地球 いのちと神

地球には不思議がいっぱい。先日、群馬県の妙義山の映像を見て、また古代の巨樹の化石と解釈した。地球上には、至る所に巨樹の化石と看做すべき大岩が見かけられる。誰もが山が古代巨木の化石の姿だなどとは理解できないかも知れない。遥か思いも及ばない生命誕生の地球を考えさせられる。山が巨樹の姿とすれば、人間を含めて生命に満ち溢れた地球がどんな様子だったかと空想の世界に遊びたくなる。お伽の地球お伽噺の子供の世界を地球の生命に重ねてみる。人間も言葉がなかった。勿論巨樹も言語は持たない。巨樹の下に人が集う。空飛ぶ鳥も動物もその巨樹の下に集まる。じっと動かない巨樹は生命を育み、生命の繋がりを演出する舞台となった。全てが言葉が無くてもその生命の表現する意思を理解しあった。風に乗る音の響きがみんなを繋いでいた。

言語が感性を無くした 言葉や文字は小鳥には読めない。意思や思いは繋がらない。生命の放つ心の波なら互いに繋がっていたかもしれない。言葉と言語が人間を地球の生命の仲間から引き裂いたかもしれない。人間同士さえ、世界に異なる言語の壁を作ってしまって、繋がりにくくなってしまった。情報が氾濫して、経済競争の価値だけで世界が支配される羽目に陥ってしまった。それが地球の望んだ生命の姿だったのだろうか。

いのちの神 人間が地球のいのちのみんなと繋がって暮らしていた。お互いに助け合って生きていた。しかしいつしか離れ離れになって、互いに利己的な生活習慣に分かれるようになった。少しずつ意思の疎通が出来なくなってしまった。地球の活動で、異変が有りそうな時その前触れ(津波、火山)を教えてくれた。みんな生命の創造の源で繋がっていたから、そのつながりに感謝し、祈っていた。そこには不思議が日常の生活に溶け込んでいた。人間はいつの間にか利己的な生活に暮れるようになっていた。しかし、古い記憶の無意識の中に、地球上の全ての生命が繋がっていた事を覚えていた。そこには感謝の思いがいつまでも祈りとして受け継がれていたのだ。忘れていない部分を心の奥底に持っているのだ。それが神への祈りの形で残っているのかもしれない。自然を敬う祈りが大切であると。

DNA もし他の天体に生命が有ったら、その基も同じDNAだろうか。

地球の不思議を今までにも書いた。 石の囁き聞こえますか地球の生い立ちを問う あるいは地球は謎だ!など。化石と硯