である。その存在を否定すれば、もはや科学論として成り立たないと見られる。何故そんな『電荷』否定に到達したかを『考える』事の意味に触れながら論じたい。 『電荷』否定への道でその詳細を述べたい。『電荷』の否定以外真の自然科学の未来は開けない。

戻り方は『考え』られない 自然科学の矛盾は納得できる解決が可能。しかし、舞鶴鎮守府、「香取丸」戸籍の行政問題の矛盾は納得できる解決の仕方が見えない。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府

アッツ桜に思いあり

アリューシャン列島の端に、アッツ島とキスカ島がある。アジア太平洋戦争の日本兵の玉砕した島がアッツ島である。アッツ桜はその島の芝桜であろう。アッツ桜

アッツ桜 きっと北の短い夏を彩る花だろう。花に雌しべが見えない。そんな孤島、アッツ島で戦闘を命じられた兵隊はどんな思いでいたのだろうか。食糧の補給計画も、その余裕も無い初めから無謀な戦いを命じられた兵士の思いを考える。アメリカ軍を相手にどんな戦いをして、何を最終的な目的に描いていたのか。日本人の、日本連合艦隊の軍事参謀の未来予測の立たない滅茶苦茶の計画。ただ腹芸で分析力の無い、幼稚で、無謀な政治政策。今の日本の行政官僚、政治家の外交・内政に対する手法も当時と余り変わりない状況が読み取れて、大変気掛かりである。厚生労働省の行政計画の余りにもお粗末さは、今朝の新聞のアルツハイマー研究の記事にも有る通り、年金問題から、老人介護問題などどれをとっても未来予想に基づいた適正な行政計画など出来ていない。政治家も老人の選挙対策上、財政破綻を見ぬ振りしてやり過ごしている。少しもあの戦争の無謀な姿とどこも変わらない。秘密保護法、集団的自衛権全て的確な未来予測の欠落した政治状況に見える。戦争の日本政府の検証が無いままに来た日本の欠陥がいつでも、日常政治手法に噴き出す。

アッツ島 アッツ桜の花が、日本よ二度と誤りをしないで欲しいと、玉砕した兵士の思いを伝えていると思うのだ。

キスカ島 昭和17年夏、父は舞鶴鎮守府、特務陸戦隊員としてアッツ島の軍隊の苦境を立て直し、救うために「北潜戦隊進駐救援作戦従事(軍歴表の墨塗り部)」。昭和18年7月明神島発、占守島着を経て、命からがら北海道に辿り着いた。食料も、武器も無い中で、戦闘が出来る訳がない。気が狂う者も出たと。蛇やネズミを食べて生命を繋いだ。ネズミなどは高級な食材であったらしい。ドラム缶の中で湯に入っている最中に、攻撃され頭を湯に潜していると、弾丸がその湯の中をプシュと音を立てて行く。撤退する時、天の恵みで雲が上空を覆った為に、敵の戦闘機から逃れて帰れた。故郷の駅に着いた時は、立つ事も出来ず、信策祖父ちゃんに背負われて家に辿り着いた。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府

雷は熱爆発

結論を言う。雷は天空の暴れ者。熱の爆発だ。月に雷は無い。生命豊かな水の星、地球星の天空の饗宴だ。雷は熱爆発

水蒸気の持つ『熱エネルギー』と上空の『寒気』との間で繰り広げられるエネルギー平衡調和現象が雷の本質である。何も電気や『電荷』などでは御座らん。自然は複雑は嫌いだ。素粒子など決して望まない。

雷の姿 雷は恐ろしい。それは落雷時のその稲妻にある。その高輝度の天上から地上までに繰り広げる光放射現象だ。その光の筋に捉えられれば、生命は無い。光は何故屈曲した筋状の形状で、放射光を放つのか。しかも細い筋で、強烈な放射光である。落雷と放射

上手くない絵図ですが、光の形状を描いて示す。発光の屈曲する筋状の意味は何だろうか。

 

