(2015/09/12 追記) 今になって振りかれば、そこには愚かな自分しか見えない。県立高等学校で、電気科教員として働けば、公立学校共済組合に加入する筈だ。大学卒業後の新卒で新潟県の学校に採用されれば、県の教育委員会から採用に伴う諸手続きの説明会がある筈だ。採用辞令交付も無しで、厚生財団や公立学校共済組合の加入手続も無視された。何も知らなかった責任は全部自分に在るのか。昭和39年3月20日過ぎに高等学校教員免許状が自宅に送られて来ただけで、新潟県教育委員会からは何の連絡も指示も無かった(もちろん『新潟県教員採用通知書』なども頂いた事は無い)。結局年金手続きも何もされていなかった。今、公立学校共済組合組合員の資格も無しに、何も動けないと覚悟している。正規な年金手続きの無いままである。
新潟県は採用もせずに、私を16年間に亘り工業高等学校の教育に携わらせた。(2014/03/16 追記)思い出した。初めの関わり。昭和38年秋の新潟県教員採用試験前の事。大学の電気科主任からの新潟県教職への希望確認連絡ある。長岡工業高校での面接(?長岡工業高校長と熊沢源三指導主事)を受ける。希望学校を聞かれ、意に添わず(?)に新設の「新津工業高校」と答える。採用試験の結果は「A 」で何とか合格。翌年1月中旬に新津工業高等学校から呼び出しを受けた。その時に、『戸籍謄本(正式な謄本が出せなかっただろう十日町市役所)《封印書》』を指示通りに持参する(今考えればその意味も理由が解る違法事件)。田中敏夫校長(翌年?県学事課長)、平田正三教頭と校長室で面接。新年度の担当科目を『電子工学(第1期生の2年生)』と決める。その後に、3月に入って、住所などとの関係で、機械科の藤間先生にお世話に成ったことで、学校に行った。その後は4月1日まで新潟県教育委員会から何の連絡も無く、何も知らずに長岡のアパートから列車(毎朝5時56分長岡駅発)で新津工業高校に出勤した。新潟県教育委員会から何の連絡も無いという教育行政とは行政犯罪その物であろう。知らない自分が情けない。今考えれば、4月の給料日に通勤手当がなかったので、五十嵐事務長に質問した。何故支給されないのか?と。『1っか月通勤してみなければ分からないだろう』と言われたことを今でも覚えている。幼稚な自分でも、それは納得出来なかったのであろう。結局4月分は支給されずに終わった。以上の記憶から、新潟県教育委員会は採用通知も発令せず、何の法的行政事務手続きもしてなかったのである。犯罪行政の新潟県。全ての行政事務から外されていた。年金・共済組合の全てが隠蔽の中。
教育職として人権回復を要求する。教育に関わる日本の過去と未来を思うと、何故か知らないが気分は暗くなる。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府、で父がミズリー号無条件降伏日本代表団送迎ボートクルーとしての務めを歴史から削除した。戸籍附票(内務省)の偽装に示されている。外務省、法務省など全て内閣の隠蔽でここまで来た。私は何者でしょう(2)氏名と長岡市政責任、(2020/01/11 削除されていた。削除権限は誰にあるのか?)に十日町市の問題が引き継がれている。禪と科学、の中曽根臨教審の抹殺人事の不可思議さに示された。
意味は知らないが、魑魅魍魎(チミモウリョウ)、跳梁跋扈(チョウリョウバッコ)を筆にした。
具体的事件は昭和53年4月に始まる。新津工業高校長八子正平から長岡市役所に、休暇中で用達中の私に突然電話が掛って来た。呼び出しに、何事かと驚いて受話器を取ると、八子校長から「県から仕事の依頼があるから承知して欲しい、承知した方が君の為に成るから」と言うような話であった。何の事か内容も分からずに承知した。その後に受け取った文書。
任命状と言う右記の偽物が渡された。ここでも氏名無しの偽装任命状であることが分かる。
