禪とは?

禪とは何か。ここに禪を取上げたのは、日本の靖国神社とは何かを禪の視点から分解してみようと思ったからである。靖国神社の意味を禪との対象として、別の標題で取上げる。その準備に禪を考えておきたい。(2013/10/27 追記)日本の魔境ー靖国神社ーに記した。今考えれば、禪に触れたのは豊干・寒山・拾得高校三年生の時のように思う。現代国語という教科書の一節に森鴎外の寒山拾得が有った。その内容の不思議な感覚がいつまでも残っていた。自分の生活の中に無い、異次元の世界に触れた思いだったからであろう。先日、ITの青空文庫にあるのを知り、もう一度読んだ。 なかなか深い意味が込められている短編傑作である。豊干・寒山・拾得の3人の禪僧と一人の役人の人生哲学描写のように思う。中国の天台宗清国寺を舞台の話であるが、実際のところ歴史的な事実かどうかは分からないようである。どうも寒山だけが実在の人物であるようにも書かれている。豊干と拾得は寒山の話を盛り上げる為に、付け加えられた人物らしくも書かれている。本当のところは分からないが、寒山だけは確かに実在の人らしい。ITのkotobankで寒山を調べると、中国唐代の隠者、詩人で、農家の生まれながら本ばかり読み、村人や妻にも疎まれ、家出放浪の末天台山に隠棲したとある。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高の隠者で、300余首の詩を残したとある。世間に通用しない、相当のひねくれ者のように感じる。豊干・拾得が実在の人物でないとしても、森鴎外の寒山拾得の話は、禪の精神性を伝えるに良く出来た物語と感心する。

寒山の詩 自然と向き合うこと に寒山の詩が載っている。如何にも寒山らしい孤高の詩人という感じを十分くみ取れる詩である。それを筆にしてみた。寒山詩

天台山が寒山であると。その寒山の天頂に、満月が輝いている。また、昼間の晴れた青空を見上げれば、澄み切った空には何一つない。自然天然には世間的価値は何もないが、それこそかけがえの無い宝物である。俗世間にあれば、五陰の苦しみ悩みに身も心も汚れてしまう。というように解釈したい。

寒山と禪 宗教に関連付ければ、寒山は禪僧と言えよう。釈迦の右隣に控える文殊菩薩が寒山で、獅子に乗った絵図に描かれているが、そんな偶像化は禪と違う。寒山の生きざまは、世間と隔絶した孤高の禪道の人であろう。森鴎外の寒山拾得で描かれる寒山は世間の片隅にひっそりと、みすぼらしく暮らしている人物である。何の飾気も無く。それが禪の本当の姿であろう。有名な達磨絵図がある。その耳にリングがぶら下がっている達磨である。イヤリングの大きいものに見える。そのリングの意味が理解できない。達磨禪師が求めた禪は、そんな虚飾を決して求めない。何も持たず、何も飾らずの裸の生きざまが本当の禪の道であろう。禪関連・その他

とても禪の意味を理解することなど自分には無理である。今まで本棚に飾っていた、本を拾い集めてみた。2.の達磨の研究は神田の古本屋で見つけた。1.と3.はやはりどこかの古本屋で得た。3.の新井石禪は雲洞庵の住職(新井石龍の養親)や大学林の教育に当たった人の様である。しかし本の内容は、どこか富国強兵の流れからか、儒教的・家父長的色彩が強く感じられて感心できなかった。4.乞食(コツジキ)桃水は禪僧の理想の姿で描かれていると思う。人が真似の出来ない行者の姿である。7.絵巻物の地獄草紙(禪には関係ない)は死後の世界として、人々に恐怖を懐かせるに十分過ぎる啓蒙の役目をしただろう。宗教の社会的統制の役割を果たしたであろう。もう一冊大事な本を忘れていた。鈴木大拙著 禅と日本文化(禅と日本文化 を読みながら考えた)である。

禪と座禅 達磨禅師が9年間壁に向かって、座禅をした。その業で何を得たのだろうか。座禅は禅宗での精神修養の基本的形式を成すと言えよう。座禅から始まって座禅に終わる程重要視されていよう。達磨禪師が壁に向かって、何を修行していたのか、その結果どんな悟りに到達したのか。それを尋ねても、何も答えが得られまい。きっと言われるだろう。何も無い!と。無いことが分かれば良いのだろう。それが「色即是空」の意味であるから。無い事を理解するには沢山の事を経験しなければ、到達できない。世界の全ての姿、日常生活の経験、人の心理あるいは路傍の石ころの本質等、ありとあらゆる物事を理解することなど無理であろう。『電流は流れず』の意味を理解するには、電気回路の中の挙動を知り尽くさなければ、理解できない筈である。未熟の中で、悩み迷いながら生きるだけである。結局どおせ大した事ではないのだから、自分で納得すればそれで良い位の答しか無かろう。

だから何も無いのだ。『電荷』も無ければ、『ヒッグス粒子』(折角、ノーベル賞の本年度受賞対象になったが)も無いのだ。光に「振動数」など何処にも無いのだ。ただ有るのは『エネルギー』一つの空間での振る舞い方の違いだけである。『質量』もエネルギーの局所化した極微的軸流でしかない。『温度』は『質量』からのエネルギーの空間放射量の計測量でしかない。

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