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特性インピーダンスから見る空間の電気特性

身の回りの空間は電波に満ちている。ラジオ放送、テレビ電波、スマートフォンなど生活に密着した電波に取り囲まれている。その電波が伝播する空間の抵抗値が120π [Ω]と言うことになっている。抵抗は個体の寸法が決まった物に対して定義される。電熱器やフィラメントあるいは電気回路の抵抗素子等の値である。ところが電波伝播の空間の抵抗とは何かと考えてしまう。それには大きさの寸法が無い。だから空間の抵抗とは何かと問わざるを得ない。しかも空間抵抗は電波が流れても損失の意味を含んではいない。光が伝播する時の空間内の損失と同じくほとんど零と解釈して良い。『オームの法則』ー物理学解剖論ーの末尾にも特性インピーダンスを述べた。

電磁気現象は空間特性として全て統一できる 何故この特性インピーダンスを取上げたか。電磁エネルギーの挙動を解釈するに、導体、絶縁体および半導体あるいは磁性体また誘電体と言う電気材料の区分から、それぞれ特性を捉えるのが一般的である。それらが示す特性の違いはすべて空間特性から統一的に解釈できそうだと気付いたからである。空間の持つ電気的特性は二つの定数から決まると見做せる。誘電率と透磁率である。電気材料の原子・分子結合から来る内部空間構造にその特質が隠されていると解釈する。エネルギーと空間との相互作用と看做せよう。その点はエネルギーと空間と質量に論じた。

抵抗値の次元 抵抗の単位はオームである。それは電圧の単位ボルトと電流の単位アンペアの比率で定義される。

『オーム』=『ボルト÷アンペア』

何故ボルトをアンペアで割ると抵抗の単位オームになるのだろうか。元もとこれらの単位は厳密な物理的意味合いが明確にされて、定義された訳ではない。1827年、Georg Ohmによって発見された『オームの法則』が基である。科学技術は余り物理的厳密性を考えるより、実用的な解釈法で社会的合意形成が進み、便利さが法則の価値を決めて来た。そこに見える社会的背景が気にかかる。それは現代にもその影響力はますます増大している。所謂学識・有識者として特権階級に位置づけられた人達の学術研究組織内での合意形成がその社会的科学論となる必然性のようなものを備えている。生活者の認識とは掛け離れて行く独善性に裏付けられている。19世紀初頭に電磁気現象の発見や解釈にアンペア、ファラディ等が活躍した。当時は、当然電磁気現象の意味合いなど暗中模索の中で、実験的確認を通して定説として広まって、徐々に定着したものであろう。その中に『オームの法則』がある。電圧計、電流計(計器の方式、精度も怪しい)等の基準値も曖昧で、測定値も相当誤差がある中での認識であった筈である。それが今になっても、『オーム』の単位の意味さえ物理的に厳密な説明ができる訳ではない状態にある。オームはオームだなどと言われても、それでは納得しかねると思う。教科書的に説明するなら、抵抗に電流が流れると、発熱現象を起こし、エネルギーを消費するとなろう。ならば、抵抗体と言うオームの電気素子で、何が熱エネルギーに変換されたのかを『エネルギー保存則』から説明しましょう。あるいは、電波伝播の空間の特性インピーダンスが376オームと言われるが、マックスウエルの電磁方程式から計算すれば、電流と抵抗から熱損失が生まれる筈であるが、そこは少しも問題にはしない。それは、電流など無いから問題にしなくて良いのであるが。『オーム』の単位は物理的には[(H/F)^(1/2)^]なのである。空間の透磁率 μ[H/m]と誘電率 ε[F/m]の定数比√(μ/ε)から導出されるものの意味である。エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系参照。このことは、例えば白熱電球のフィラメントに対してどのような物理的特質として解釈できるかである。フィラメントのタングステン元素Wの金属組成・結晶格子構造及び二重コイル構造に基づく、エネルギーの貯蔵・放射に対する透磁率、誘電率の効き方が熱エネルギー・光エネルギーへの変換特性としての抵抗値になると解釈できよう。抵抗を単にエネルギー消費材料と考え、感じるだけでは物理的解釈としては不十分であろう。何故どのような仕組みで、エネルギー貯蔵が起こり、光放射現象へのエネルギー変換が起きるかを考えるべきと。それが物理学であろう。科学技術論と物理学とは同じものではない。