発行者は新潟県教育委員会教育長である。何故教育委員会の任命権が行政の教育長に成るのか。教育委員会の責任者は誰なのか。事務局は教育委員会の下部組織で、行政職教育長の事務局ではないと解釈する。行政の教育長は職務外に在る筈だ。行政の長が取り仕切る権力介入の弊害教育を排除するため、教育に対する独立性を保証する目的で採りいれた教育委員会制度と解釈する。現在の教育問題の多くは、行政の管理下に縛られて、教育委員会の本来の住民の意思を尊重する理念を排除する仕組みを取り続けて来たことに本質的原因がある。現在、政治家や大阪維新の会などで論じられているように、更に行政権力側の管理を強めて、住民による地域児童生徒のための教育制度の創造を排除しようと動いている。国家権力・文科省等の締め付けは教育業界エゴに支配される硬直教育に堕すことになると危惧する。今まで「教育委員会制度」の理想的地域定着型教育制度の構築を排除し続けて、無力状態のままに放置してきた文部省・文科省の無策と怠慢が、教育現場の無力化と混乱を招いているのである。
教育委員会制度が蔑(ナイガシロ)のまま現在まで来た。その制度を排除しようと行政が教育を歪めているのが現状である。文科省初め教育制度に行政権の圧力を強めようと現在も画策している。
偽任命状 高等学校教科書専門調査員。調査対象が工業の「電気工学Ⅰ」とある。上の文書が偽任命状(割印も無し)であると言う意味を説明しなければならない。5月10日、新潟市青年の家で第1回目の会合があって、参加した。「電気工学Ⅰ」の調査担当者は数人いた。長岡工業高校、電気科の柳町教諭も居た。2,3回会合があったのだろうと思う。しかし私には、何の連絡も無く、私がその調査に関わる事もなく、全て終了したようだ。誠に不可解なる仕儀であった。
(2013/11/10)追記。そう言えば思い出した。「電気工学Ⅰ」と言う科目は教えた事がなかった。『電子工学』『送配電』『発変電』『電気機器』『電力応用』等の科目しか担当していなかった。しかし『電気理論(電気工学Ⅰに相当)』は論理的な科目で当時は好きであった。今は、『電荷』『電流』の意味の持つ矛盾を話す授業に成るだろう。しかし『オームの法則』は電気技術者としてしっかり、その便利な技術の手法は身に付けなければならない。『クーロンの法則』は決して取り上げないだろう。
新潟県教育行政犯罪でないのか? 昭和54年8月、新潟県知事部局から自宅に封書が送付されて来た。内容は、県外先進校の視察・研修を目的とした極秘出張命令であった。その書類は紛失した。しかし顛末は記録にある。
こんな左の委嘱状から始まった。
教育長(久間教育長)は行政職に対しての役職であろう。教職員に対しては、教育委員会が筋であろう。しかも、名前も存在せず、割印も無い偽装委嘱状である。
その委嘱状の本来の意味は東京工業大学での養成講座の受講を目的としたものである。
参加には任意の課題提出の宿題が課せられた。生徒実習に取り入れて実施していた『三相および単相のサイリスタレオナードの実習』についての具体的指導状況と方法の解説をまとめて提出した。文部省の当該講座の担当者は関口調査官であった。おそらくサイリスタレオナード等気にも留めなかっただろう。当時は、昭和57年度から新しい教科指導内容が変更に成る前段階の、少し忙しい時期に当たっていた。教科書も大幅に変更される事で、賑やかであった。その内容の簡略化に、もう教える意欲も失う気分で批判的態度で接していた。最終日の打ち上げ会があり、そこで関口調査官に少し批判的な意見を述べた事を記憶している。我儘であった。
受講証明書も氏名(金沢)の表記で、私の存在しないことを証明しているようである。学長は斎藤進六先生で、長岡技術科学大学に赴任されることに成る因縁さえ感じる。
行政機関が国家犯罪機関に見える 現今突如として、特定秘密保護法案と言う奇妙な概念の法律が行政権の特定秘密情報隠蔽特権力の為に画策されているように思える。個人の人権が行政側の故意の秘密・隠蔽の下で侵害される危険を、自身の過去に取られた怒りは取り返しが出来ないで許されるか?行政の故意の犯罪行為は行政が秘密に保護回復する法案があるべきだ。特定秘密の意味を考えて?昭和54年8月の新潟県知事部局と言う行政機関が取り仕切った極めて『特定秘密事項』に指定できそうな話を記す意味は必要であろう。秘密行政の違法実態を民主主義と言う市民生活環境保全の意味において大切であろうと思う。その当時の組織などを拾う。
「昭和54年度産業教育指導者養成講座(工業科)」を受講終了し、夏に成る。ある日突然自宅に、封書が郵便で送達された。驚くことに新潟県知事部局発令文書である。しかも極秘文書指定である。そんなものを公開する意味も新潟県の違法行政を許せない民主主義の意義に掛けて大切と思う。
