『特攻隊』に観る集団強制的・反人道的・日本全体主義ー良き未来を願って!-

『禪』と武士道について思いあぐねているうちに、どうしても気掛かりな事が頭を駆け巡る。それは先の戦争での、『特攻隊』の意味である。

禅は直接源流のインドから入って来た訳ではない。禅は、主に中国の宋の時代、日本の僧が大陸で学んだ学問として、本国に持ち帰った歴史的経過を経て日本に定着したものであろう。中国には、孔子の論語と『儒教』がある。『禪』と『儒教』が互いに影響し合いながら、社会に浸透したものであるらしい。その両方の思想を同時に日本に取り入れた筈である。鈴木大拙著 禅と日本文化 からそう思う。

『禪』の特質、個の尊重・独立性。あくまでも個人の主体的で、自然調和の思索を重んじる思想と思う。

『儒教』の特質、それは全体統制的・家父長制。『子のたまはく・・』と寺子屋での『論語』講読として過去の日本の風景ともなっている。歴史的制度である『儒教』の学習制度だ。儒教は、政治体制の安定と全体的集団化に都合が良い思想であろう。

武士道 『道』と言う何か哲学的、思想的意味合いが有るかの思いに囚われる用語が、これまた極めて日本的な使われ方である。神道(仏教道とは言わない)、華道、柔道、剣道、茶道あるいは人道等と道が付く。車道は意味合いが違い、本来の意味の使い方である。『道』には精神的な耐え忍ばないと、成就しない過酷さが隠されている様な意味合いで使われるように見える。暴力的指導が潜在的に横行する背景として、日本的『道』は権力的優位にある側に都合が良い意味合いでもあるように思う。寺子屋制度にも遡る、日本的精神訓練と称する体制固めが今も庶民的意識として、街中に存続しているのである。武士道は、どうも『禪』とは懸け離れた思想的領海に形成されたように思える。むしろ対極的な、『儒教』の世界に縛られた道に見える。この辺の論は、過去の論客の解釈と相当違うだろう。禅は自由な、あくまでも社会的強制からは離れた、独立の個の精神にだけ行動の規範を求める本質を持っていると解釈する。しかし、武士が生き残るには、歴史が示すように、権力者の庇護の下で生きざるを得なかった。そこに、武士道の『道』の意味が有ると思う。「中世以降、日本の武士階級に発達した独特の倫理。忠節・礼儀・武勇・信義・名誉などを重んじる。禅宗・儒教によって洗練されたもの。(現代語・古語 新潮国語辞典 第二版より。)」と説明されるが、禅よりもむしろ儒教の色が濃く反映された『道』の意味合いであると思う。武士も、庇護を受けて、いざ鎌倉となれば、忠節・信義・武勇で答えるのが『道』の精神である事を肝に銘じていた。恩義(報いるべき義理のあること)・忠誠(忠実で正直なこと)・忠義(主君や国家に対して真心を持って仕えること)が武士の守るべき規範になった。放浪の武士は自由で、『禪』の精神を生きられたであろうが、独立と孤独の中に身を置かなければならなかった。また、禅僧が地方で、生き仏として、自分の生命を捧げた『塚』が有る。それはあくまでも、自己の意思での自由な犠牲的精神の結果である。ただ、『生死一如』などの文言も『禪』の思想的背景になっているが。

『特攻隊』 その太平洋・アジア戦争(第二次世界大戦)における日本的特徴の日本国家的戦争制度にあった『特攻隊』制度を挙げなければならない。今も、日本人はこの国家的制度をどのように認識し、どう捉えているのだろうか。戦争における『個人の意思』と集団的全体体制による『個人の意思の抹殺』と言う自由の剥奪。それは、今も何処の国においても強制的『徴兵制度』として常態的である。しかし『特攻隊』は、更に兵士の『死』を強制的に、国家権力の戦争の手段として執り行ったものである。これを人道的に許される権力行使と観るのだろうか。戦争の傷跡を、日本人はどのように考えて来たのだろうか。最近の政治意識の向こう側に見え隠れする、強権的な流れに流されそうな様子が見えて、未来への不安が止まない。それは、ジャーナリズム報道に於いても全体性的傾向に見える。日本的全体主義傾向が『特攻隊』に象徴されているようで、日本的『武士道』精神が誠に権力側に好都合に利用されて来たと解釈する。靖国神社の参拝問題も、『戦陣に散った御霊』と言うが、禅の道には、そんなものはないと解釈する。それは宗教的思想の問題でも有ろうから、それぞれの個々人の解釈になろう。『禪』は抽象的な偶像は余り信仰しないと解釈する。現実の『実在』を重んじるものであるから『霊』などには関わらないと思うが、体制維持の権力者側にとっては社会的精神高揚の意味で極めて大切になるのであろう。日本的全体性が、異なる意見を排除する任侠的な傾向の恐ろしさに『特攻隊』がある。『生死一如』等が権力側に利用されないように精神を鍛えておかなければならない。平和を守ると言う事を『戦争拒否』で実践するには自由な自己の精神での死をも厭わない、拒否する覚悟が『禪』の本筋である。そこに『儒教』との違いがある。

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