特性インピーダンスの定義空間 田園や山間に送電鉄塔がある。普通は電線が6本(天頂に1本アース線)で伝送される。その伝線路も長さ1km当たりの線路定数が定義される。インダクタンスL[H/km]、静電容量C[F/km]等と言われる。その伝送速度は1/√(LC) [km/s]、伝送インピーダンスは√(L/C) [Ω]他に線路損失を表す抵抗R[Ω/km]がある。この場合の伝送インピーダンスと同じものが光空間伝播の特性インピーダンスである。空間の透磁率μ[H/m] 、誘電率ε[F/m]であれば、それは伝播速度方向に1[m]当たりの定数と解釈して良かろう。光の伝播速度は1/(με)^1/2^=3×10^8^[m/s]。特性インピーダンスZ=√(μ/ε)=120π[Ω] 。定義の空間範囲は連続した光伝播方向の1m当たりの値と解釈できよう。光はエネルギーの空間分布の縦波である。そのエネルギーが空間で誘電率のコンデンサと透磁率のコイル間でのエネルギー共振の繰り返しで光の光速度が決まると捉えれば良かろう。

十五夜お月さん

陰暦がある。月の満ち欠けを暦に利用する。太陽歴に比べれば年周期に巧く合わない。しかし、電灯の無い昔は月明かりが日々の生活の流れを感じさせてくれた基準でもあったのだろう。何処で見てもみな同じく見えたから。

満月の光 何故あれ程に満月は輝くのか。地球に対しては、有名な言葉が残されている。「地球は青かった」とガガーリン少佐の宇宙から見た地球の姿。地球放射光のスペクトル分析をしたら、成分はどう評価されるだろう。夜空を飾る天の川がある。しかし街の明かりが邪魔をして、降りそそぐ天の川の星の眩さなど見る事ができなくなった。月から見た地球の光も遠い星の光もみんな空に輝く。あの夜空に光る遠い星星はみんな恒星なのだろうか。恒星は全て太陽と同じ光放射原理によるのだろうか。学説の水素核融合に因る?太陽は何故燃える?しかし、月の光は太陽の反射光である。あれだけ輝いても。満月

(2013/11/19)今朝の5時過ぎに満月が高く輝いていた。仰角45度程の高さにあった。(20日の朝5時前は仰角60度近い高さに見えた)。太陽の反射光であるから、日の出に近い太陽の位置を考えると、真丸い正反射の満月が在る位置が自分との三角形での幾何学的座標位置を巧く頭で整理して、理解できないのである。太陽からの地球の相対的距離から光がほぼ8分以上遅れて届く訳であるが。8分の差を考慮しても、満月のままで少しも月の影が欠けていないとは信じられない。当然太陽との位置関係を頭に描けば、満月は地平線上近くになければならないだろう。光は直進するのだから。月の満ち欠けを日々追い続けると、その季節毎に満月の天頂位置も違うし、日中に半月の月が天頂で、北向きであったりする。その月の欠け方は太陽の方向と合致しない事がある。どんなに解明しようとしても、合点できない月の満ち欠け現象だ。その合理的解釈に一つの道が可能性として残されている。光規定空間と太陽系の運動速度の関係である。先ずは江戸時代から歌われているという歌謡を日本人の感性の繊細さの例に挙げてみよう。うさぎうさぎ1

月の影に餅を搗くウサギを見た。江戸時代に行智の歌で歌われていたらしい(岩波文庫 30-237-1  わらべうた 参照)。

太陽系の速度 光はどんなときにも直進する。これが光認識の基本である。その光の速度はエネルギーの極限値として、存在する空間との共鳴で発現する。その基準値として、定義した空間定数に従うと捉える。それが空間定数の『真空透磁率』『真空誘電率』である。その基準空間が、逆に光の速度に因り決められると言える『光規定空間』である。光の速度『光速度一定』が宇宙の世界認識の全ての基準と考えなければならない。人の光観測では、全ては『光の相対速度』しか観測できないのである。『光速度一定』の原則により、光を観測すれば、如何なる時も『相対速度』しか観測できないのである。殆どの場合は、必ず「ドップラー効果」の下での観測になる。ただ、地球上で、実験室的に相対距離が変動しない場合には、その観測値は相対的に互いに相殺されて、放射源のそのままの光の観測結果になるだけである。『光規定空間』とは所謂『絶対空間』と言うことになる。その空間に対して光は『光速度一定』なのである。従って、太陽がその『光規定空間』に対して静止していなければ、地球の観測する太陽光はドップラー効果の下の観測結果になる。宇宙の星の観測も当然その関係の下での観測結果になる。こんな単純な解釈は日常生活感覚に基づく自然認識からしか理解できないかもしれない。学術論はとても難しく理論が構築されるから、市民的感覚とはそぐわないし、馴染めないと思う。光は自然の全知全能の神と看做しても差し支えは無かろう。英霊や亡霊の気味悪さだけは無い。光には、日本で最近頓に目につく権力支配・体制迎合による偽装や虚偽も無い。安心して頼れる。これでは大人気なくて、世間からまた嫌われる。しかし怒りはどうすれば消えるのか?今朝の新聞によると、沖縄県竹富町、教育委員会がその独立の気概を示してくれて嬉しい。文科省の教育現場への圧力行政は最低の教育破壊の実態を示す。

太陽は何故燃える?