上昇気流の熱放射 雷は空間の熱爆発現象。その解釈を示す。上昇気流の熱放射地表の温暖の空気は水蒸気の存在により、大きな熱エネルギーを内蔵している。そこに上空が寒冷気流に覆われると、上空で空気が冷やされることに成る。特に空気中に水蒸気が多ければ、水分子の占有空間体積の急激な収縮が起こる。その空間の水蒸気の水滴化で、空気圧の急激な低下を来たす。上空の低気圧である。地上の気圧は温暖空気の高気圧にある。その地上との気圧差が上昇気流を活性化する。水蒸気分子の空間体積の増減現象を、ボイルシャルルの法則通りに捉える事で初めて可能な解釈である。水H2Oの分子は保有する熱エネルギーによりその体積が変化する。気体分子運動論の否定からの解釈である。沸騰を読むー原子と寸法ーに因る。また上昇する気流は、上空に到達する前にも、途中の空間に熱エネルギーを放出しながら上昇すると考える。上昇気流によりその近傍の空間には、多くの塵芥も吸い上げられて存在すると考えた。空間に放出される熱エネルギーは、光エネルギーと異なり、単独に空間に存在し得ないから、質量保有の塵芥などに吸収されて残ると考える。当然上空において大部分の熱エネルギーは放出されるから、空間の熱エネルギー分布も上空ほど多くなる。上昇気流の空間領域は全体的に熱エネルギーの蓄積量が過剰気味になっている。

塵芥と屈曲放射光 空間に蓄積されれ熱エネルギーは、塵芥などに蓄えられる。蓄積熱エネルギーの空間保有限界値に達した時、突然熱エネルギーの爆発現象に至る。それが雷である。その稲妻の屈曲状の放射光に成る訳を考えた。屈折放射光

③の上昇気流の途中の空間に放射されたエネルギーが塵芥に保有される。その塵芥の有り様が空間熱爆発時の形状を決定する。簡単にそのように解釈するだけである。検証方法は無い。ただ感覚的にそう捉えると言う以外、説明の仕様がない。空間に『電荷』が無いという事と同じく、科学論として実験的に検証する事など出来ない。

入道雲 間もなく熱い夏が来る。入道雲は夏の風物でもある。晴れ渡る青空にモクモクと立ち上がる真っ白な雲は人の目を惹く。最後に載せる絵図。入道雲

 

 

 

沸騰を読むー原子と寸法ー

夕飯のおかずはロールキャベツだ。合挽き肉からキャベツの葉に巻き込むのも結構難しい。落としブタで煮込みをしていると、蓋の周りから沸騰の蒸気が噴き出す。眺めていて不図思う。この水蒸気は水分子がボイルシャルルの法則に従って、体積膨張をしたものだと解釈しながら眺めている。物理学理論によれば、水分子の体積膨張とは解釈せずに、気体分子運動によって解釈するのだろう。ボイルシャルルの法則は、気体分子運動論から見ると、どこに行くのだろうか。まさか水の沸騰現象だけは「ボイル・シャルルの法則」で解釈するのじゃなかろう。ナベ底の水分子が、加熱されてそれ以上の熱エネルギーを吸収し切れなくなったために、水分子が極端に体積膨張して、供給される熱エネルギーを沸騰として外部に放出するのだ。水の分子は水素二つと酸素一つの化合分子だ。一気圧で、体積膨張する訳だから、膨張時の分子の空間寸法はとんでもなく大きい。その時の酸素も水素もその原子そのものが空間的に体積膨張すると考えなければならない。原子が空間寸法で拡大するという原子の解釈は無いようだ。原子論では、外殻電子の周回軌道半径が拡大するという解釈だ。その半径は水の沸騰時の体積膨張などとは考えていない。そもそも外殻電子の周回モデルなどの原子構造は考えられないから、全く別の原子像を考えなければならない。水の沸騰現象を見て、改めて原子寸法を全く違う認識で捉えなければならないと感じた。

水の沸騰を読めば、原子構造・寸法を考え直す。酸素原子も水素原子も沸騰で爆発的に体積膨張する。気体分子運動論は間違いだ。原子もエネルギーの局所化による質量的観測形態でしかない。熱エネルギーも原子質量と本質的に別物ではなく、ただその観測者側の概念的常識論が問題なだけである。

