陰暦がある。月の満ち欠けを暦に利用する。太陽歴に比べれば年周期に巧く合わない。しかし、電灯の無い昔は月明かりが日々の生活の流れを感じさせてくれた基準でもあったのだろう。何処で見てもみな同じく見えたから。
満月の光 何故あれ程に満月は輝くのか。地球に対しては、有名な言葉が残されている。「地球は青かった」とガガーリン少佐の宇宙から見た地球の姿。地球放射光のスペクトル分析をしたら、成分はどう評価されるだろう。夜空を飾る天の川がある。しかし街の明かりが邪魔をして、降りそそぐ天の川の星の眩さなど見る事ができなくなった。月から見た地球の光も遠い星の光もみんな空に輝く。あの夜空に光る遠い星星はみんな恒星なのだろうか。恒星は全て太陽と同じ光放射原理によるのだろうか。学説の水素核融合に因る?太陽は何故燃える?しかし、月の光は太陽の反射光である。あれだけ輝いても。
(2013/11/19)今朝の5時過ぎに満月が高く輝いていた。仰角45度程の高さにあった。(20日の朝5時前は仰角60度近い高さに見えた)。太陽の反射光であるから、日の出に近い太陽の位置を考えると、真丸い正反射の満月が在る位置が自分との三角形での幾何学的座標位置を巧く頭で整理して、理解できないのである。太陽からの地球の相対的距離から光がほぼ8分以上遅れて届く訳であるが。8分の差を考慮しても、満月のままで少しも月の影が欠けていないとは信じられない。当然太陽との位置関係を頭に描けば、満月は地平線上近くになければならないだろう。光は直進するのだから。月の満ち欠けを日々追い続けると、その季節毎に満月の天頂位置も違うし、日中に半月の月が天頂で、北向きであったりする。その月の欠け方は太陽の方向と合致しない事がある。どんなに解明しようとしても、合点できない月の満ち欠け現象だ。その合理的解釈に一つの道が可能性として残されている。光規定空間と太陽系の運動速度の関係である。先ずは江戸時代から歌われているという歌謡を日本人の感性の繊細さの例に挙げてみよう。
月の影に餅を搗くウサギを見た。江戸時代に行智の歌で歌われていたらしい(岩波文庫 30-237-1 わらべうた 参照)。
太陽系の速度 光はどんなときにも直進する。これが光認識の基本である。その光の速度はエネルギーの極限値として、存在する空間との共鳴で発現する。その基準値として、定義した空間定数に従うと捉える。それが空間定数の『真空透磁率』『真空誘電率』である。その基準空間が、逆に光の速度に因り決められると言える『光規定空間』である。光の速度『光速度一定』が宇宙の世界認識の全ての基準と考えなければならない。人の光観測では、全ては『光の相対速度』しか観測できないのである。『光速度一定』の原則により、光を観測すれば、如何なる時も『相対速度』しか観測できないのである。殆どの場合は、必ず「ドップラー効果」の下での観測になる。ただ、地球上で、実験室的に相対距離が変動しない場合には、その観測値は相対的に互いに相殺されて、放射源のそのままの光の観測結果になるだけである。『光規定空間』とは所謂『絶対空間』と言うことになる。その空間に対して光は『光速度一定』なのである。従って、太陽がその『光規定空間』に対して静止していなければ、地球の観測する太陽光はドップラー効果の下の観測結果になる。宇宙の星の観測も当然その関係の下での観測結果になる。こんな単純な解釈は日常生活感覚に基づく自然認識からしか理解できないかもしれない。学術論はとても難しく理論が構築されるから、市民的感覚とはそぐわないし、馴染めないと思う。光は自然の全知全能の神と看做しても差し支えは無かろう。英霊や亡霊の気味悪さだけは無い。光には、日本で最近頓に目につく権力支配・体制迎合による偽装や虚偽も無い。安心して頼れる。これでは大人気なくて、世間からまた嫌われる。しかし怒りはどうすれば消えるのか?今朝の新聞によると、沖縄県竹富町、教育委員会がその独立の気概を示してくれて嬉しい。文科省の教育現場への圧力行政は最低の教育破壊の実態を示す。