太陽系で地球が一番豊かな命の星だ。太陽系を統合制御しているのが中心の太陽である。太陽は生命の源と言えよう。地球以外の惑星が何故太陽の恩恵の生命が育まれないのか。場合によれば生命が枯れてしまった後なのかもしれない。あるいは生命に満ちているかも知れない。太陽系全体を軸性回転形のエネルギー局所空間と解釈したい。その中心に燃える太陽が形態空間の要となって支配している。中心は燃えている。地球も中心核は灼熱地獄の暗黒世界で、地球の生命を支えている。

宇宙空間は真空か 太陽は真空空間に存在しているのだろうか。宇宙論で、背景放射とかブラックマターとかの話がある。それは宇宙空間に質量が充満しているのかと素人には思える理論である。宇宙の空間を真空と言う場合の『真空』とは何かと言うことになる。真空と言う空間は物の存在を許さない空間と定義されているかと解釈したい。しかし、空間には星星が散りばめられている。地球を考えても、大気圏外と地球とには明確な空間的分別が存在している。真空に飛び散るような事は無い。それは真空と物質の存在を分離する自然の原理があるのだろう。万有引力と言う遠隔作用力には論理性がないと考える素人的と見られる観点からの真空への疑念である。

真空で太陽は何故燃える 学説は水素原子の核融合論である。真空だから酸素燃焼は論外となる。真空中に水素原子が集合して、水素だけの星となると考えるのだろうか。太陽系の中心だから、宇宙から水素原子が吸い寄せられて、太陽の素になったと解釈するのだろうか。水素原子は原子核構成要素の『陽子』となんら変わらないであろう。エネルギーが質量化して観測可能になる最小単位が『陽子』と看做す。『陽子』に電荷概念が付き纏うから、プラスの意味を排除するなら、『素』位でも良いかとは思う。太陽が空間に形態をなして体積を占め、莫大なエネルギー放射を続けている現象を現代物理学理論で説明できるのだろうかと、知識の無い自分にはそのもどかしさに悩む。いくら愚かな人間でも、太陽を制御しようと考える事は無かろうから、太陽系全体の破壊までは起こらないと安心はできる。太陽の途轍もなさだけは人知の及ばない範囲にある。何故太陽は燃えるのか?水素核融合説で、最大の疑問は何故瞬間核融合に暴走しないのか?である。如何にも宇宙規模で自然制御されている太陽燃焼の訳が見当たらない。核融合とはそんなに永続的に自動制御される仕組みの宇宙原理でもあるのだろうか。宇宙の『恒星』の全てに当てはまる事である。星が燃えるとはどういう現象なのだろうか。2011年6月10日NASAが太陽表面で巨大なフレアと言う記事で、その写真を公開した。太陽表面の巨大フレアが局部的な核融合によって引き起されたと言うことなのか。

地球核の暗黒灼熱地獄 地球の中心核も燃えている。地球の中心には万有引力説は成り立たない(中心核は均等に全方向の地表面質量との間に万有引力が掛る事になるから、その総積分引力は零になる)。超高圧・超高温の地獄釜であろう。見る訳にもいかないから、飽くまでも想像の域ではある。当然そこには酸素は無いと、酸素燃焼ではないと考えて良かろう。何燃焼かと考えれば、それこそ太陽の燃焼と同じ現象と考えたい。地球が生きている訳は地震や地殻変動により絶えず新しい発熱を起こす燃焼源が供給されているからと考える。『質量ーエネルギー変換』の原理である。酸素燃焼の意味も十分理解できていないのに畏れ多いが、自然現象の基本の単純性を見据えた時の結論はそこに行き着く筈である。

太陽エネルギー放射源 太陽は太陽系全体からエネルギーを吸収し、その吸収質量のエネルギー変換に基づく放射の結果と観る。軸対称性の回転現象を、その原理的必要性の法則が現代物理学の学理から論じうるだろうか。何故地球が回転するかの意味さえ説明できない筈である。上空の気流が何故地球本体の回転速度より早く回るのか。地球が気体を引っ張る訳ではない。気体が地球本体を回しているような現象である。そんな状況が何故起こるかの理由を考えても全く納得出来ないのである。

燃える『酸素』の力とは?

