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竜巻

今年の夏も竜巻が発生した。予防対策の施しようがない。限られた範囲を通過する。その範囲に入ると、全てが持ち去られ、破壊されてしまう。日本古来の木造建築一般住宅の生活様式が、その竜巻には全く無力である。建造物を浮き上がらせる空気の浮力のように思える。竜巻は台風と同じく、右巻きの上昇気流である。範囲は極めて限られた範囲で、筒状の高速回転気流のようである。そんな気象現象には対策の施しようがない。恐ろしい限りだ。その恐ろしさを描いてみた。竜巻

瓦が舞いあがり、自動車が10メートルも吹き飛ばされる。こんな気象現象は、日本の風土には馴染みがなかった気象だ。根こそぎ持ち上げるから対応できない。逃げようがない。そんな様子を筆字に描いた。

竜巻の原因 局部的な地上の高気温で、上空に冷気が流れ込む現象が基である。高気温は基本的に水蒸気を多量に含む。上空の冷気の流れ込みで、上空の水蒸気が冷却される。水蒸気は空気の他の元素と比べれば、特筆すべき特質を秘めている。冷やされると、急激に気体から液体に急変する。それはボイル・シャルルの法則通り、上空の急激な圧力低下を来たす。地上と上空の気温分布差が、空気の水蒸気分に基づく体積分布の差がそのまま圧力・気圧差となり、上空の低気圧空間に地上からの高気圧気流の吸い込み現象が生じるのである。水蒸気の空気含有量が上空の冷気冷却で、上空と地上間に急激な圧力差を生み出すことが原因である。気温と水蒸気および冷気の相互関係が基本原因である。渦潮も海流の流れで、海底に吸い込み現象が生じるから起こるのである。原因は圧力差という点で、力学的には同じものである。蒸気タービン運転機能で、復水器による真空冷却に似た自然現象である。水の蒸発現象(100度で蒸発、沸騰する)を、理科教育で取上げているような内容じゃ、生活に溶け込んだ自然現象(1度でも蒸発している。海水温24度でどれほど蒸発するか)の理解には成るまい。自然科学は生活科学でなければ成らず、学校の理科教育の無能力さを知る事から始めなければならない。文科省の存在意義も問われる事である。

北半球では、右回りの竜巻に成る。偏西風と地球自転、地球の球形が基である。

高密度都市化、地球過熱化の経済成長路線が世界的規模での異常気象の根本的原因である。エネルギー多消費社会を目指す限りは避けられない現実である。地球星から宇宙空間にどれ程のエネルギー(熱量)を放散できるかである。水蒸気放散(地球水放散)、光放散と考えても余り冷却効果は期待出来まい。原子力発電が、地球温暖化抑制に成る等という迷走科学論が蔓延る限りは、人類の未来は自然破壊驚異の前に、驕りの結果への洗礼を受けよう。合掌。

日本の魔境ー靖国神社ー

靖国神社について考えると、その存在の異常さに驚く。靖国神社とは何の為に存在するのか。祀るものは何か。それは宗教なのか、宗教でないのか全く判然としない。社(ヤシロ)があって人がお参りするから、神様というものに関係すると言えるかもしれない。神道でもない。

