電荷の否定は科学的発見か

自然科学は新しい発見によって、その基盤が拡大して来た。発見は古い解釈を新しい観点から見直す切っ掛けとなる。しかし、微動だにしないできた『不動明王』の如き概念に『電荷』がある。いつ、誰が発見し、どのようにその概念の修正がなされてきたかも判然とせず、今日まで『電荷』概念はあらゆる物理学理論の根幹をなす基礎として社会的に確立している。それにも拘らず、筆者はその『電荷』がこの世界には存在しないと断言して来た。自然科学の研究者の多くの方々の意見や社会認識と異なる訳だから、自分は自然科学について認識不足であるがための間違った主張と言われそうだ。世界の物理学の科学者が疑いもせず、存在を信じて来た『電荷』であるのだから。しかし、社会認識・科学常識に反する解釈でも、自分にとっては自然界を認識するための原理・原則と成ってしまった『電荷』否定の観点は譲れない。

直覚は・・

直覚は禪で使われもする。自分も何か格別な感覚で受け取りたくなる言葉だ。別の言葉で言えば、直覚は自然との融合の絆とでも言えるように思う。ただ共鳴する心の姿。そこには数式や理論は妨げになる。語句『感応』について。服部宇之吉 小柳司氣太 共著 修訂 増補 詳解漢和大字典 冨山房 で見つけた。㋑感じて饗応する。㋺外界のことが自然に心にひびきうごく。㋥(物理)導体が磁石、発電機などに接近して電気又は磁気を感じ起す。感応コイル。等と感応の解説がある。語句、直覚と感応は良く響き合う意味に思う。こんな筆墨が自然科学に程遠いかもしれないが、自然との心の絆に的を得た表現と思う。こんな観点から自分の自然観を振り返ってみたくなった。

科学的発見とは何か? 下村 脩氏が発見した『オワンクラゲ』の生物学の偉業がある。自然の不思議を説き明かしたノーベル化学賞の栄誉を得た。まさしく科学的発見と言える。それに対して、理論物理学はとても評価できるものに思えない。その事に関して、例えば標題に記した『電荷否定』の観点から考えてみる。それは何も発見していない。それどころか筆者は、長い自然科学史の根幹をなし、殆どの科学者が理論の論拠として来た『電荷』を否定し、電荷は世界に存在しないと言う認識にある。自然科学は、新しい発見が次々と積み重なって、自然認識の奥行きが深まり、どんどん複雑な自然観に展開されて来たように思われていよう。そんな自然科学に対する認識さえも、否定しなければならない心境にある。根幹的基礎概念の否定は科学的発見に当たるのだろうか?過去の自然科学の理論を否定することでもある。

直覚の道 電気磁気学の講義の中で、アンペアの周回積分・ファラディの電磁誘導則の矛盾に気付いた。誰も矛盾に気付かなかったのだろうか。そう考えると、筆者が感じた矛盾はどこから、どんな理由で湧きあがって来たのだろうか。電気磁気学は数式により、論理性の高い厳密な理論科学論の代表である筈だ。それなら、筆者が数学的な理解が無くて、電気磁気学の本質を分からないが故の矛盾観と看做されると言うことだろうか。確かに、高等数学とも言える現代数学については全く無関心で、それを理解する能力も無い。先日、NHKスペシャルで「神の数式」と言う現代物理学の話題が二夜連続で、放送されていた。その数式の表現形式の意味さへ珍紛漢紛で、それが数学の式との認識も出来ない程無知である。数式を放送で取上げるなら、その意味が理解できる視聴者がどれ程居るかを十分考えての放送とは思うが、筆者にも全く分からない数式である事を考えると、相当放送の意義に疑問を抱かざるを得ない思いだ。マックスウエルの電磁場方程式さえ、十分条件を満たしていないと観なければならない現実で、いったい高等数学で表現する物理的現象など意味があるのだろうかと疑問に思う。筆者が過去に懐いた疑問や矛盾は、殆ど瞬間的に頭の中に湧きあがる感覚である。その感覚の中味を具体的に後から確認することで、次第に確信的な問答として明確になってくる。その時に、理論はその意味を追究することで、矛盾に満ちているとの認識に至るのである。従って、その時には数学的表現式そのものが同時に意味の無いものとして理解されるのである。今まで自身も信奉して来た原理・原則が崩れ去るのである。大事に学習して来た理論付の基礎が崩れ去って、何も無くなるのである。全くの理論的武装力が崩壊し、何も無い状態に落ち込むのである。無手勝流と言う用語があるが、柳生但馬の守・石舟斎の無刀取にも成らない、何も無いことになる。その結果の確信が『電荷概念の噓』と言う結論であり、初めに懐いた疑問・矛盾の始発の観点である。自然科学理論の根幹を否定する、科学概念論は科学的発見の名には当たらない反逆科学論とでも言うものになるのかと思う。しかし、自然の真理は我が解釈論に在るのだ。科学者が『電荷』を信じるなら、その空間実像を明確に示すことが科学者としての責任である。市民の科学論としての意義を『未来の自然の真理』に求めるべきであるとの思いを強くする。基本さえ間違わないで、理解できれば、曖昧で不安な『放射性物質事件』も、誰もが真相を理解したうえで、『原子力発電』の是非を論じられる筈である。

技術社会と未来の安全性 原子核理論はじめ原子構造論も真理を捉えていない。今は専門家さえその明確な理解が出来ていないのである。放射能と放射線の意味が理解されているか。その用語の社会的認知はどうであるか。そんな不安は、『電子』一つもその実像を捉えられずに重ねている科学論に問題の根源がある。曖昧な科学論の上に重ねる「矛盾・不安」が現代社会の暗闇として広がっている。理論・理論と大学教育が偏重している事が、技術社会の技術力を欠落させ、益々技術欠陥社会の危険の増大を来たすのである。経済成長が社会的進歩と認識する流れは、高度技術に支配された社会に対応できない技術音痴の乖離性精神拘束社会に流れて行く。しかも指導的支配層が、技術音痴の法律・経済家が進めるとなれば、社会は益々危険になる。技術と社会安全性の統合力が欠落する危機が増える。身近な問題を挙げれば、テレビ番組の録画と記録利用の方法を誰もが利用できるかと言う問題である。複雑で操作も難しいが、それを時代の進歩と考えること自体が、社会的統合失調症の未来に向かっているのだ。技術統合失調症社会である。自然の基礎が如何なるかを誰もが理解でき、間違わないなら社会的合意の未来に勧める。複雑な、ヒッグス粒子などを論じるなら、その基礎の陽子のプラス『電荷』がどのようなものかを市民に説明して論じるべきだ。最近自動車の制御方式で、機械による自動制御運転の話題がある。しかし、道路上に高度制御された車とポンコツ車が同時に走る場合に、その統合された安全性をどう保てるのかが気掛かりだ。高所得者は、エコ対策での税制優遇を受けられるたが、貧乏人にはない。また最近は高級車で、『前照灯』の白の高輝度ランプが増えて来て、対向車に視界の眩しさによる安全性の危惧がある。技術と調和した安全性の整合性欠落の問題が問われている。

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