身近な事を考えると殆ど分からない事ばかりだ。『酸素』は『水素』と同じくとても日常に密接な元素だ。しかし、何も分かっていない事に気付く。酸素がなければ生きては行けない。地球には十分の酸素がある。何も答えを得られないままに『酸素』への疑問だけを記す記事ではある。

その酸素の最大の謎はこの地球上に『いつ、どのようにして酸素ができたか』であろう。水も植物もいつどのように生まれたかが分からない。水と酸素が無ければ地球上に生命は誕生しなかろう。水と酸素が植物をどのように芽生えさせたかと不思議に迷い込んでしまう。

酸素は誰が造るか

酸素の働き

そんな大本にまで答えを探すなどは間違いとしよう。

現実の日常生活の中で、本当に基本と思うような事さえ分からないのである。そこで、酸素の働きとはどんな事かと分類してみた。大体3つ程に成るかと思う。

1.空気中の燃焼 火を使うには酸素が要る。透明のガラス容器に燃料を封入して、レンズでその燃料を加熱しても容器内が真空なら、燃えないだろう。いや、燃えるかも知れない?そんな実験はしてないから、結果は想像するだけである。一応仮想実験として、何の経済効果も無さそうな純粋の『物理学』に特化した考察図を挙げておきたい。仮想真空燃焼実験真空容器の中に可燃性の黒い布切れでも封入した。真空管でも良いが、頭に焦点距離の合うレンズがある。『問答』:日光に当てると、布切れは燃えるだろうか?こんな答の見えない問題が、自然現象としてどれ程考える感性を持っているかの自己評価に成るかと思う。Exhaust pipe(用語?) から真空に排気しているとする。考える時は自由な発想が好ましい。光とエネルギーの関係をどう解釈するか、振動数で説明しても良い。ギリシャでのオリンピック聖火の採火式は太陽光線での加熱(反射鏡)方式である。摩擦熱と同じく、光はエネルギーそのものの縦波の流れである。(2017/10/30)追記。一応問答の『答』を書き足す。想像の結果やはり燃える筈だ。真空中でも布切れが太陽光線エネルギーで加熱されるから、熱分解してガスの発光燃焼になる。従って結果的には真空でなくなる。この燃焼は布切れの熱分解で酸素も発生するから酸素燃焼と言えるかもしれない。結果的には、太陽光線が真空容器内に入るため、元の布切れの質量に太陽光線入射エネルギー分だけ等価質量が増加したと同じ意味で解釈すべきだ。即ち光と質量は全く等価であると言う結論だ。

学術的物理学理論による光エネルギーは、「振動数とプランク定数の積」で解釈する。学術論では、市民が『光の振動数』を認識できなければ理解できない高度な理論なのである。市民的感覚論で捉える事を第一に考えたい。お日様に当たると暖かい。それは光の振動数が体を振動させるからではない。光一粒でも、それはエネルギーそのものの流れであり、身体に入り込み、熱エネルギーに成るからである。その光の流れと観る場合は、光エネルギーが質量(分子)内の空間への蓄積に因るエネルギー変換方式による着火(エネルギー放射)と看做す。これは普通の日常的な酸素の燃焼の働きにも関係するものと看做したい。この燃焼における酸素の状態はどのような変化によるのだろうか。単に酸素が何の変化も無しに、燃料の高温加熱でのガス化だけでは燃焼には至らないだろうと思う。「何を言いたいのか?」と訝しく思うだろう。『酸素』原子の8個の電子周回構造を破棄したいのである。IT検索では、まことしやかに『電子』の増減で様々な酸素の活性化を論じている記事がある。『電子』でなく、酸素原子の状態が環境の熱エネルギーに因りどのようにエネルギーが増加し、活性化されるのかの問題であろう。何で電子同士が二つ重なるような『クーロン則』違反の結合論が罷り通るのか。クーロンの法則を斬るに反して電子の負の『電荷』同士が「対を成す引力」を発生するのかを論理的に説明しなければならない。結論を言えば、空気中の『酸素』も加熱の熱エネルギーにより、そのエネルギー量が増えて、活性化した事で燃焼の力を発揮できるのであろう。『酸素』原子そのもののエネルギー量が増減すると解釈する。