水素爆発の意味が理解できない。水素が空気中に7%になると爆発するという。酸素との結合と思うが、燃料電池の意味にもなるが、何故水分子になるとエネルギー放射するのかが理解できないのだ。水のお伽の世界 。

昨日の明けた今朝、やかんで湯を湯を沸かしながら沸騰の様子を見た。少しも水蒸気の体積膨張の様子が見えない。ただ水面がぼこぼこと波立っているだけで、水蒸気が膨らんでいるとは見えない。昨夜は、ロールキャベツが立派な味に仕上がっていた。美味かった。ロールキャベツの煮方は、内蓋に皿を使って煮ていた。表面は肉の煮汁で、水面と言うより油面となっていた。だから水蒸気が体積膨張した球状の塊のまま鍋の煮汁表面の縁から噴き出して来たのだ。それを見て、気体の体積膨張を読み取ったのである。水の沸騰現象は、表面に油があると良く観測できる。勿論、ロールキャベツのアク・油は途中で、表面からよく取り除いて食べた。日常生活の中に、自然は素顔を見せてくれる。自然に心を寄せてこそ、自然科学と言えよう。少しも研究費が掛らない真の科学論。今回、材料で『干瓢』を買えなかった。もう伝統的な食材も手間がかかり、職人が消えて行く悲しい思いを味わった。経済成長は、伝統的職人が消えて行く事なんだ。

憲法九条 戦争放棄を読む

過去と現在と日本国憲法 日本国憲法は国権・政治的権力を規制するものだ。大切な憲法の九条の意味をもう一度読み返して、考えて見よう。今、日本が再びアジア太平洋戦争の前夜の政治状況に戻ろうとしている。安倍総理大臣の政治的思考・行動は、丁度ドイツのヒットラーの時代に似た雰囲気を醸し出しているようだ。当時のドイツでも、様々な不安や不満を吸収する気分の高揚感を煽って進行し、気が付いた時には独裁政治の渦に巻き込まれ、後戻りできない戦争と悲惨な結末を迎える事になった。初めはみんな特別意識せずに引き摺り込まれるのである。他人事と思う油断が、後の祭りだったと気付く事になるのだろう。今でも、日本は周辺国から戦時における賠償問題の解決を迫られている。日本人自身があの戦争の問題を検証しないで、ひた隠しに過ごして来た事がその原因となって、いつまでもぶり返しているのだと思う。連合国に因る東京裁判で戦争責任を問われた。しかし、日本人自身が、日本政府があの戦争についてどのような公式の検証をしただろうか。国民にその公的な形で、戦争の総括をして示しただろうか。そんな検証結果が存在しているだろうか。日本国憲法 戦争放棄と国民主権

日本国憲法の制定 敗戦時に、もし日本自身が憲法を作るとしたら、それは明治憲法と余り変わらない物になっただろう。GHQの施政下で、無謀な戦争に導いた神格天皇制での国家全体主義の政治体制が断罪され、国民主権の民主主義政治体制に改められた。戦後新しい『日本国憲法』が発布され、教育の場でも教科書に準じた副読本としても使われた。その憲法は、アメリカのGHQの精鋭が憲法の専門家でもないにも拘らず、昭和21年2月頃、僅か数週間で創り上げた原案が基になっているとおぼろげながら記憶にある。その中でも、特別の条項が第九条の戦争の放棄である。また基本的人権と男女平等の精神が民主主義の基本理念として輝かしく詠われている。その部分を上に示して、その意味を読み直してみた。

