科学と行政ー振り返って未来をー

日本の科学研究がその質と品位で問われている。残念ながら「STAP細胞」事件がその象徴的な事となった。小保方晴子ユニットリーダーと理化学研究所の問題として世界にそのお粗末さを曝した。理化学研究所が発表した検証結果と小保方研究員が不服申し立ての間での詰めの甘さが何故かと疑いの思いを増幅している。何故もっと詳しく調査時点で、理化学研側の調査委員会は小保方氏から詳しく中味を質すことをせずに、曖昧な結論を発表したのか。小保方氏はSTAP細胞は出来ていると主張しているから、それを確認するのが再度の結論に至るに最低の果たすべき責任であろう。市民に対しての責任である。 自分も、能力がなく一人悩んだ27年前を思い出した。長岡工業高等専門学校(中曽根臨時教育審議会の抹殺人事計画)での殺害から生命を守る戦いから逃げて、長岡技術科学大学に戻った(昭和62年、1987年4月)。しかし、戻るべき場所も無い事も考えずの暗夜行路の旅立ちであった。何故殺害されるかの理由が分からない。当時の自分はもっとお粗末で、大学と言う組織の意味も、研究体制も理解していなかった。だから、世間的常識にそぐわない行動をとっていた。周りには誰も相談する人も無く、常識外れの道の上で、何をすれば良いかが分からずに笑われ続けていた。結局長岡技術科学大学に居られなかった。昭和63年9月こっそりと引き払って逃げた。10月にびわ湖湖畔での、電気理論研究会があり、2年前に、長岡工業高等専門殺人学校で採り纏めておいた『静電界ギャップ内の磁気模様』の写真データの投稿資料の発表をした。それからは自己確認の旅に彷徨い続けた。それから10年以上経ってはじめて、自分の自己確認が出来た。舞鶴鎮守府への戸籍転籍が軍歴表に在る事を知った。それが分かっていればもっと何とか抗議も、戦う術も有っただろうが、全くの無手勝流の暗中模索は手足の無い達磨でしかなかった。気付いた時は既に10年過ぎては遅かった。既に研究する所属組織も無く、過去を手繰り寄せれば、どこまでも寄る辺ない自分を知るだけだ。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府。ただ一つ残された自己主張の道は、科学理論の『嘘』を暴く事だけであった。ここまで来て、『電荷』の存在否定と、電荷概念の噓の実体を暴けたという自信だけは得た。ただ、最近日本政府の教育行政機関である文部科学省が、「教育勅語」を国立国会図書館からを拾い出して、完全廃棄した戦時の教訓をひっくり返して、過去に戻そうと画策しているように思える。一体これからの「科学教育(理科教育)」をどう未来に勧めて行くのか、文科省の意識が危険極まりなく、とても心配である。教科書の検定制度がとても教育には危険であると思う。最近になって、新潟県の違法人事行政の意味を知った。教員として働いたと思っていたのに、昭和39年の春から、新潟県教育委員会からは、何の採用通知も無く、辞令交付も無く16年間に亘って過ごした履歴は何だったのか。文部省にも関わりを持ったが、一体その行政はどのような正当性があるのかと今に思う。結局、舞鶴鎮守府の日本軍に関する事項を私の全てを抹殺する事で消し去ろうとしていたと理解できる。戸籍が糊付の偽装工作を通す日本政府で、法務省・外務省・総務省全ての政府機関が関係している問題である。こんな犯罪行政が罷り通る日本なのだ。新潟県教育行政の過去と未来ー犯罪?-。日本に真の科学が育つかとても心配だ。今回の理化学研究所の問題にその心配が重なる。

幽霊人事の顛末記 誰もが理解できないと今になって思う。①新潟県立新津工業高校から長岡技術科学大学への移動。川上正光学長との面接で、割愛人事と言われた。しかし割愛人事とは何かも知らなかった。最初から『助手』と言う話で決まっていたから。しかし、どうもそれはおかしい事だったようだ。②長岡技術科学大学から長岡工業高等専門学校への移動。大学では大変邪魔な存在であったようだ。移動の3月に、急に石崎電気系長から人材を高専で欲しがっているから行かないか?と話があった。不安のまま決まった。高専の村山助教授の研究室に居候の形で自分の研究室でない間借り研究室形式となった。この事は、その部屋には誰でも、何の目的にでも、例え薬物でも、自由に入れる仕掛けと成っていたのだ。村山助教授は研究室の名札もそのままで、2年後に戻るという話。自分も元に戻るという話。ここでの教育環境は、学生実験の担当は細貝教授(ネズミの小便の電気配線における影響を卒研での課題にしていたように聞いた)の実験項目を代理で2年間させられた。授業はほとんど全て、中曽根臨時教育審議会の名の下で、盗聴から授業風景の写真撮影まで、限りない人権侵害を尽くされた。電気科の教官会議では学生の成績に関する話は一度も聞かないで過ごした。卒研の評価もどのように成されたかも知らない。すべて筆者を除外の扱いか?生命殺害の危険を察知し、飲み物食べ物全てを鍵掛の金属工具箱で厳重に管理した。昭和61年9月から翌年3月31日まで、1日も欠かさず幾つかの鍵や鍵穴封印の紙を準備して、生命を守った。③長岡高専から長岡技科大への移動・逃走。昭和62年3月末が予定の期限であった。長岡技科大で邪魔者であった訳だから、帰れはしなかったのだろう。ただ、昭和61年8月、長岡技科大で電力部門の研究会だあった。その時発表したのが電力技術理論として、自分の自信作の「空間瞬時ベクトル解析法と交直変換器への適用」である。きっとその画期的な内容で、邪魔者の見直しが語られたのだろう。しかし、既に長岡技科大での人事には困難があっただろう。電力技術部門での処遇は無理の筈だから。また、更に困難な事態が発生していた。担当授業が『電気磁気学』であった事が、電力技術と電気理論との研究対象変換が『静電界は磁界を伴う』の昭和62年電気学会全国大会の発表となり、益々混乱に拍車をかけてと思う。昭和62年2月下旬、長岡技科大電気の教授から盛んに大学に戻らないでと心配されたが、愚か者の意地っ張りから断り、予定通りの移動を覚悟した。高専の校長が1月には政府の官房副長官に話をしたらしいがその意味は知らない。等いろいろ問題のある事件であった。3月初めに校長に移動の確認に会いに行ったら、人事担当者を呼び、またもや割愛人事だと告げられた。何の意味かも知らない。4月に仙台での電気学会発表をした。その折、家族も一緒に連れて行った。行きも帰りも、うるさい『蠅』や『カラス』が付きまとっていた。2,3匹で。高専から逃走してからは、世間を騒がせるような事件になってしまい、大変な事態を来たした。話が出来、相談できる人は皆無の中での、全く四面楚歌の世界を、只混乱して、馬鹿にされながら過ごした。以上当時の思いを記した。人事は常識に従う世界で、自分が常識にそぐわない生き様であった。科学理論に対する考えも自分は常識の世界と異なるのだ。しかし真理は我に在る。

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