燃焼作用における疑問 熱化学方程式と言うものがある。燃料ごとにモル当たりの発生熱量が異なる。炭素、水素、窒素と酸化の発熱エネルギー量が事細かに分かっているようだ。燃料電池が未来のエネルギー源として注目されている。発電装置としての役割で考えても、結局発生熱の『熱エネルギー』の形を変換しているのでしかない。自然科学は、自然の科学的に解釈する方法で、その仕組みを社会生活に利用できれば、それが主目的であり、科学のすべてである様に捉えられているようだ。だから、『酸素』が燃料の元素と化合して発熱するだけ分かれば十分と考えている。そこには何故かという『問答』が欠けている。物理的本質を理解しようと考えないのが、今までの「理科教育」の実情である。子供達の質問と思うが、IT検索のなかにも貴重な『問答』が多くある。しかし、回答者がその質問に十分応えようと考えていない。お座成りの『こういうものだ』式回答で済ませている。最大の燃焼の疑問は「何故酸素が他の元素と異なる性質・特性を持っているのか」である。原子構造上にその本質が隠されている筈である。それを見極めるのが「物理学」の道であろう。『電子』では決して結論には到達できない。何故窒素と少し異なるだけで、特別な燃焼特性を示すのか?

電気エネルギーと熱エネルギーが異なるエネルギーと考えて欲しくない。電気エネルギーも空間の伝播エネルギーである事から、熱の伝播エネルギーと全く同じものである。『電荷』が実在しない事実に立てば、電子と言う実体概念をどのように考えるかが重要な観点となろう。原子構造上のエネルギーの増減をどのような空間に描くかであろう。生活電気と『光速度』ご参照ください。

2.生体内の生命活動エネルギー生産 生命が燃えるにも酸素が欠かせない。血液循環により生体内のあらゆる細胞・組織の生命の機能保全を司る。細胞が生きるには酸素を必要とし、燃えカスを廃棄する。その運搬の役割を赤血球のヘモグロビンが担っている。ヘモグロビンの寿命も120日で再生されるらしい。時間管理されている生命の循環は世界・宇宙に秘められた絶対的原理と観ると、とても不思議に思える。『癌』は生命の循環の原則から、時間管理(細胞再生循環)の狂いによる絶対的原理違反の宿命と観たかった。生命の全体像を思うと、その細胞一つからの営みが全てに広がり、統制制御される活動全体の姿は何と不思議であるかと驚くばかりだ。人間が設計するロボットがあるが、二足歩行一つをとっても、まっすぐ伸ばした足で、つま先立ち歩行の平衡感覚の全体制御性を比較してしまう。そんな細胞に酸素が果たす役割を考えると、『酸素』元素の力は神の力に思える。どんな秘力を尽くして、生命のエネルギーを生み、そのエネルギーをどのように細胞の活動に生かしているのかと考えてしまう。酸素とエネルギー及びその細胞運動への活かし方に不思議を思う。エネルギーが世界の素原と言う解釈から見ると、指先の筋肉運動にエネルギーがどう生体的・生理学的機能を司っているかを考えてしまう。『鉄』が元素周期の変遷の到達点と言う考えもあるようであるから、世界の循環から『元素』も変遷すると観る。エネルギーが世界の素原であるから、元素もエネルギーの局所化の諸相であると観られる。エネルギーと空間と質量に関連して。

生体・生理学的身体活動とエネルギー 確かにヘモグロビンが末端細胞まで酸素を供給しているのは間違いないだろう。それでは、細胞に酸素が供給されるとその酸素はどのような生理学的働きをするのだろうか。単に細胞内の細胞質の分解・再生の為だけに酸素が使われる訳ではあるまい。細胞の生命活動に酸素が必要な筈だ。活動エネルギーを生みだし、そのエネルギーが何に使われるかが重要な視点に成ろう。筋肉のどのような生理機能がエネルギーを運動に変換するか。皮膚感覚をどのようなエネルギーとして神経伝達機能に生かすのか。それらの生命活動全てが酸素の働きにより造り出されるエネルギーによってなされると観る。エネルギーが筋肉の収縮・弛緩に変換される。それがエネルギーが消費されると言う事の意味であろう。二酸化炭素と酸素の呼吸作用におけるTCAサイクルとどんな関係に成るのか等、観えない事ばかりである。

ヘモグロビンは何故赤い? 赤血球の構成分子がヘモグロビンらしい。赤血球と言うように血の色は赤い。ヘモグロビンで、鉄原子Feが酸素の運び手の役を担っているらしい。廃棄する炭酸ガスCo2の運搬もFeが担うとはなかなか上手いものだ。そんなFeがあるが故に赤色となると解釈すれば良いのだろうか。ヘモグロビンの分子構造に占める鉄Feの比率はとても小さかろう。あの血の赤色はやはり色の不思議に挙げて良かろう。色の世界を尋ねてに重ねてみたい。色彩も不思議がいっぱいだ。