戦争を知らない世代と平和ボケ しかし、戦後の長い歴史の中で、経済的に目覚ましい復興を成し遂げて、世界第2位の経済大国を経験するまでになった。国土も狭く、資源も少なく、人口もそれ程でない中で、何故それだけの経済成長を成し得たのだろうか。敗戦後、ポツダム宣言によって新たに世界の一員に成れた。第九条があるから、危険な日本の過去の恐ろしさはもう無いだろうと、近隣諸国にもある程度の安心を持って受け入れられて来た。後はただ平和な争いの無い中で、仕事をすれば良かった。経済成長で、豊かさを追い求めて来れた。その豊かな生活が染みついた後で、その科学技術の開発競争の限界に辿り着いてしまった。一度豊かさが当たり前で過ごして来た生活世代の多くの者が、経済成長と言う皆が分け合う所得配分が成り立たなくなったため、精神的な不定愁訴を抱える原因となってしまった。限られた所得の中で、所得を取り合う競争が格差を助長して、極端な貧富を生み出し、経済力で強圧的な人間と貧しさで生活困窮者の分別社会になってしまった。経済性だけが人間の競争の原則・道理のような意識構造が社会常識のように出来上がってしまった。昔の隣同士の関係が、今は世界に広がり、近隣諸国が隣近所の諍いの対象になってしまった。戦争がどんな悲惨な結果を導くかも知らない世代は、武力を使って相手をねじ伏せようとの思いをいとも簡単に行動に結び付けようと考える。誰かの第三の矢の如き経済成長と言う豊かさに結びつく方策は既にない。人の旨みを奪い去って利益を得る以外ないのだ。資金力で強圧的に従わせようというのが現在の日本の政治、安倍内閣の思考・方向性である。

第九条 戦争放棄と武器使用 どのように読み直してみても、武器を使用して良いと解釈できる余地はない。集団的自衛権と言う用語自体が歴史的に長く論争に使われて来たが、武器を使用して国内以外で紛争、問題を解決する余地を条文から読み取れない。国際的にどんなに状況が変わっても、日本国憲法の九条には、武器・武力を使用する解決法は許されていない。国内にミサイルが飛んで来るような場合に、撃ち落とすのは九条に決して抵触はしない。それは戦闘には当たらない。外国や、領海外で武器・武力の使用はどう条文を読んでも、九条からは許されない。戦後、武器の使用が無い事がどれだけ日本が信頼されて来たかは言い尽くせない。

基本的人権と国民たる要件(影武者『法例』支配の日本国憲法) ここで、次に基本的人権が続いている。その第三章が日本国憲法の民主主義を保障し、規定する条項である。第十条には、その基本的人権を保障する国民たる要件が法律(法律とはどの法律か?)で規定される。全てが基本的人権を保障される訳ではない。そこに『法例』がある。明治31年に制定された法律(?)である。今までその意味が理解できなかった。憲法以上に隠された秘密があるようだ。戦後に新しい日本が誕生したと言っても、日本国憲法の人権を決めるのは明治の法例である。昭和22年に改正があった事は憲法施行に伴うものだろう。その後、戸籍に関する法例改正要綱試案(1961年に婚姻の部、1972年に親子の部)があった。法例の改正に関して、昭和39年佐藤栄作内閣?、昭和61年中曽根内閣、平成元年竹下内閣法律第27号による全面改正がある。この法例は皇室典範等と同等の分類にあり、日本の法律体系の重要な基本に位置付けられている。気掛かりがある。霞が関の外務省が私に対して執った扱いは尋常ではない。平成7年7月7日の事件。外務省の5階まで、私に一人で事務次官室に行くことを何故許したのか。その時省内は薄暗く、誰ひとりとも出会わなかった。ただ一人、職員(田辺さん?)が居て対応した。他に誰もいないとは?全員どこに雲隠れしたのか?また、当日は霞が関一帯は、厳戒な警備が張り巡らされていた。法務省、自治省なども廻った。翌日は最高裁判所東門で、『国とは何か?』の文書と舞鶴鎮守府に関する訴えの文書を最高裁判所長官あてに、秘書官がおいでになったので手渡した。丁度その8月の沖縄基地の使用期限切れの裁判判断の時期である。法例とは何か?法例は『日本国憲法』を明治の亡霊が闇の中から支配している『影武者法例』である。日本の政治制度は『日本国憲法』で民主主義体制になったと考え違いをして、騙されていた事になる。昭和22年の憲法発布(5月3日)に合わせて、法例は廃止すべきであった。全てを新しい法制度にすべきであった。春・秋の叙位叙勲の褒章制度も明治の国家体制の残骸、明治の訓令がその法的根拠として、そのまま踏襲されている。今も明治の国家権力支配制度が、多くの面で日本人の精神構造を非民主的国家体制により蹂躙しているのである。法例が日本を明治的全体主義の疑似民主主義国に操っていると観る。民法・刑法が明治のままに、いつまでも変革・改正できずに旧法が最近まで、引きずられていると観る。私に対する、省内に勝手に入らせるなどと言う論外な対処は私の存在を否定したものと同じで、その外務省の対応が、日本国憲法の基本的人権保障の対象外である事を示しているとしか思えない。誰にでもそういう対応をするのなら理解でき、許せる。しかし、舞鶴鎮守府の香取丸戸籍の除籍の後の、偽装戦後処理はどう理解すれば良いのだろうか?