神とは何か 信仰対象としてのお祈りを捧げる心の拠り所とでも言えば良いのか。宗教とは何だ でも考えた。しかしはっきり言える事は、神などは存在しないと言うことだ。しかし、みんなお参りをし、お祈りをする。何に対してお祈りをするのだろう。普通はそのお祈りをする眼前に、対象となる社や神様と信仰する対象の像形・像影が有る。仏教なら仏壇の先祖、両親のお位牌や、あるいは仏像になる。またはお釈迦様かもしれない。何らかのお祈りの対象を形に表した表象が一般的に存在する。なかでも東大寺の戒壇院に在る『四天王像』の姿は、如何にも人間的な威容を示した拝みたくなる傑作の像形である。しかし一般的には、何が神様かはっきりしない。まさか、仏像やお位牌が神様とは言えなかろう。仏像がどんなに芸術的に優れていようと、その像が神様だとは言えまい。じゃあ何が信仰対象の神様かということになる。自分が今ここに生きている意味は、誰しも祖先や両親の御蔭であることには変わりがない。この地球星の一隅に生きている意味を感謝すれば、それなりの生命の繋がりに思いを致す事は良い事である。しかし、両親が神様には成るまい。お祈りで、手を合わせる事も宗教により異なるものであれば、それは一つの伝統に従う作法でしかないと思う。神など何も存在しないのである。お祈りするのは、その個人の心に描く信仰対象に対して捧げるものであり、万人に共通の神が存在する訳ではない。世界中には宗教毎に、信仰対象の神が互いに対立して存在する現実を理解すれば、神は各人の心の中に描くものでしかないのである。本当に神が存在するなら、世界共通でなければならないのである。宗教、宗派ごとに違うことは、それなりの意味を考えるに十分な考察内容を提供していると言える。国家と同じで、社会的集団組織をまとめ上げる政治的集団としての意義が大きいのである。政治権力と歴史的に強い繋がりを持っていた事は否定できなかろう。極めて、政治的に神という認識対象は都合が良いのである。人間は、死によって全ての物体が原子・分子に分解され、熱として放散され、万物が消滅するのである。人魂とか、霊魂とか英霊とか死霊とか、そんなものは決して存在しないのだ。新しい生命の構成要素として、原子・分子に生まれ変わる「輪廻転生」の一駒になるだけである。生命が繋がる営みにおいて、生命の持つDNAの不可思議が新しい誕生に引き継がれるだけである。その仕組みを神というならそれは正しかろう。自然そのものの仕組みを神と言えば良いかもしれない。そこには政治的懐柔策が入る余地が無いから、極めて公明正大の神の意識として有効であろう。自然の営みの中に、人の時と場所と時代などの全ての偶然が、生命の不思議を醸し出す、そこに神を抱くのはとても穏やかな意味合いで好ましかろう。しかしそんな、公明正大の意識は政治権力には何の魅力も無いから、望まれない。政治に利用され易い宗教らしき対象が、まさに「靖国神社」である。

禪と靖国神社 禪の本領は人間世界の事象について、『嘘』や『虚飾』『偽装』『虚偽』等の表と裏から徹底的にその本質を暴きだし、衆目の眼前に開け広げる事と認識している。真実や真理は人の社会にとって好ましいかどうかは言い切れない。茫洋としていた方が喜ぶ人の数が多かろうから。真理は社会常識の破壊につながるから、とても厳しい現実に曝される。禪の恐ろしさは、全てを暴露するその点に在る。靖国神社は信仰対象とする神に相当するものが何かと考えれば、天皇(神ー終戦までー)の臣民として、天皇の命令に従い、天皇に生命を捧げた特殊階級の特殊な死に方をした軍人であろう。終戦後、舞鶴海軍住宅から故郷に引き揚げて来た。貝野小学校での朝の全校集会の朝礼の様子を覚えている。斉木校長が恭しく敗戦後も、演壇の背景の奥まった処に両開き扉の神殿のような社殿が祭られていた。それは天皇を神格化した神殿である。戦後しばらくそれは続いた。校長が恭しく拝礼する姿であった。そんな戦時の異常な日本の神格化体制が戦後も噴き返そうとしているように思える昨今である様な雰囲気に危惧を抱く。何か神様にすがるような風潮が恐ろしいのである。暗黒日本にならなければと危惧するのである。しかも靖国神社には戦争犯罪者・戦犯(戦争突入の無謀政治による無条件降伏の悲しみを日本国民に背負わせた政治権力者)まで奉っている。靖国神社をIT検索すると、驚く事にWikipediaなどにも相当多くの内容で綴られている。