3.水、高タンパク質などの分子構成元素 燃焼を司り、エネルギーを生みだす酸素が水素と結び合えば、その分子が燃焼を消す水になると言う。燃焼と消火を繋ぐのが酸素とは。

光合成と酸素 植物の生命活動。地球上の生命を支える基に成るのが緑の森林である。太陽光線と葉緑素の生命の紡ぎ合いに『酸素』がどんな役割を果たしているかと疑問が増える。

新潟県教育行政の過去と未来ー犯罪?ー

(2015/09/12 追記) 今になって振りかれば、そこには愚かな自分しか見えない。県立高等学校で、電気科教員として働けば、公立学校共済組合に加入する筈だ。大学卒業後の新卒で新潟県の学校に採用されれば、県の教育委員会から採用に伴う諸手続きの説明会がある筈だ。採用辞令交付も無しで、厚生財団や公立学校共済組合の加入手続も無視された。何も知らなかった責任は全部自分に在るのか。昭和39年3月20日過ぎに高等学校教員免許状が自宅に送られて来ただけで、新潟県教育委員会からは何の連絡も指示も無かった(もちろん『新潟県教員採用通知書』なども頂いた事は無い)。結局年金手続きも何もされていなかった。今、公立学校共済組合組合員の資格も無しに、何も動けないと覚悟している。正規な年金手続きの無いままである。

新潟県は採用もせずに、私を16年間に亘り工業高等学校の教育に携わらせた。(2014/03/16 追記)思い出した。初めの関わり。昭和38年秋の新潟県教員採用試験前の事。大学の電気科主任からの新潟県教職への希望確認連絡ある。長岡工業高校での面接(?長岡工業高校長と熊沢源三指導主事)を受ける。希望学校を聞かれ、意に添わず(?)に新設の「新津工業高校」と答える。採用試験の結果は「A 」で何とか合格。翌年1月中旬に新津工業高等学校から呼び出しを受けた。その時に、『戸籍謄本(正式な謄本が出せなかっただろう十日町市役所)《封印書》』を指示通りに持参する(今考えればその意味も理由が解る違法事件)。田中敏夫校長(翌年?県学事課長)、平田正三教頭と校長室で面接。新年度の担当科目を『電子工学(第1期生の2年生)』と決める。その後に、3月に入って、住所などとの関係で、機械科の藤間先生にお世話に成ったことで、学校に行った。その後は4月1日まで新潟県教育委員会から何の連絡も無く、何も知らずに長岡のアパートから列車(毎朝5時56分長岡駅発)で新津工業高校に出勤した。新潟県教育委員会から何の連絡も無いという教育行政とは行政犯罪その物であろう。知らない自分が情けない。今考えれば、4月の給料日に通勤手当がなかったので、五十嵐事務長に質問した。何故支給されないのか?と。『1っか月通勤してみなければ分からないだろう』と言われたことを今でも覚えている。幼稚な自分でも、それは納得出来なかったのであろう。結局4月分は支給されずに終わった。以上の記憶から、新潟県教育委員会は採用通知も発令せず、何の法的行政事務手続きもしてなかったのである。犯罪行政の新潟県。全ての行政事務から外されていた。年金・共済組合の全てが隠蔽の中。

教育職として人権回復を要求する。教育に関わる日本の過去と未来を思うと、何故か知らないが気分は暗くなる。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府、で父がミズリー号無条件降伏日本代表団送迎ボートクルーとしての務めを歴史から削除した。戸籍附票(内務省)の偽装に示されている。外務省、法務省など全て内閣の隠蔽でここまで来た。私は何者でしょう(2)氏名と長岡市政責任、(2020/01/11 削除されていた。削除権限は誰にあるのか?)に十日町市の問題が引き継がれている。禪と科学、の中曽根臨教審の抹殺人事の不可思議さに示された。

意味は知らないが、魑魅魍魎(チミモウリョウ)、跳梁跋扈(チョウリョウバッコ)を筆にした。魑魅・跳梁・

具体的事件は昭和53年4月に始まる。新津工業高校長八子正平から長岡市役所に、休暇中で用達中の私に突然電話が掛って来た。呼び出しに、何事かと驚いて受話器を取ると、八子校長から「県から仕事の依頼があるから承知して欲しい、承知した方が君の為に成るから」と言うような話であった。何の事か内容も分からずに承知した。その後に受け取った文書。