印刷機能不能 印刷しようとすると、「Internet Explorerは応答していません」とでて機能しない。

『熱』の正体

ザ・ピーナツが唄った有名な歌がある。恋のバカンス、岩谷時子作詞、宮川泰作曲。ため息の出るような あなたのくちづけ 甘い恋を・・。恋のバカンス 熱い砂

これから暑い夏が来る。そんな季節に似合う『熱』の歌か。歌詞にある「金色に輝く熱い砂の上で」の熱い砂の意味に『熱』の意味を探ってみようかと思った。

気体分子運動論を斬る 『熱』をITで検索すると、その正体を妄想物理学論で解説されている。妄想と言っても、現代物理学理論の世界の常識論として幅を利かせている論説である。皆そんな解説を覚えなければならない科学常識が世界に蔓延している。誠に悲しい事である。実力も無いのに、若さぶって熱い砂の上で、裸で恋でもしたいものだとこの妄想を膨らましてみた。『熱』が気体分子運動論で処理されている現代物理学は正さねばならない。『熱い砂一粒』の中に『熱』の世界を感じ取ろう。科学的自然観を素直に表明すれば、また嫌われる。

砂粒一つ

一粒の砂 砂一粒に『熱』を重ねて見た。ウイリアム・ブレークの詩文の一部を添えた。エネルギー(ENERGY)とは?にある。その言葉も丁度ここで『熱』の本質を見抜くに当てはまるようである。哲学的で、その深い捉え方が気に入っている。裸で砂の上に二人寄り添えばどんなに暑かろうかと妄想が膨らむ。下から砂の『熱』が皮膚に射し込む。そうです『熱』が射し込むのです。決して砂の中の分子運動が恋をやっかんで、振動して皮膚を傷める訳ではないのです。砂・砂の鉱物分子が振動なんかしていません。アチチ、アチチと砂がお日様に焼かれて、射し込んだ光の『熱エネルギー』を恋人同士の皮膚にエネルギー放射をしているだけなのです。皮膚に射し込むのが『熱』と言うエネルギーなのです。夏陽射しの中に立てば、太陽からの光が直接顔や衣服の面に射し込む為に、そのエネルギーが『熱』になるだけなのです。空気の振動が皮膚や衣服を振動させる訳では決してございません。振動されても熱くはなりません。光エネルギーが直接体の中に射し込むから『熱中症』と言うのです?これは冗談ですが、丁度『熱』が身体の『中』に入る事から起きる『症状』と読めば、現代物理学理論より説得力があるだろうと自画自賛したい。一粒の砂が赤外線、可視光線あるいは紫外線等の所謂熱線と言う光エネルギーを放射して、環境に比して余分なエネルギーの不平衡をエントロピーの何とやらで、平衡させる物理現象でしかないのである。高尚な市民の立入れない学識経験者の学理等申し訳ないが信用出来ない。一粒の砂の中に、その自然の心を読み取る事が出来るのである。自然を見ないという有名な物理学者の話も聞いた事がある。数学で世界が見えるように考えておられるようであった。数学などほんの一面しか自然を表現できないだろうと感じている。

 

