原子を不思議に思う。科学論では原子に疑問を挟む事は無かろう。しかし不思議な存在と感覚的に受け取らざるを得ない。
そんな思いを筆にした。少し意味が分かり難いかもしれない。「いつ誰が創った」は、原子は周期律表に有るように様々なものである。宇宙の自然が作り上げたのであるが、単純を尊ぶ自然が何故こんなに多くの原子を必要とするかと不思議に思う。その意味を表した。「輪廻転生の道理は」は、自然はすべて移り変わる事を、生まれてまた消え去る繰り返しの世界が自然の道理であるから、原子もその道理に沿う筈と言う意味。「決り文句に・・」は、科学論特に教育において、『原子』は世界の存在の基本物質で、永久に変わらない物、世界の認識も「道徳」を教科にするような決まり切った固執の社会感覚は捨て去るべきとの意味である。
人類は世界を形造る基本は何かと哲学的思いを抱いて来た。物理学も化学も生物学も基本に原子を据えて考える。世界を思えば、そこには『原子』が舞う世界かと考えさせられる。しかし、何か物足りなさを禁じ得ない。それは素粒子論の研究対象であるかも知れないが、科学研究の対象としての捉え方では、普通の生活感覚からは違和感を抱かざるを得ない。
『原子』もエネルギーで構成された世界の実在形態の一つの過程でしかない。だから全ては変化の中に舞う実在と捉えたい。素粒子ーその実相ー。