教高秘第53号偽任命状左記の教高㊙第35号。4月28日発。

任命状と言う右記の偽物が渡された。ここでも氏名無しの偽装任命状であることが分かる。

発行者は新潟県教育委員会教育長である。何故教育委員会の任命権が行政の教育長に成るのか。教育委員会の責任者は誰なのか。事務局は教育委員会の下部組織で、行政職教育長の事務局ではないと解釈する。行政の教育長は職務外に在る筈だ。行政の長が取り仕切る権力介入の弊害教育を排除するため、教育に対する独立性を保証する目的で採りいれた教育委員会制度と解釈する。現在の教育問題の多くは、行政の管理下に縛られて、教育委員会の本来の住民の意思を尊重する理念を排除する仕組みを取り続けて来たことに本質的原因がある。現在、政治家や大阪維新の会などで論じられているように、更に行政権力側の管理を強めて、住民による地域児童生徒のための教育制度の創造を排除しようと動いている。国家権力・文科省等の締め付けは教育業界エゴに支配される硬直教育に堕すことになると危惧する。今まで「教育委員会制度」の理想的地域定着型教育制度の構築を排除し続けて、無力状態のままに放置してきた文部省・文科省の無策と怠慢が、教育現場の無力化と混乱を招いているのである。

教育委員会制度が蔑(ナイガシロ)のまま現在まで来た。その制度を排除しようと行政が教育を歪めているのが現状である。文科省初め教育制度に行政権の圧力を強めようと現在も画策している。

偽任命状 高等学校教科書専門調査員。調査対象が工業の「電気工学Ⅰ」とある。上の文書が偽任命状(割印も無し)であると言う意味を説明しなければならない。5月10日、新潟市青年の家で第1回目の会合があって、参加した。「電気工学Ⅰ」の調査担当者は数人いた。長岡工業高校、電気科の柳町教諭も居た。2,3回会合があったのだろうと思う。しかし私には、何の連絡も無く、私がその調査に関わる事もなく、全て終了したようだ。誠に不可解なる仕儀であった。

(2013/11/10)追記。そう言えば思い出した。「電気工学Ⅰ」と言う科目は教えた事がなかった。『電子工学』『送配電』『発変電』『電気機器』『電力応用』等の科目しか担当していなかった。しかし『電気理論(電気工学Ⅰに相当)』は論理的な科目で当時は好きであった。今は、『電荷』『電流』の意味の持つ矛盾を話す授業に成るだろう。しかし『オームの法則』は電気技術者としてしっかり、その便利な技術の手法は身に付けなければならない。『クーロンの法則』は決して取り上げないだろう。

新潟県教育行政犯罪でないのか? 昭和54年8月、新潟県知事部局から自宅に封書が送付されて来た。内容は、県外先進校の視察・研修を目的とした極秘出張命令であった。その書類は紛失した。昭54偽委嘱状偽受講証明書しかし顛末は記録にある。

こんな左の委嘱状から始まった。

教育長(久間教育長)は行政職に対しての役職であろう。教職員に対しては、教育委員会が筋であろう。しかも、名前も存在せず、割印も無い偽装委嘱状である。

その委嘱状の本来の意味は東京工業大学での養成講座の受講を目的としたものである。

参加には任意の課題提出の宿題が課せられた。生徒実習に取り入れて実施していた『三相および単相のサイリスタレオナードの実習』についての具体的指導状況と方法の解説をまとめて提出した。文部省の当該講座の担当者は関口調査官であった。おそらくサイリスタレオナード等気にも留めなかっただろう。当時は、昭和57年度から新しい教科指導内容が変更に成る前段階の、少し忙しい時期に当たっていた。教科書も大幅に変更される事で、賑やかであった。その内容の簡略化に、もう教える意欲も失う気分で批判的態度で接していた。最終日の打ち上げ会があり、そこで関口調査官に少し批判的な意見を述べた事を記憶している。我儘であった。

受講証明書も氏名(金沢)の表記で、私の存在しないことを証明しているようである。学長は斎藤進六先生で、長岡技術科学大学に赴任されることに成る因縁さえ感じる。

行政機関が国家犯罪機関に見える 現今突如として、特定秘密保護法案と言う奇妙な概念の法律が行政権の特定秘密情報隠蔽特権力の為に画策されているように思える。個人の人権が行政側の故意の秘密・隠蔽の下で侵害される危険を、自身の過去に取られた怒りは取り返しが出来ないで許されるか?行政の故意の犯罪行為は行政が秘密に保護回復する法案があるべきだ。特定秘密の意味を考えて?昭和54年8月の新潟県知事部局と言う行政機関が取り仕切った極めて『特定秘密事項』に指定できそうな話を記す意味は必要であろう。秘密行政の違法実態を民主主義と言う市民生活環境保全の意味において大切であろうと思う。その当時の組織などを拾う。新潟県知事部局等