熱とは内部エネルギー? 内部エネルギーと言う言い方がある。内部エネルギーとは何か。どこにどのようなエネルギーかと質せば、結局何かの振動エネルギーとなる。じゃあその振動エネルギーとは何かと質せば、実に曖昧である。アインシュタインのブラウン運動などが引き合いに出されたりする。目に見える物・ブラウン運動で解釈するなど滑稽である。『熱』を見る事は出来ない。光の正体を見る事が出来ないと同じ事である。景色や風景、物の姿を見る事は出来るが、光を見る事など出来ない。光は透明であり、形も姿も見せない。

 

エネルギーの正体 光を含めて、現代物理学理論は『エネルギー』の正体を認識していないのだ。エネルギーは振動もしていないし、姿も見えない。エネルギーの代表的姿は光と言えば良かろう。光一粒を見る事は出来ない。光速度に対応する観測の術は無い。光エネルギーの空間的像を描いた、光とは何か?-光量子像ー

私は役立たず

今も言われる。何の結果も出せない。人間の皮を被った動物と。確かに世間的には、誰が見てもその通りと思う。私は役に立てないままにある。アベノミクスで、経済が公明党も言う通り、第一の政治目的と。経済的利益に直ちに結びつかない、所謂基礎科学は財政的な支援も後回しになる。その中で、筆者のように、行政が抹殺して来た者が言う事は極めて迷惑となるり、即ち尋常な手法での対策を採る法的仕組みを作り得ないのだから、結局は役立たず者として無視する以外なかろう。日本においては、ただそれだけの事である。筆者も、自然科学に対する認識は、学術論の範囲をはるかに超えた根本的な深さでは人後に落ちないだけの自負はある。例えば、エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系など。だから、自分から学術機関の尋常な専門分野への参加による寄与の仕方も分からず、到底対応できる能力も無い。しかも高等教育に関しては全く経験も無く、その仕組みも分からない。せいぜい幽霊教職で過ごした工業高等学校の事ぐらいしか分からない。その職歴も書けずにどう社会的に役立つ事が出来ようか。だから人間の皮を被った動物と見られても止むを得ない。また、長く社会的制度の中に入れなかったため、仕事上の付き合いも無く、行政側に存在を迷惑がられる者に知り合いも長い人生で出来る訳が無い。個人で闇の世界で観察し、自分の感性を拠り所として思い描いてきた結果が、自然科学の基礎概念のほとんどが極めて人間臭い俗物概念であるという認識に辿り着いてしまった。この認識を世間的科学理論に戻して、学術機関との関係など築ける訳が無い。だから役立たずである。誠に申し訳ない、生きるに生活の保障も確保できない貧乏者である。残念ながら社会常識の世界から隔絶した世界で30年も過ごさざるを得なかったが故か、はたまた軍歴(私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府)にある原因を知った時すでに遅かった我が愚かさが故か、常識的には成長していない為『怒り』だけは消えない。人権侵害国家に対して。何故こんな事が起きたのか?新潟県教育行政の過去と未来ー犯罪?-

今思う。昭和24年4月、貝野村役場(新潟県中魚沼郡貝野村、昭和28年?村も分裂した)で秘かに行われた行政犯罪は何だったのかと。筆者は小学5年生(実際は別扱い?)になったばかりである。小学校の体育館で全校集会があった。背の低い、今から思えば政府の役人と理解できるが、少々太り気味に見える人物が、壇上に紹介されて上がり、話をした。話の中味は全く覚えていない。それは、役場での「戦後処理」作業を終わって、急遽の集会での学校側の要請による講話になったと理解する。それは、筆者の『原戸籍』の処理の日付に一致している事からの解釈である。昭和14年12月1日 舞鶴鎮守府へ戸籍轉籍 貝野村役場から。この戸籍轉籍以前からの戸籍事項が『原戸籍』から抹消された。戦後の昭和24年、戸籍の糊付による偽装工作で形式的に繕われた。しかし、実質的には存在の抹殺処理である。内閣や政府機関は軍歴関連の事件を『特定秘密保護法』を盾に関わらないであろう。

