日別アーカイブ: 2013年10月24日

日本の魔境ー靖国神社ー

靖国神社について考えると、その存在の異常さに驚く。靖国神社とは何の為に存在するのか。祀るものは何か。それは宗教なのか、宗教でないのか全く判然としない。社(ヤシロ)があって人がお参りするから、神様というものに関係すると言えるかもしれない。神道でもない。

神とは何か 信仰対象としてのお祈りを捧げる心の拠り所とでも言えば良いのか。宗教とは何だ でも考えた。しかしはっきり言える事は、神などは存在しないと言うことだ。しかし、みんなお参りをし、お祈りをする。何に対してお祈りをするのだろう。普通はそのお祈りをする眼前に、対象となる社や神様と信仰する対象の像形・像影が有る。仏教なら仏壇の先祖、両親のお位牌や、あるいは仏像になる。またはお釈迦様かもしれない。何らかのお祈りの対象を形に表した表象が一般的に存在する。なかでも東大寺の戒壇院に在る『四天王像』の姿は、如何にも人間的な威容を示した拝みたくなる傑作の像形である。しかし一般的には、何が神様かはっきりしない。まさか、仏像やお位牌が神様とは言えなかろう。仏像がどんなに芸術的に優れていようと、その像が神様だとは言えまい。じゃあ何が信仰対象の神様かということになる。自分が今ここに生きている意味は、誰しも祖先や両親の御蔭であることには変わりがない。この地球星の一隅に生きている意味を感謝すれば、それなりの生命の繋がりに思いを致す事は良い事である。しかし、両親が神様には成るまい。お祈りで、手を合わせる事も宗教により異なるものであれば、それは一つの伝統に従う作法でしかないと思う。神など何も存在しないのである。お祈りするのは、その個人の心に描く信仰対象に対して捧げるものであり、万人に共通の神が存在する訳ではない。世界中には宗教毎に、信仰対象の神が互いに対立して存在する現実を理解すれば、神は各人の心の中に描くものでしかないのである。本当に神が存在するなら、世界共通でなければならないのである。宗教、宗派ごとに違うことは、それなりの意味を考えるに十分な考察内容を提供していると言える。国家と同じで、社会的集団組織をまとめ上げる政治的集団としての意義が大きいのである。政治権力と歴史的に強い繋がりを持っていた事は否定できなかろう。極めて、政治的に神という認識対象は都合が良いのである。人間は、死によって全ての物体が原子・分子に分解され、熱として放散され、万物が消滅するのである。人魂とか、霊魂とか英霊とか死霊とか、そんなものは決して存在しないのだ。新しい生命の構成要素として、原子・分子に生まれ変わる「輪廻転生」の一駒になるだけである。生命が繋がる営みにおいて、生命の持つDNAの不可思議が新しい誕生に引き継がれるだけである。その仕組みを神というならそれは正しかろう。自然そのものの仕組みを神と言えば良いかもしれない。そこには政治的懐柔策が入る余地が無いから、極めて公明正大の神の意識として有効であろう。自然の営みの中に、人の時と場所と時代などの全ての偶然が、生命の不思議を醸し出す、そこに神を抱くのはとても穏やかな意味合いで好ましかろう。しかしそんな、公明正大の意識は政治権力には何の魅力も無いから、望まれない。政治に利用され易い宗教らしき対象が、まさに「靖国神社」である。

禪と靖国神社 禪の本領は人間世界の事象について、『嘘』や『虚飾』『偽装』『虚偽』等の表と裏から徹底的にその本質を暴きだし、衆目の眼前に開け広げる事と認識している。真実や真理は人の社会にとって好ましいかどうかは言い切れない。茫洋としていた方が喜ぶ人の数が多かろうから。真理は社会常識の破壊につながるから、とても厳しい現実に曝される。禪の恐ろしさは、全てを暴露するその点に在る。靖国神社は信仰対象とする神に相当するものが何かと考えれば、天皇(神ー終戦までー)の臣民として、天皇の命令に従い、天皇に生命を捧げた特殊階級の特殊な死に方をした軍人であろう。終戦後、舞鶴海軍住宅から故郷に引き揚げて来た。貝野小学校での朝の全校集会の朝礼の様子を覚えている。斉木校長が恭しく敗戦後も、演壇の背景の奥まった処に両開き扉の神殿のような社殿が祭られていた。それは天皇を神格化した神殿である。戦後しばらくそれは続いた。校長が恭しく拝礼する姿であった。そんな戦時の異常な日本の神格化体制が戦後も噴き返そうとしているように思える昨今である様な雰囲気に危惧を抱く。何か神様にすがるような風潮が恐ろしいのである。暗黒日本にならなければと危惧するのである。しかも靖国神社には戦争犯罪者・戦犯(戦争突入の無謀政治による無条件降伏の悲しみを日本国民に背負わせた政治権力者)まで奉っている。靖国神社をIT検索すると、驚く事にWikipediaなどにも相当多くの内容で綴られている。

国会議員と靖国神社 「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」なるお偉い方々がいらっしゃる。今年はその方々は集団行動として、とても繁盛している居られるように伝えられていた。何を信仰されているのか理解が出来ないが、なにはともあれ一つの示威行動の形態である事には変わりが無い。何を訴えたいのか理解するに窮してしまう。どなたを神として信仰なさるかは心の中に描く個人の秘密であるかも知れない。あるいは漠然として、特に神を信仰している訳ではないかもしれない。やはり何が目的かが理解できない。ただ極めて、日本的で世界の衆目からは変な日本の姿としか映らないだろうと思う。欧米人があの光景を見て、「国権の最高機関」の国会議員の集団行動として、世界の平和にどのような貢献をするのかと考えた時、どんな風に写るのかを聞いてみたいものだ。