戦争と平和

戦争と平和は小説はじめ多くの論題になっている。最近の日本の政治の方向性に疑問を強くする。1999年8月15日に『詩心 乗せて観世の 帆掛船』の文集を作る初めに、一号 戦争と平和 を記す。特定秘密保護法に続き国家安全保障戦略に『愛国心(国を愛するとは?)』と言う意味不明な法用語を使う政治状況を考えると、現在の日本が戦争への危険な状況にあると危惧する。政府(内閣など)の方針に黙って従えと言う半強制的な政治手法は、民主主義の日本において極めて異例な状況と観る。これを『国を愛する心を育む』の『国』だというのだろうか。そんな見えない相手を愛せとは、どんな法的合理性があるというのだろうか。『詩心・・』の一号の短文ながら筆には多過ぎるので、下手なペン文字で書いた。改めて、細筆で描き変えた。戦争と平和筆

アジア太平洋戦争の悲劇が忘れ去られようとしている。日本史も教育では古代から始まり現代史まで行き着かないで終了していなければ良いがと思う。※敗戦記念日とした。勝たないで良かったという意味である。敗戦の意味を何故そのようになったかの検証が政府で示されていない事が問題なのである。日本政府には、政治の事実を歴史に残すという制度・意識が殆ど無いと言ってよい。悪い事は記録から消し去り、うやむやのうちに書類も破棄して消し去る意識が常態になっている。大事な内閣の政治判断の会議でも簡単なまとめ記録で、誰の発言かさえ示されない。詳細な議事録が後日検証する資料として残されることが政府の責任である。その辺の状況は、福島原発事故の検証記録で、日本とアメリカの資料の分量を比較してみれば、その差は歴然としてる。検証に耐える資料を残す制度・習慣がないまま、特定秘密保護法などが成立する事が片手落ちであろう。当時の日本の軍隊の暴力的な状況が戦後の世代には教えられていないため、殆どその現代史の重要な状況が理解されずに過ぎて行こうとしている。村山総理大臣の当該戦争への痛切な反省表明や河野談話があるが、それを認めたくない政治家・国会議員が居る。若者はアジア太平洋戦争の実体を教育されていないため、その戦争の事実を知らない人が多いと思う。逆に、戦前の政治体制に引き戻そうとする意識の政治家も多いように見える。政治家の言葉には『平和』の為と言いながらその進む方向が、経済的利益を守る事のためで、戦争も辞さない危険な姿に思える。特定秘密保護法についても国家安保戦略についても、経済界の指導的立場の人からの発言が何も聞こえてこない事がなおさら戦前の状況に似ていると思えて心配である。黙って政治の方向に無関心を装う特性が日本人には多いように感じる。行政の体制に従うと、安易に利益を得やすく、生活がしやすいからと。そんな無抵抗の風土には、徴兵制への危険を感じる。