国会議員と靖国神社 「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」なるお偉い方々がいらっしゃる。今年はその方々は集団行動として、とても繁盛している居られるように伝えられていた。何を信仰されているのか理解が出来ないが、なにはともあれ一つの示威行動の形態である事には変わりが無い。何を訴えたいのか理解するに窮してしまう。どなたを神として信仰なさるかは心の中に描く個人の秘密であるかも知れない。あるいは漠然として、特に神を信仰している訳ではないかもしれない。やはり何が目的かが理解できない。ただ極めて、日本的で世界の衆目からは変な日本の姿としか映らないだろうと思う。欧米人があの光景を見て、「国権の最高機関」の国会議員の集団行動として、世界の平和にどのような貢献をするのかと考えた時、どんな風に写るのかを聞いてみたいものだ。

禪とは?

禪とは何か。ここに禪を取上げたのは、日本の靖国神社とは何かを禪の視点から分解してみようと思ったからである。靖国神社の意味を禪との対象として、別の標題で取上げる。その準備に禪を考えておきたい。(2013/10/27 追記)日本の魔境ー靖国神社ーに記した。今考えれば、禪に触れたのは豊干・寒山・拾得高校三年生の時のように思う。現代国語という教科書の一節に森鴎外の寒山拾得が有った。その内容の不思議な感覚がいつまでも残っていた。自分の生活の中に無い、異次元の世界に触れた思いだったからであろう。先日、ITの青空文庫にあるのを知り、もう一度読んだ。 なかなか深い意味が込められている短編傑作である。豊干・寒山・拾得の3人の禪僧と一人の役人の人生哲学描写のように思う。中国の天台宗清国寺を舞台の話であるが、実際のところ歴史的な事実かどうかは分からないようである。どうも寒山だけが実在の人物であるようにも書かれている。豊干と拾得は寒山の話を盛り上げる為に、付け加えられた人物らしくも書かれている。本当のところは分からないが、寒山だけは確かに実在の人らしい。ITのkotobankで寒山を調べると、中国唐代の隠者、詩人で、農家の生まれながら本ばかり読み、村人や妻にも疎まれ、家出放浪の末天台山に隠棲したとある。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高の隠者で、300余首の詩を残したとある。世間に通用しない、相当のひねくれ者のように感じる。豊干・拾得が実在の人物でないとしても、森鴎外の寒山拾得の話は、禪の精神性を伝えるに良く出来た物語と感心する。

寒山の詩 自然と向き合うこと に寒山の詩が載っている。如何にも寒山らしい孤高の詩人という感じを十分くみ取れる詩である。それを筆にしてみた。寒山詩

天台山が寒山であると。その寒山の天頂に、満月が輝いている。また、昼間の晴れた青空を見上げれば、澄み切った空には何一つない。自然天然には世間的価値は何もないが、それこそかけがえの無い宝物である。俗世間にあれば、五陰の苦しみ悩みに身も心も汚れてしまう。というように解釈したい。

寒山と禪 宗教に関連付ければ、寒山は禪僧と言えよう。釈迦の右隣に控える文殊菩薩が寒山で、獅子に乗った絵図に描かれているが、そんな偶像化は禪と違う。寒山の生きざまは、世間と隔絶した孤高の禪道の人であろう。森鴎外の寒山拾得で描かれる寒山は世間の片隅にひっそりと、みすぼらしく暮らしている人物である。何の飾気も無く。それが禪の本当の姿であろう。有名な達磨絵図がある。その耳にリングがぶら下がっている達磨である。イヤリングの大きいものに見える。そのリングの意味が理解できない。達磨禪師が求めた禪は、そんな虚飾を決して求めない。何も持たず、何も飾らずの裸の生きざまが本当の禪の道であろう。禪関連・その他

