月別アーカイブ: 2013年9月

『水素』に思う

今朝の直覚は水素が急に頭に浮かんだ。「浮図」と言う用語は急に図となって頭に浮かぶと言う意味なのだろうか。昨日は、電荷否定は科学的発見か と直覚に絡めて書いた。歳を取ると、理屈や計算は苦手になる。せめて過去に辿った頭の経路の中から関連した事象を引き出して、科学的解釈をする以外はない。2011/03/11東日本大震災での福島第一原子力発電所の『原子炉崩落事故』で気掛かりのことがあった。『水素爆発』である。水素が空気に触れると、7気圧の爆発力になることは工業高校で生徒に教えていたので知っていた。その凄まじさに、新聞記事での写真に遭遇してその水素爆発の意味を改めて考えてしまった。まさか、『陽子爆発』と言う意味ではないのだろうと疑念のままで来た。陽子と水素の違いはなんだろうかと考える。何も違いは無いだろうと。

水素の命名者は誰か? 元素名がそれぞれ成程と言う思いにさせる用語で付けられている。IT検索で、塩素を調べた。幕末の蘭学者 宇田川榕庵が「舎密開宗(セイミカイソウ)」に塩酸の翻訳用語で表したらしい。しかし水素を誰が初めて使ったかは分からない。それにしても、『水素』と言う命名は誠に巧いと感心した。また、元素に『素』の字を使う語感にも感心する。昔の日本人は、優れた翻訳の語感を持っていたと改めて思う。今日の直覚は酸素、炭素、窒素の日本語の命名者は誰かと思った事からである。漢字『素』を自分も使いたい。世界を構成する基が『エネルギー』であると考えた。その『エネルギー』の日本語訳に『素原』を使いたい。何処か『元素』に似ている。『エネルギー』が世界の「素粒子」である、それが前からの思いである。

水素の発見 1766年ヘンリー・キャヴェンディッシュが分離発見したらしい。1783年アントワーヌ・ラヴォアジェがhydrogeneと命名したらしい。その日本語訳を『水素』としたのは巧い翻訳と感心する。物理的には、陽子と水素の判別が分からないけれども。それは電子の実像不明である故。電荷否定について『電荷』という虚像 をご覧いただきたい。

水素製造の消費エネルギー とても不思議に思っている事がある。『燃料電池』のことである。新しい発電方式として、急に脚光を浴びて、実用化が進められている。家庭の発電方式やハイブリット自動車などに燃料として使われる。水素の製造過程で、どれ程のエネルギーを消費するのかがとても気掛かりだ。エネルギーを生み出す原料・燃料『水素』を造り出すことになるが、その製造工程でのエネルギー消費量がいくらなのかという素朴な疑問が解消しない。家庭の発電方式で使う場合は、その機械の製造から材料の調達・発掘すべての産業の関係したエネルギー消費量を計算して、発電エネルギー量との損得勘定を明らかにする必要があろう。燃料自動車は確かに、排気ガスでは水だけしか排出しないから、環境の問題は幾らか改善されるだろう。地球環境過熱化の問題は科学技術全体のエネルギー消費量の総量で抑制する方向でなければならないのである。経済成長と言う視点だけで、政策・技術が論じられ、推進され易い現実を未来の為にどう考えるべきかが問われているのだ。悩ましい問題に、リニア新幹線問題がある。どれ程エネルギーを多量に使うかを考えているのか?地球がどんどん過熱化されて、植物が枯渇し、生物の多様性が消滅し、生態系全体が崩れた時、すでに人間もその生存が不可能になることを認識したうえで、エネルギー消費を競って行くのだろうか。北極海の航路開設とエネルギー掘削など、温暖・過熱化の加速である事を。水素熱資源活用の問題を地球過熱化との視点で見るべきだ。

燃料電池の原理? 水素の酸化現象。それが化学反応によるエネルギー発生の原理らしい。化学反応式で表せば、 O2+2×H2=2×H2O+E(エネルギー) となるようだ。こんな単純な化学反応でも、水が生まれて、エネルギーを利用できるとは大変なことに思える。原料の酸素と水素の保有する熱エネルギーと化学反応後の水の保有して排出されるエネルギーおよび利用される熱エネルギー(あるいは電気エネルギーと言うのかもしれないが)(損失も含んで)等の総エネルギー量は幾らなんだろう。原子が結合すると何故エネルギーを放出するのだろうか。『質量とエネルギーの等価性』から解釈すれば、水素と酸素が結合して、どんなエネルギー変換を引き起すのだろうか。どの質量がエネルギーに変換するのだろうか。そのエネルギー変換現象の物理的意味を理解できないのである。燃焼と言う熱エネルギーに関する関係記事、燃える『酸素』の力とは?および太陽は何故燃える? がある。