「昭和54年度産業教育指導者養成講座(工業科)」を受講終了し、夏に成る。ある日突然自宅に、封書が郵便で送達された。驚くことに新潟県知事部局発令文書である。しかも極秘文書指定である。そんなものを公開する意味も新潟県の違法行政を許せない民主主義の意義に掛けて大切と思う。

極秘県知事部局発令出張命令 秘密の県外先進高等学校訪問・研修出張の行脚を記す。昭和57年度から新教育カリキュラム(教科課程)が始ることに成っていた。その大幅な改定に現場も対応を迫られてはいた。その訪問日程と訪問高等学校は次の通りであった。訪問高校日付等

最初の打ち合わせがあった。当時の新潟県庁所在地近くの喫茶店(学校町?の)に、後藤靖夫と二人で阿部指導主事の指示により集まり、計画の内容等の説明を受けた。特に極秘で、上記の指定された学校を訪問するようにと告げられた。しかも、校長にも極秘の出張との指示である。しかし、極秘と言いながら後藤の提案で、細かな打ち合わせを新津工業高校の事務室で行った。今になれば、愚かな自分に腹が立つ。極秘が事務職員の居る傍で出張の工程を決めると言う『公開の極秘出張』の愚かさ。後藤は初めから秘密に、阿部指導主事から別に出張目的や指示を受けていた。それは次のような事から判断した。出張には後藤と二人で電車で出発した。その行きの車中で、自分が行っている研究などを話している時、後藤が口走った『それじゃ、自分の聞かされた事とは逆じゃないか』と理解しかねる顔で言った。しかも後藤とは、前年の昭和53年の教科書調査員の会合から、この年の東京工業大学での『産業教育指導者養成講座(工業科)』も二人で参加していた。上の訪問高校で、8日午前の行程だけは別々の訪問高校に決められていた。また、12月24日新潟市の会場(イタリア軒?)で慰労会があった。高等学校の全教科課程の関係教職員の集まりがあり、関係者への感謝の話があった。その帰りに、こっそりと後藤が「どうして転勤することに成ったのか?」と意味あり気に聞いて来た。全体会の冒頭の話に、長岡技術科学大学との交流云々の話があった。その事に関係した後藤の話と、何故知っているのかと?実は、12月上旬、長岡技術科学大学への割愛人事の話を川上正光学長から学長室で承っていた。とてもおかしな新潟県知事部局と後藤靖夫の言行である。『(尾行調査の)糞鴉』付きの出張命令だった。帰宅後自宅に大竹さんのお家を知りませんかと言って、二人組の奇妙な尋ね人が来た。その時写真を撮ったようだった。新潟県知事部局の仕業である。

(2013/11/13)思い出した。昭和55年3月7日の出来事。長岡技術科学大学から出席を要請されていた。当日は、新津工業高校の卒業式である。年休を取る訳にもいかない。教頭に口頭でこっそり技科大から呼ばれているので、無断でそちらに行くと告げて卒業式を欠席。当然新潟県教育委員会から割愛人事の話が内々に通じていると勝手に解釈していた。長岡技術科学大学では事務局で職員数人と川上学長の下、『宣誓式』が執り行われた。電気系の今津教授と私と宮内助教授(他?)だけの宣誓式。新潟県と大学間での合意人事と思っていたから、4月の辞令交付前の宣誓式の意味を余り考えなかった。新潟県での辞令交付式の経験も無く、宣誓式も経験したことがなかったので、大学ではこんな式があるのか位に解釈していた。今に成れば、新潟県で採用もしていない者と大学との人事交流など出来る筈もなかったと考える。すべて新潟県と大学間での策略であったかと理解している。長岡技術科学大学の人事担当が臨済宗僧侶の斎藤信義副学長であった。初めから成り立たない存在否定の人事であった事が今は分かる。許されない思いの日本政府・新潟県行政。少なくとも、新潟県教育委員会での教職履歴を回復する事が研究の意味を生かす原点と考える。過去の科学理論の矛盾を説き明かすことを自然科学研究の目的としてきた経緯からもそう理解する。

出張報告会 出張から帰った後、県庁内の教育委員会事務局に呼び出された。場所は、事務局の大西厚生参事の席のテーブルの前に、立ったままで後藤と二人で説明を受けた。報告書を提出する訳でもなく、同席した阿部英一指導主事から、前もって告げられていた『面会者の名刺を提出せよ』により、何枚かの名刺を差し出した。一体どういう意味かと不審に思い、全部は出さなかった。大西参事がどのような事を話したかは覚えていない。結局『県知事部局の主張命令』の行政上の教育公務員(ただ自分は正式採用の教職員ではなかったことなんだろう)に対する犯罪性が今に成れば、見え隠れしている。公務員と言う職務と組織の関係は?