とても禪の意味を理解することなど自分には無理である。今まで本棚に飾っていた、本を拾い集めてみた。2.の達磨の研究は神田の古本屋で見つけた。1.と3.はやはりどこかの古本屋で得た。3.の新井石禪は雲洞庵の住職(新井石龍の養親)や大学林の教育に当たった人の様である。しかし本の内容は、どこか富国強兵の流れからか、儒教的・家父長的色彩が強く感じられて感心できなかった。4.乞食(コツジキ)桃水は禪僧の理想の姿で描かれていると思う。人が真似の出来ない行者の姿である。7.絵巻物の地獄草紙(禪には関係ない)は死後の世界として、人々に恐怖を懐かせるに十分過ぎる啓蒙の役目をしただろう。宗教の社会的統制の役割を果たしたであろう。もう一冊大事な本を忘れていた。鈴木大拙著 禅と日本文化(禅と日本文化 を読みながら考えた)である。

禪と座禅 達磨禅師が9年間壁に向かって、座禅をした。その業で何を得たのだろうか。座禅は禅宗での精神修養の基本的形式を成すと言えよう。座禅から始まって座禅に終わる程重要視されていよう。達磨禪師が壁に向かって、何を修行していたのか、その結果どんな悟りに到達したのか。それを尋ねても、何も答えが得られまい。きっと言われるだろう。何も無い!と。無いことが分かれば良いのだろう。それが「色即是空」の意味であるから。無い事を理解するには沢山の事を経験しなければ、到達できない。世界の全ての姿、日常生活の経験、人の心理あるいは路傍の石ころの本質等、ありとあらゆる物事を理解することなど無理であろう。『電流は流れず』の意味を理解するには、電気回路の中の挙動を知り尽くさなければ、理解できない筈である。未熟の中で、悩み迷いながら生きるだけである。結局どおせ大した事ではないのだから、自分で納得すればそれで良い位の答しか無かろう。

だから何も無いのだ。『電荷』も無ければ、『ヒッグス粒子』(折角、ノーベル賞の本年度受賞対象になったが)も無いのだ。光に「振動数」など何処にも無いのだ。ただ有るのは『エネルギー』一つの空間での振る舞い方の違いだけである。『質量』もエネルギーの局所化した極微的軸流でしかない。『温度』は『質量』からのエネルギーの空間放射量の計測量でしかない。

私は偽者か

自分の存在の意味が理解できない。昨年(2012年)9月16日のぶり返しになる。新潟県長岡市の県営プール、ダイエイプロミスでニチレイ泳力検定を受けた。100メートル個人メドレイ。受け取った検定合格の『認定証』3枚ある。最初に受け取った偽物。認定証1

殆どの文字が偽装文字である。2級の2、氏名、時間1分56秒36は1分50秒36の間違い。平成の文字。など文字は筆書きの偽装認定証。2

次に訂正要求に対して、送られて来た『認定証』。時間は24秒とある。これならオリンピックで金メダル間違いなし。驚いた。3

とうとう最後まで『ニセモノ認定証』しか発行されなかった。日本水泳連盟 泳力検定係が最終的に認定をするのである。本部のある岸記念体育館内にあるらしい。認定証は、氏名の文字は活字体で全て打ち出される。しかしとうとう最後までニセ文字である。日本水泳連盟は日本政府、文部科学省の管轄である。こんな『ニセ認定証』を我慢して受け取らなければならない事が悲しいのである。日本政府に『あなたは偽物』と認定されていると同じ事である。ダイエイプロミスの事務担当者に質すと、PCに打ち込むと、全て「不合格」となり、受け付けられません。という説明であった。

上の『認定証』について、日本政府犯罪と言わずして何と言えば良いのか。こんな人権侵害は、憲法が無い国と同じ国家に思える。こんな中で何が「科学研究」になろうか。

水泳の大会に参加 71才前に、はじめて大会に参加した。その記録も参考に。マスターフェスチバル記録

100m自由形で、飛び込んだ途端にゴーグルが外れてしまった。水の中では、視界が殆ど無い。25mのターンで壁に手が届くのに時間がかかり、競争を諦めようかと考えたが、折角だからと最後まで頑張った。1位でゴールには驚いた。しかも大会新で。5種目も参加する羽目になり、疲労の為に帰った時には完全に虚脱放心状態。

