(2015/03/11)追記。今も読んでくださる方がいる。嬉しいので、少し考えた。「神」の存在を信じるか信じないかはそれぞれの個人の心の中で決まる。もともと人の心は強くもあり、弱くもある。一人になると、寂しさから耐えられない心に支配されるかもしれない。そんな時手を合わせてお祈りしたくなるのだろう。そのお祈りの対象として、「神」を心に思い描くのかもしれない。自分の事を考えれば、例え手を合わせて祈るとしても、心に描く「神」に相当する対象が無い。尋ねたい。『お祈りする時、貴方は何にお祈りするのですか』と。様々な宗教が世界にはある。その「神」は皆違う。宗派間の闘争の醜さも生む。だから宗教とは何だと疑問に思う。人がこの地球上に生まれた時には宗教など有る筈が無い。言葉も文字も無い。生命だけの裸の人の原始動物でしかない。その形も今の人とは似てもいない。それでも、心だけは生命を支配していた筈だ。生きる事を支配していた。全てが未知との遭遇の世界であっただろう。そんな未知への恐れが心を支配するから、心を救う指導者を求めた。部族の酋長が、その知恵によって安心を与える術を持った。そんな統率の智慧が広がれば、宗教の原型になる。しかし「神」などは存在しない。何か「宗教」と「国家」は似たようなものに思える。現代は昔のように、宗教指導者が智慧で人々に生活の道を説く意味を成さなくなっている。生命科学や、自動車、情報端末が全く生きる価値・意識(心)を変えてしまった。心の智慧より生活の経済力が人を支配してしまった。
先日から、宗教を考えている。摩訶般若心経という経典がある。それは、『観自在菩薩』から始まる。この語句は経の前書きであり、経典全体の主旨を述べていると観る。「皆、自分の中に在る智慧を悟りましょう、それが心の安心に繋がる道である」と解釈する。普通は、「観自在という偉い菩薩様が述べている」と解釈されている。般若心経を禪の意味に解釈すれば、皆が平等に真理に向かいましょうと言う意味になるから、偉い菩薩様という考えは無い筈だ。 宗教の定義 宗教の意義を考えて、定義を試みるが、なかなか難しい。日本における宗教の状況を考えても困難である。何とか自分なりに定義してみようと思う。定義:極めて精神的で、個人的な信仰心に基づきながら、共通の信仰対象(神・偶像・聖者)の下に団体として、心の安心を支え合う社会的な組織体。とまとめてみた。 信仰心と宗教 ここで、信仰心の対象とは何かの問題がある。キリスト教はイエス・キリストであろう。仏教は釈迦であろう。イスラム教はイエス・キリスト、モーゼに対して第三番目のムハンマドを信仰する等と少し複雑である。日本特有に思える宗教に神道がある。神道は信仰対象が無いようだ。神道は日本だけしか存在しない宗教形態のようにも見える。また儒教は宗教に分類できるのだろうか。ただ、中国における宗教を考えると、益々理解できなくなる。現在の中国における宗教は何だろうか。道教とか、儒教とかが宗教色を持って社会的組織体を成しているのかどうかも知らない。儒教なら信仰対象は孔子ということなのだろう。日本の宗教は中国の文明・文化として吸収し、大陸から受け継がれて完成したと観て良かろう。ならば、その中国に宗教の源泉がある訳だが、現在の中国の宗教の姿が余りはっきりとは観えない。しかし、中国の思想史は東洋哲学に偉大な足跡を残していることを示している。老子、荘子等の思想はどこかとても禪に近いものと思う。『道』という概念にもひかれる。しかし、宗教色は持たないようにも思える。 印度哲学と日本の宗教 禪が達磨禪師により、印度から中国に伝えられた。西暦500年頃らしい。その後の西暦645年頃に、玄奘三蔵が印度から大量の経典がもたらすと共に、その翻訳で仏教が伝来されたと観て良かろう。