電荷の否定は科学的発見か

自然科学は新しい発見によって、その基盤が拡大して来た。発見は古い解釈を新しい観点から見直す切っ掛けとなる。しかし、微動だにしないできた『不動明王』の如き概念に『電荷』がある。いつ、誰が発見し、どのようにその概念の修正がなされてきたかも判然とせず、今日まで『電荷』概念はあらゆる物理学理論の根幹をなす基礎として社会的に確立している。それにも拘らず、筆者はその『電荷』がこの世界には存在しないと断言して来た。自然科学の研究者の多くの方々の意見や社会認識と異なる訳だから、自分は自然科学について認識不足であるがための間違った主張と言われそうだ。世界の物理学の科学者が疑いもせず、存在を信じて来た『電荷』であるのだから。しかし、社会認識・科学常識に反する解釈でも、自分にとっては自然界を認識するための原理・原則と成ってしまった『電荷』否定の観点は譲れない。

直覚は・・

直覚は禪で使われもする。自分も何か格別な感覚で受け取りたくなる言葉だ。別の言葉で言えば、直覚は自然との融合の絆とでも言えるように思う。ただ共鳴する心の姿。そこには数式や理論は妨げになる。語句『感応』について。服部宇之吉 小柳司氣太 共著 修訂 増補 詳解漢和大字典 冨山房 で見つけた。㋑感じて饗応する。㋺外界のことが自然に心にひびきうごく。㋥(物理)導体が磁石、発電機などに接近して電気又は磁気を感じ起す。感応コイル。等と感応の解説がある。語句、直覚と感応は良く響き合う意味に思う。こんな筆墨が自然科学に程遠いかもしれないが、自然との心の絆に的を得た表現と思う。こんな観点から自分の自然観を振り返ってみたくなった。

科学的発見とは何か? 下村 脩氏が発見した『オワンクラゲ』の生物学の偉業がある。自然の不思議を説き明かしたノーベル化学賞の栄誉を得た。まさしく科学的発見と言える。それに対して、理論物理学はとても評価できるものに思えない。その事に関して、例えば標題に記した『電荷否定』の観点から考えてみる。それは何も発見していない。それどころか筆者は、長い自然科学史の根幹をなし、殆どの科学者が理論の論拠として来た『電荷』を否定し、電荷は世界に存在しないと言う認識にある。自然科学は、新しい発見が次々と積み重なって、自然認識の奥行きが深まり、どんどん複雑な自然観に展開されて来たように思われていよう。そんな自然科学に対する認識さえも、否定しなければならない心境にある。根幹的基礎概念の否定は科学的発見に当たるのだろうか?過去の自然科学の理論を否定することでもある。