宗教とは何だ

(2015/03/11)追記。今も読んでくださる方がいる。嬉しいので、少し考えた。「神」の存在を信じるか信じないかはそれぞれの個人の心の中で決まる。もともと人の心は強くもあり、弱くもある。一人になると、寂しさから耐えられない心に支配されるかもしれない。そんな時手を合わせてお祈りしたくなるのだろう。そのお祈りの対象として、「神」を心に思い描くのかもしれない。自分の事を考えれば、例え手を合わせて祈るとしても、心に描く「神」に相当する対象が無い。尋ねたい。『お祈りする時、貴方は何にお祈りするのですか』と。様々な宗教が世界にはある。その「神」は皆違う。宗派間の闘争の醜さも生む。だから宗教とは何だと疑問に思う。人がこの地球上に生まれた時には宗教など有る筈が無い。言葉も文字も無い。生命だけの裸の人の原始動物でしかない。その形も今の人とは似てもいない。それでも、心だけは生命を支配していた筈だ。生きる事を支配していた。全てが未知との遭遇の世界であっただろう。そんな未知への恐れが心を支配するから、心を救う指導者を求めた。部族の酋長が、その知恵によって安心を与える術を持った。そんな統率の智慧が広がれば、宗教の原型になる。しかし「神」などは存在しない。何か「宗教」と「国家」は似たようなものに思える。現代は昔のように、宗教指導者が智慧で人々に生活の道を説く意味を成さなくなっている。生命科学や、自動車、情報端末が全く生きる価値・意識(心)を変えてしまった。心の智慧より生活の経済力が人を支配してしまった。

