禅と日本文化 を読みながら考えた

『禅と日本文化』 鈴木大拙著 北川桃雄訳 岩波新書 第49刷(1988) は以前から時々読んでいた。昔から、禅は難しく読んでも中々理解できないものであったが、その禪と日本文化分強く惹かれる。この本は、昭和15年(太平洋戦争開戦前)に、大拙・鈴木貞太郎博士が外国人のために、禅の解説に英語で書かれたもので、その和訳本である。外国人どころか、自分にとってどんなに禅の理解に役立つか計り知れない。

今日改めて読み始めた。その内容は初めの部分を読むだけで、博士の広い造詣の深さに驚きを禁じ得ない。そのお陰で、読んで心に響き、未熟で、不完全で、成長できない自分を見詰めるのに本当に安心を与えてくれる内容である。こんな自分でも良いかもしれないと教えてくれるようにとれる。全く社会との関わりがとれない、怒りの収まらない未熟な生き方でも止むを得ないかと。読めば、現代社会に『禪』は収まり切らない特質が、その本質であるように思うから。経済成長が世界の共通な評価指標となっている現代に、禅思想は馴染まない事が良く分かる。そんな現代社会の脅迫感・不安感に苛(サイナ)まれた個々人の精神性の有りようから、『禪』の意味を眺めてみたいと思う。その規範にこの本を読み解いて、少しでも安心できればと考える。既に、禪と科学および禅と自然科学などでも書いた。禅は決して知識として学んでも、身に付くものではない。それはただ自分だけの実践でしか理解、感得できるものではない。いくら本を読んで、学んでも修得する事が無理である点が、禅の本質なのであろう。今になって初めて、鈴木博士の説明している意味の幾らかが分かったかと感じる。それは、今年になって『電気磁気学』の本質に辿り着いたと思えるからでもあろうか。

『電気磁気学』の到達点 幾つかを拾い上げておく。生活電気と『光速度』 回路とエネルギー流ー電流解剖論ー 力学から見た電流矛盾 電子科学論の無責任 電流と電圧の正体 等が今年の5,6月にまとめた記事である。これらの解釈は、『電気磁気学』の教科書を学習してもなかなか理解できない。教科書の理論を捨てなければ到達できない本質・真髄である。失礼になるかもしれないが、学術用語は事象の皮相的解釈で、取りあえず社会的集団的合意形成の体制固め用語とでも言えば良いかもしれない。例えば、『電界』や『磁界』と言う学術用語は、電気磁気学理論を展開するに無くてはならない用語である。しかし、そんな用語も深く理解しようとすれば、化けの皮が剥がれて、矛盾がむき出しになる。到底論理的な解説を展開する事が出来ないものであるのに、専門的論理として、堂々と社会に貢献しているように看做されて、崇められている。自然科学は、実験的裏付けによって、その論理性が認知されていると言はれる。ところが、その実験と言う意味の中味を分析すれば、法則の原理を実験で確認したり、量的測定ができないにも拘らず、論理の重層構造の積み重ねの上での、専門領域での合意に基づく間接的代用測定で、原理の実証と認定する実験法を採っているのでしかない。例えば、クーロンの法則を実験で直接量的実証をすることなど決して出来ない。そんな電荷間の物理的法則が存在すると解釈すること自体が論理性の無い事なのである。『禪』と言う世界観は、論理性の矛盾をどこまでも見破る透徹した破壊力を備えていると見られよう。『不立文字』と言う意味で語られることが多い。例えば、上に挙げた生活と『光速度』という記事を取り上げて見れば、『不立文字』を文字で表現する事が出来ないと単純に捉えれば、その記事さえも意味の無い事と言われるだろう。しかし、電磁気現象と社会的に評価されている科学分野の現象の本質を少しでも理解しようとすれば、何らかの言葉で表現しなければならない。専門的学術用語が矛盾で使えない等と言えば、一体どのように現象を表現すれば良いかと言う抜き差しならない壁に突き当たる。それは『不立文字』それ自体の科学論的矛盾ではないか?そこをどのように切り抜けるかが問われてる。スイッチSと言う用語が使えないかと言えば、それは違うだろう。『自動車』と言えば、誰もが理解できる。それではどのような場合の科学技術で使う専門用語が『禪』の世界観で打破されるものに相当するのだろうかと言う『問答』になる。殆どが直接人間の五感で感得不可能な用語の場合ではないかと思う。『電流』と言えば、電流計で計測する物理量である。決して電線の中を流れる電子量を計っている訳ではない。だから、自然科学論を展開しようとしたとき、最後は人間が本来磨き上げて来た長い生存の歴史の中での感性・五感で感知する鋭さでの、言葉にできない『禪』の世界認識の直覚に基づく表現になるかと言うことである。それが万象が一つに集約される『エネルギー』であろうと言う結論である。『エネルギー』は五感で認知できるだろう。お日様に当たれば、暑くも、暖かくも感じられる。それをどのような『エネルギー』と理解するかはまた別の話で、先ず何かが自分の体に入り込んで、外から加えられた『エネルギー』が有るからだと感覚的に認識することが『禪』的世界観と言うことになろう。理屈は後から付けても良いが、先ず感じることが第一である。感覚を磨けば、理論の怪しさがおのずから観えて来ると言うのが『禪』の世界観と思う。『不立文字』に負けないで、自分なりの自然科学論を展開して行きたい。ただ経費を掛けないで、直覚的感性に頼る世界観を。

鈴木大拙氏の禅の世界観もさることながら、翻訳者の表現力にも敬服する。第1章 禅の予備知識、および第2章 禅と美術の論説が特に印象的で、感銘を受けた。しかし、第3章 禅と武士以下については少し違う観方をしてみたい。それらについては別の機会に述べたい。

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