極秘県知事部局発令出張命令 秘密の県外先進高等学校訪問・研修出張の行脚を記す。昭和57年度から新教育カリキュラム(教科課程)が始ることに成っていた。その大幅な改定に現場も対応を迫られてはいた。その訪問日程と訪問高等学校は次の通りであった。
最初の打ち合わせがあった。当時の新潟県庁所在地近くの喫茶店(学校町?の)に、後藤靖夫と二人で阿部指導主事の指示により集まり、計画の内容等の説明を受けた。特に極秘で、上記の指定された学校を訪問するようにと告げられた。しかも、校長にも極秘の出張との指示である。しかし、極秘と言いながら後藤の提案で、細かな打ち合わせを新津工業高校の事務室で行った。今になれば、愚かな自分に腹が立つ。極秘が事務職員の居る傍で出張の工程を決めると言う『公開の極秘出張』の愚かさ。後藤は初めから秘密に、阿部指導主事から別に出張目的や指示を受けていた。それは次のような事から判断した。出張には後藤と二人で電車で出発した。その行きの車中で、自分が行っている研究などを話している時、後藤が口走った『それじゃ、自分の聞かされた事とは逆じゃないか』と理解しかねる顔で言った。しかも後藤とは、前年の昭和53年の教科書調査員の会合から、この年の東京工業大学での『産業教育指導者養成講座(工業科)』も二人で参加していた。上の訪問高校で、8日午前の行程だけは別々の訪問高校に決められていた。また、12月24日新潟市の会場(イタリア軒?)で慰労会があった。高等学校の全教科課程の関係教職員の集まりがあり、関係者への感謝の話があった。その帰りに、こっそりと後藤が「どうして転勤することに成ったのか?」と意味あり気に聞いて来た。全体会の冒頭の話に、長岡技術科学大学との交流云々の話があった。その事に関係した後藤の話と、何故知っているのかと?実は、12月上旬、長岡技術科学大学への割愛人事の話を川上正光学長から学長室で承っていた。とてもおかしな新潟県知事部局と後藤靖夫の言行である。『(尾行調査の)糞鴉』付きの出張命令だった。帰宅後自宅に大竹さんのお家を知りませんかと言って、二人組の奇妙な尋ね人が来た。その時写真を撮ったようだった。新潟県知事部局の仕業である。
(2013/11/13)思い出した。昭和55年3月7日の出来事。長岡技術科学大学から出席を要請されていた。当日は、新津工業高校の卒業式である。年休を取る訳にもいかない。教頭に口頭でこっそり技科大から呼ばれているので、無断でそちらに行くと告げて卒業式を欠席。当然新潟県教育委員会から割愛人事の話が内々に通じていると勝手に解釈していた。長岡技術科学大学では事務局で職員数人と川上学長の下、『宣誓式』が執り行われた。電気系の今津教授と私と宮内助教授(他?)だけの宣誓式。新潟県と大学間での合意人事と思っていたから、4月の辞令交付前の宣誓式の意味を余り考えなかった。新潟県での辞令交付式の経験も無く、宣誓式も経験したことがなかったので、大学ではこんな式があるのか位に解釈していた。今に成れば、新潟県で採用もしていない者と大学との人事交流など出来る筈もなかったと考える。すべて新潟県と大学間での策略であったかと理解している。長岡技術科学大学の人事担当が臨済宗僧侶の斎藤信義副学長であった。初めから成り立たない存在否定の人事であった事が今は分かる。許されない思いの日本政府・新潟県行政。少なくとも、新潟県教育委員会での教職履歴を回復する事が研究の意味を生かす原点と考える。過去の科学理論の矛盾を説き明かすことを自然科学研究の目的としてきた経緯からもそう理解する。
出張報告会 出張から帰った後、県庁内の教育委員会事務局に呼び出された。場所は、事務局の大西厚生参事の席のテーブルの前に、立ったままで後藤と二人で説明を受けた。報告書を提出する訳でもなく、同席した阿部英一指導主事から、前もって告げられていた『面会者の名刺を提出せよ』により、何枚かの名刺を差し出した。一体どういう意味かと不審に思い、全部は出さなかった。大西参事がどのような事を話したかは覚えていない。結局『県知事部局の主張命令』の行政上の教育公務員(ただ自分は正式採用の教職員ではなかったことなんだろう)に対する犯罪性が今に成れば、見え隠れしている。公務員と言う職務と組織の関係は?