直覚の道 電気磁気学の講義の中で、アンペアの周回積分・ファラディの電磁誘導則の矛盾に気付いた。誰も矛盾に気付かなかったのだろうか。そう考えると、筆者が感じた矛盾はどこから、どんな理由で湧きあがって来たのだろうか。電気磁気学は数式により、論理性の高い厳密な理論科学論の代表である筈だ。それなら、筆者が数学的な理解が無くて、電気磁気学の本質を分からないが故の矛盾観と看做されると言うことだろうか。確かに、高等数学とも言える現代数学については全く無関心で、それを理解する能力も無い。先日、NHKスペシャルで「神の数式」と言う現代物理学の話題が二夜連続で、放送されていた。その数式の表現形式の意味さへ珍紛漢紛で、それが数学の式との認識も出来ない程無知である。数式を放送で取上げるなら、その意味が理解できる視聴者がどれ程居るかを十分考えての放送とは思うが、筆者にも全く分からない数式である事を考えると、相当放送の意義に疑問を抱かざるを得ない思いだ。マックスウエルの電磁場方程式さえ、十分条件を満たしていないと観なければならない現実で、いったい高等数学で表現する物理的現象など意味があるのだろうかと疑問に思う。筆者が過去に懐いた疑問や矛盾は、殆ど瞬間的に頭の中に湧きあがる感覚である。その感覚の中味を具体的に後から確認することで、次第に確信的な問答として明確になってくる。その時に、理論はその意味を追究することで、矛盾に満ちているとの認識に至るのである。従って、その時には数学的表現式そのものが同時に意味の無いものとして理解されるのである。今まで自身も信奉して来た原理・原則が崩れ去るのである。大事に学習して来た理論付の基礎が崩れ去って、何も無くなるのである。全くの理論的武装力が崩壊し、何も無い状態に落ち込むのである。無手勝流と言う用語があるが、柳生但馬の守・石舟斎の無刀取にも成らない、何も無いことになる。その結果の確信が『電荷概念の噓』と言う結論であり、初めに懐いた疑問・矛盾の始発の観点である。自然科学理論の根幹を否定する、科学概念論は科学的発見の名には当たらない反逆科学論とでも言うものになるのかと思う。しかし、自然の真理は我が解釈論に在るのだ。科学者が『電荷』を信じるなら、その空間実像を明確に示すことが科学者としての責任である。市民の科学論としての意義を『未来の自然の真理』に求めるべきであるとの思いを強くする。基本さえ間違わないで、理解できれば、曖昧で不安な『放射性物質事件』も、誰もが真相を理解したうえで、『原子力発電』の是非を論じられる筈である。

技術社会と未来の安全性 原子核理論はじめ原子構造論も真理を捉えていない。今は専門家さえその明確な理解が出来ていないのである。放射能と放射線の意味が理解されているか。その用語の社会的認知はどうであるか。そんな不安は、『電子』一つもその実像を捉えられずに重ねている科学論に問題の根源がある。曖昧な科学論の上に重ねる「矛盾・不安」が現代社会の暗闇として広がっている。理論・理論と大学教育が偏重している事が、技術社会の技術力を欠落させ、益々技術欠陥社会の危険の増大を来たすのである。経済成長が社会的進歩と認識する流れは、高度技術に支配された社会に対応できない技術音痴の乖離性精神拘束社会に流れて行く。しかも指導的支配層が、技術音痴の法律・経済家が進めるとなれば、社会は益々危険になる。技術と社会安全性の統合力が欠落する危機が増える。身近な問題を挙げれば、テレビ番組の録画と記録利用の方法を誰もが利用できるかと言う問題である。複雑で操作も難しいが、それを時代の進歩と考えること自体が、社会的統合失調症の未来に向かっているのだ。技術統合失調症社会である。自然の基礎が如何なるかを誰もが理解でき、間違わないなら社会的合意の未来に勧める。複雑な、ヒッグス粒子などを論じるなら、その基礎の陽子のプラス『電荷』がどのようなものかを市民に説明して論じるべきだ。最近自動車の制御方式で、機械による自動制御運転の話題がある。しかし、道路上に高度制御された車とポンコツ車が同時に走る場合に、その統合された安全性をどう保てるのかが気掛かりだ。高所得者は、エコ対策での税制優遇を受けられるたが、貧乏人にはない。また最近は高級車で、『前照灯』の白の高輝度ランプが増えて来て、対向車に視界の眩しさによる安全性の危惧がある。技術と調和した安全性の整合性欠落の問題が問われている。

天空に錦ー太陽と雲ー

光は直進する。しかし、伝播する空間の媒体により、光も進行方向を変化する。『屈折』『回折』および『分散』等の現象として知られている。夕焼けや朝焼けも、太陽光線の地球の空気層での非直線現象の一つの表れである。夕焼け小焼けは何故赤い に、太陽光線の地球上に展開される光の意味を述べた。以前(平成6年(1994)頃)毎日空の下で天空を眺めながら、外仕事(長岡市南陽工業団地)をやっていた。その天空に繰り広げられる、一瞬の輝きに会うことがあった。雲に日の錦