その中国、更に朝鮮などを通して日本に、印度の宗教・仏教が取り入れられたと言えよう。しかし、現在の印度の宗教は仏教よりもヒンドゥー教徒が80パーセント程を占めているらしい。更に、イスラム教徒が14パーセント、シーク教、ジャイナ教(マハトマ・ガンジーも信仰)そして0.7パーセントの仏教徒ということになっているらしい。印度が東洋哲学の源流を成すと考える。それがどれほど遠いものであるかも全く分からない。しかし東南アジアの文化・思想・哲学の主流を成している事は疑いなかろう。その本質は、ヒンドゥー教に在るのではないかと考えたい。何故かと言うと、特定の信仰すべき偶像がある訳でもなく、多くの数えきれない神がいる。多神教と言われるようだが、あらゆるものに神を観ると言えるかもしれない。自然そのものを信仰対象の神と観る東洋哲学の方向性を備えていたのではないかと解釈したい。それはまた、自由を基本とする思想形態に繋がっているものと考えて良かろう。そこから禪への変遷・変化を読み取れる。禪は現在、禅宗としての宗教性が強いが、本来の禪は達磨禪師の9年間の面壁座禅がその意味を示していると思う。宗教性の社会的集団化も何もない。あくまでも個人の自由な悟道の修行がその本質を示している。それは特定の権威や偶像を求めないものであろう。自然の神ならどこにも偶像性は無い。それがインド哲学の本流ではなかったかと思いたい。日本の神道がそれに近いのだろう。何も信仰対象が見当たらない。人は朝日を迎えれば、その神々しさを拝みたくなる。夕焼け雲も自然と心が和む。自然の生命の仲間である人間が、その自然に触れて心が高揚する、そこに生命の意味が現れていると。日本の神道は、本来自然を崇め恐れる心の現れとして、自然に抱く恐怖とその恵みの豊かさへの感謝の気持ちとを合わせ抱く畏敬の念に生まれたものであろう。しかし、社会的に組織化が進むと自ずから統一の権力との関わりが強まる。そこに政治権力からの干渉による精神的信仰への関与が強まる虞もある。また、靖国神社は神道でも無いようだから、宗教でもなく明治時代に富国強兵を目的として造られた特殊なものと観る。 死生観と自然 現代科学が生命の秘密を解き明かした。DNAという単なる4つの塩基が生命の全てを創り上げていると。何故4つかは自然科学の基礎の課題ではある。それらも単に(蛋白質ではない)炭素、窒素そして酸素からなる単純な環状の分子結合体で、原子・分子から出来ている。生命は『死』によって全てが消え去るのである。その分子結合も死によりすべて分解されると観るべきだ。だから生命の形を特徴づけるDNAそのものが消滅すれば、心や精神は完全に消滅するのだ。(残る物も一つある。DNAとして遺骨には残ると言う。事件捜査にも鍵を提供する。ただ疑問が残る。骨は焼いてもDNAが残るのだろうか。それは細胞の意味を考える視点を提供するかもしれない。)当然霊魂等も決して残らない。亡霊も出ない。誰かが好きな崇拝対象の「英霊」など決して存在しない。生きている人間の脳の中に想像して、作り上げる対象でしかない。生命の意味もDNAによって最近説き明かされた訳で、それまではなかなか『死後の世界』への恐怖を取り払うことなど難しかった。そこに安心を得る宗教が生まれたと考える。自然は恐ろしい。豊かな恵みと凶暴さを備えている。津波や雷の恐ろしさは避けようがない。古代の生贄の儀式も自然への恐怖が生みだした、精神的統制の祭り形式を兼ねた政治手法と看做せよう。未来の宗教は如何に在るべきかは困難な課題となりつつある。宗派間の争いの道具になるべき筈が無いのに、宗教が世界の殺戮を引き起している原因になるのは何故であろうか。政治権力が主導的役割を果たしていないと言えるだろうか。宗教の目的は争いを無くする筈ではないのか。死生観を解きほぐす道を自然科学が解き明かしたが、人の心の自然は難しい。