それは戦後の新しい日本が歩み出す中での出来事。アメリカの占領(施政権)下での日本の政治の立て直しの時期でもあった。既に、一応基本的政治制度の枠組みは整っていた。『日本国憲法』(その憲法が、戦争に負けた事に因り、戦前の明治憲法体制をひっくり返された。その国民主権の権力規制法で、人権尊重の基本概念が気に食わない自民党、特に安倍晋三自民党総裁(総理大臣)の思想的思惑が現在の日本の政治に混乱の種を生みつつある訳であるが)がその枠組みを規定していた。日本国憲法下での日本の偽装政治のはじまりがそこにも有った。日本国憲法で許されない行政犯罪である。それは、行政側の立場にすれば、何をしても違法でなく、犯罪にならない手本のようにも見える筈だ。その偽装政治・行政を手本として、その思考・手法が日本人の隅々まで蔓延しているように見える。体制寄り掛かりの役得官僚・政治手法に続いて現在に至っている。

生命のはじまりと脳

ヒトゲノムの解析が済んで、遺伝の仕組みが相当明らかになったのだろう。高校生の学習教科科目『生物』の内容を見てもとても難しい。せめて高校生の学習内容位は、それこそ常識として理解していなければならないだろうと思う。ところが歯が立たない程難解である。最近理化学研究所の生命科学に関する論文投稿問題の事件が世界を揺るがしている。生命科学はその最先端の研究が我々市民から見れば、余りにも内容が専門的すぎて、内容を理解するにはかけ離れ過ぎてしまった。そんな事で、少しは細胞分裂の基礎くらいは知らなければならないと思う。しかし、筆者の感覚と巧く噛みあう生物学になっていないようで、我が能力の無さを噛み締めるだけである。そんな中で、勇気づけてくれる写真に出合えた。生物とこんな形で関わる事の偶然が人生と言う意味なのかと感謝する。日本雨蛙の生態に触れた時と同じ自然の神秘かもしれない。その写真集が次の本である。ライフ写真講座ータイム ライフ ブックスーを見て に挙げた例の写真に感動した。その写真をここに載せさせてもらう。ライフ写真―輸卵管組織ー

ライフ写真―生きている胎児―

 

 

 

 

 

 

 

 

この二枚の写真は、ライフ写真講座全15巻の内の1巻、特殊撮影からの拝借である。その人体の神秘をさぐる部の中で、生命のはじまりと言うページp.178(レンナルト・ニコルソン「輸卵管組織」1970年)とp.179(同 「生きている胎児」1965年)の二枚組である。

素人無鉄砲流感覚 素人は柵(シガラミ)が無いから自由奔放に解釈できる。その素人なりに、生命のはじまりについて考えた。ここでは『生物学』の学問的解釈と違った観点からの考えを述べる事になりそうだ。自分の脳細胞が減少している中での生命解釈など当てにならないと見られよう。しかし、結構得意になっているのである。しかし、意見を公開するには、それなりの緊張と不安が入り混じる恐ろしさを抱えている。その緊張は精神に刺激を与えるから、脳の活性化には役立つかと甘んじて受け入れる。生命のはじまりは母の胎内での卵子の受精から始まる。その受精卵が生命の源として、新たなたった一つの世界に育つのである。人だけでなく生物に二つと同じものは無いと観る。その生命の原型が人に育つまでの第一歩がどんな神の秩序で船出するのかと思うと、その謎の深さに言葉も無い。それを『受精卵の秘密』とでも名付けようかと思う。おそらく第一の『細胞分裂』程、生命の輝く瞬間は無いだろう。そこに全てのはじまりがある。どんな意味の細胞分裂なのだろうか。

受精卵の秘密 何の手掛かりも無く、ただ感じるままに思い描くのである。しかし、そこには上に載せた「生きてる胎児」の写真が切っ掛けになっている。思えば今まで自然の生物の成長する姿を眺めていた事の中に見た光景が重なって来るのである。例えば、オタマジャクシを見れば、その卵塊からの成長の過程で、頭だけが大きいのは誰もが知っている。当然お腹も頭のように見えるだけかも知れないが。何故尻尾がそれほど長く伸びなければならないのかも理解に苦しむ不可解な成長過程である。結局尻尾は不要となり体の中に収まってしまう。あるいは尻尾の長さまで腹部が成長して、尻尾の役目を終わるのかもしれない。そこまで詳しく観察はしていないから曖昧である。何を考えているかと言えば、成長の秘密になっている事は、先ず『脳』から始まる点に有ると言いたいのである。脳が生命のはじまり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無色無受想行識