先日から、宗教を考えている。摩訶般若心経という経典がある。それは、『観自在菩薩』から始まる。この語句は経の前書きであり、経典全体の主旨を述べていると観る。「皆、自分の中に在る智慧を悟りましょう、それが心の安心に繋がる道である」と解釈する。普通は、「観自在という偉い菩薩様が述べている」と解釈されている。般若心経を禪の意味に解釈すれば、皆が平等に真理に向かいましょうと言う意味になるから、偉い菩薩様という考えは無い筈だ。 宗教の定義 宗教の意義を考えて、定義を試みるが、なかなか難しい。日本における宗教の状況を考えても困難である。何とか自分なりに定義してみようと思う。定義:極めて精神的で、個人的な信仰心に基づきながら、共通の信仰対象(神・偶像・聖者)の下に団体として、心の安心を支え合う社会的な組織体。とまとめてみた。 信仰心と宗教 ここで、信仰心の対象とは何かの問題がある。キリスト教はイエス・キリストであろう。仏教は釈迦であろう。イスラム教はイエス・キリスト、モーゼに対して第三番目のムハンマドを信仰する等と少し複雑である。日本特有に思える宗教に神道がある。神道は信仰対象が無いようだ。神道は日本だけしか存在しない宗教形態のようにも見える。また儒教は宗教に分類できるのだろうか。ただ、中国における宗教を考えると、益々理解できなくなる。現在の中国における宗教は何だろうか。道教とか、儒教とかが宗教色を持って社会的組織体を成しているのかどうかも知らない。儒教なら信仰対象は孔子ということなのだろう。日本の宗教は中国の文明・文化として吸収し、大陸から受け継がれて完成したと観て良かろう。ならば、その中国に宗教の源泉がある訳だが、現在の中国の宗教の姿が余りはっきりとは観えない。しかし、中国の思想史は東洋哲学に偉大な足跡を残していることを示している。老子、荘子等の思想はどこかとても禪に近いものと思う。『道』という概念にもひかれる。しかし、宗教色は持たないようにも思える。 印度哲学と日本の宗教 禪が達磨禪師により、印度から中国に伝えられた。西暦500年頃らしい。その後の西暦645年頃に、玄奘三蔵が印度から大量の経典がもたらすと共に、その翻訳で仏教が伝来されたと観て良かろう。その中国、更に朝鮮などを通して日本に、印度の宗教・仏教が取り入れられたと言えよう。しかし、現在の印度の宗教は仏教よりもヒンドゥー教徒が80パーセント程を占めているらしい。更に、イスラム教徒が14パーセント、シーク教、ジャイナ教(マハトマ・ガンジーも信仰)そして0.7パーセントの仏教徒ということになっているらしい。印度が東洋哲学の源流を成すと考える。それがどれほど遠いものであるかも全く分からない。しかし東南アジアの文化・思想・哲学の主流を成している事は疑いなかろう。その本質は、ヒンドゥー教に在るのではないかと考えたい。何故かと言うと、特定の信仰すべき偶像がある訳でもなく、多くの数えきれない神がいる。多神教と言われるようだが、あらゆるものに神を観ると言えるかもしれない。自然そのものを信仰対象の神と観る東洋哲学の方向性を備えていたのではないかと解釈したい。それはまた、自由を基本とする思想形態に繋がっているものと考えて良かろう。そこから禪への変遷・変化を読み取れる。禪は現在、禅宗としての宗教性が強いが、本来の禪は達磨禪師の9年間の面壁座禅がその意味を示していると思う。宗教性の社会的集団化も何もない。あくまでも個人の自由な悟道の修行がその本質を示している。それは特定の権威や偶像を求めないものであろう。自然の神ならどこにも偶像性は無い。それがインド哲学の本流ではなかったかと思いたい。日本の神道がそれに近いのだろう。何も信仰対象が見当たらない。人は朝日を迎えれば、その神々しさを拝みたくなる。夕焼け雲も自然と心が和む。自然の生命の仲間である人間が、その自然に触れて心が高揚する、そこに生命の意味が現れていると。日本の神道は、本来自然を崇め恐れる心の現れとして、自然に抱く恐怖とその恵みの豊かさへの感謝の気持ちとを合わせ抱く畏敬の念に生まれたものであろう。しかし、社会的に組織化が進むと自ずから統一の権力との関わりが強まる。そこに政治権力からの干渉による精神的信仰への関与が強まる虞もある。また、靖国神社は神道でも無いようだから、宗教でもなく明治時代に富国強兵を目的として造られた特殊なものと観る。 死生観と自然 現代科学が生命の秘密を解き明かした。DNAという単なる4つの塩基が生命の全てを創り上げていると。何故4つかは自然科学の基礎の課題ではある。それらも単に(蛋白質ではない)炭素、窒素そして酸素からなる単純な環状の分子結合体で、原子・分子から出来ている。生命は『死』によって全てが消え去るのである。その分子結合も死によりすべて分解されると観るべきだ。だから生命の形を特徴づけるDNAそのものが消滅すれば、心や精神は完全に消滅するのだ。(残る物も一つある。DNAとして遺骨には残ると言う。事件捜査にも鍵を提供する。ただ疑問が残る。骨は焼いてもDNAが残るのだろうか。それは細胞の意味を考える視点を提供するかもしれない。)当然霊魂等も決して残らない。亡霊も出ない。誰かが好きな崇拝対象の「英霊」など決して存在しない。生きている人間の脳の中に想像して、作り上げる対象でしかない。生命の意味もDNAによって最近説き明かされた訳で、それまではなかなか『死後の世界』への恐怖を取り払うことなど難しかった。そこに安心を得る宗教が生まれたと考える。自然は恐ろしい。豊かな恵みと凶暴さを備えている。津波や雷の恐ろしさは避けようがない。古代の生贄の儀式も自然への恐怖が生みだした、精神的統制の祭り形式を兼ねた政治手法と看做せよう。未来の宗教は如何に在るべきかは困難な課題となりつつある。宗派間の争いの道具になるべき筈が無いのに、宗教が世界の殺戮を引き起している原因になるのは何故であろうか。政治権力が主導的役割を果たしていないと言えるだろうか。宗教の目的は争いを無くする筈ではないのか。死生観を解きほぐす道を自然科学が解き明かしたが、人の心の自然は難しい。