 

学識経験の無い素人が生命のはじめの姿を想像に任せて描いたものである。何かオタマジャクシに似てしまった。細胞分裂と言う生物学の理論からは程遠い絵図である。母体の中の暗闇で、生命の輝きが始る。受精卵と言うたった一つの細胞が生命を形作って行く。何も見えない、何も聞こえない何の導きも無い全く何も無い『無』の世界から歩み出すのである。この初めの『受精卵』も既に細胞としての生命である。エネルギーからなる原子分子で構成されて、複雑なDNA、蛋白質など必要な要素を備えた立派な生命となっている姿と言えよう。受精卵が起こす生命の革命は父方母方の両方からの遺伝情報のDNAをどのような何方の軍配の采配で46個の遺伝情報に組み替えるかに掛かっていよう。そこから遺伝情報の生命の法理に従った伝達が始ると解釈する。細胞分裂と言う伝達の方程式に載せて、どのように生命の形を構築して行くのだろうか。DNAの染色体に依って、教科書的な、大学入試対策方式解釈で、細胞分裂が続くとしたら、その結果の生命体は同じたんぱく質構造の肉塊にしかならないように感覚的に思える。人体構成の采配は細胞分裂論等及びもつかない神秘の営みで進む筈である。教科書的複雑な論説等特別覚えなければならない意味など何処にも無いと思う。遺伝情報を伝える人体構成の『シーケンシャル制御』の基に起こる細胞分裂の変幻する意味が最も重要な事である。人も『脳細胞』、『中枢神経』そして『末端神経』の生命構成の指令伝達系が初めに構築されると読んだ。それは農作物の生長を見れば、その姿の変化に生命の営みが読み取れると思う。どこが成長するだろうか。初めは先端の春の息吹と言う『新芽』が伸びるのである。同じ生命現象と観ればそう基本的な違いは無いだろう。DNA、ゲノム解析で、相当の部分であらゆるものに似た傾向があると聞いた。それは生命の成長方程式にそれ程の違いが無いからと観なければならない。最先端は常にその環境を認識しながら、成長する方向や成長方法を『中央神経系の元締め・脳基幹』に情報を伝えながら生命の構成を計っている筈である。だから『細胞分裂』は自然の摂理に従った変幻自在の基で進んでゆく筈だ。同じ細胞分裂では肉の塊にしかならない。生命など決して生まれない。くだらない生物理論の一面的な内容を『金科玉条』の如くに信奉する宗教教義様教育だけは止めなければならない。何故そのような自然の仕組みなのかと考える内容の教育にしなければならない。少ない内容でその訳を『問答』する考え力の養成の教育にすべきだ。文科省の検定教科書制度が考える教育の最大の阻害になっている。自主性を踏み潰す政府(国家)主導全体主義教育だから。この事は日本の行政全体、日本人の政治意識に深く染みついた体制指向に原因があろう。新潟県教育行政の過去と未来ー犯罪?-はその個人的事実である。

神経系統の意味 ここで生命の成長する姿を想像して描いた事には神経伝達の方式に関係しているのである。脳から制御信号が『神経細胞』を通して伝達されるとの認識が常識であるように思う。しかし筆者の解釈は違う。全て末端からの外部事象の情報を伝達するのが神経細胞の役割と解釈する。その事が上に述べた成長の過程での神経系統構成の意味に繋がると確信できた。生体構築過程ですでに外部事象の検知機能の役割を創り上げていると考える。制御工学的手法に有る『フィードバック制御』の制御対象の状況を伝える役目が「帰還回路」に課せられている。その「帰還回路」が『神経細胞組織』に対応する。その関係は脳と生体制御の謎や『基礎科学』とは何だろう に述べた。