その時の雲と太陽が成す天空の輝きに感動した。晩秋かと覚えているが、その様子を思い出して絵に書いてみた。雲の片側が途切れて、その境目の切れ目に太陽が隠れた状態で、強い虹の錦に彩られる瞬間がある。その状態を辞書で引くと、繧繝(ウンゲン)または暈繝という難しい漢字が出て来る。辞書の説明には、その雲に現れる錦の輝きを解説するだけの認識が無いように思った。自然現象としての雲の輝きを知らないことであれば止むを得ないと思った。上の絵も思い出しての想像図でもあるから、十分その様子を伝えることには成っていないだろう。兎に角、目を瞠(ミハ)る感激の自然現象である。それも光が空気中の水蒸気で屈折・分散することによる自然現象である。その瞬間に出会うには、旅で毎日空の下を歩き続ける、昔の旅人でなければ、なかなか経験できない空の美観であろう。しかも、その時の光は太陽があたかも雲の中に埋もれていて、そこから光を放射するが如くに見えるのである。太陽光線の光源が雲の中に在るように見える。目にする光は、太陽からの直進光には見えないのである。

日暈(ニチウン) 今まで数回しか出会わない現象に『日暈』がある。上空にある太陽の周りに、その太陽を囲む大きな虹の円が現れることがある。それを日暈と言う。それも空気中の水蒸気と気温との関わりにより、太陽光線が織りなす屈折現象の一つである。

夕焼け小焼けは何故赤い

昨夜は、仲秋の満月。今朝も、朝日が昇る時刻(5時半)になっても、満月が西空に輝いていた。15度程の角度に残る満月である。幾何学で解釈出来ない不思議を輝かせている。

この地球には美しさが溢れている。時の流れで移り変わる四季の彩り。他の星の営みはどんなだろうか。この地球だけに現れる輝き。夕焼け空の燃える赤。IT検索には皆同じ解説で描かれる。そんな常識論を打ち破りたいと思う。日光と公転・自転

光の競演は、光の本質の解釈に掛かる。7色の光と言うが、光に色がある訳ではない。青い光も、赤い光も人の目に入る時のその光と角膜との関係で決まるのだ。光を『波長』で認識する。波長は光が伝播する空間にその速度をゆだねる。それが光速度である。光は真に『真空』であれば、それは物理的に定義される真の『光速度』である。しかし、空気中での光の挙動は完全な真空の光速度には成らない。光は空間のエネルギーの粗密分布の縦波である。決して横波のような、波などを打って進行するものではない。光エネルギーの空間分布と人の瞳との相対関係で、相対速度で、光の色は変わって映るのである。人のエネルギーの受け取り方で決まるだけである。地球上での実験での光の観測は同じ座標上での観測であるから、光の波長の変化は一般には起こらない。しかし、太陽光を観測するとなれば、地球の観測点と、太陽との相対性が必ず関係するのである。そんな意味を解釈する基準にしたいと思って、表現したのが上の図である。光の速度は地球上の人間に都合がよく決まる訳ではない。仮定として、「太陽が静止している」を条件にした。広い宇宙で、星が「停止」している事は考え難い。太陽も同じと考える。太陽だけが宇宙で静止している等、どのような原則から導き出せるかとても納得できるものでない。太陽も光の伝播基準空間に対して運動をし、更にその太陽に対して公転の地球があると考えるべきいである。しかし、そこまで考えると話がまとまらないので、太陽には静止の条件を掛けた。

光一粒と言う意味 ITでの検索で、接する理論では、光があたかも堅い石のような塊の一粒ででもあるかのような印象を受ける。光は塊ではない。だから塵にぶつかると運動量の変化を受けるが如き説明がある。青い光はチリで散乱し易い。赤はそう散乱しないので残る。などが主流の説明になっている。上の図で、太陽光が地球に到達したとき、空気層でどのような特性を示すだろうか。直進すると考えるか屈折すると考えるかの問題である。決して空気層にそのまま直進して入ることは無い。必ず屈折する。

夕焼けの原因 先ず、空気中の水蒸気の密度。水蒸気と夕焼け上空と地表との気温の分布状態。即ち、水蒸気の気温依存による雲の分布が影響する。その空気中の水蒸気の様体と分布が太陽光線の屈折に影響を与える。水蒸気の存在が光のエネルギー量を吸収する。光はエネルギー量の変化を受けて、エネルギー分布が変化し、それが光の波長の変化となる。光は粒ではないから、伝播空間の媒体の状況で変化するのである。完全真空なら、光は影響を受けない。

観測点Pで見る夕焼け空 右に先の図から拡大して、夕焼けの説明図にした。①は単に空気層での屈折を示した。しかし観測するP点は公転で、地球の空気層と共に、速度V_p で光から逃げることになる。水蒸気の空気層内の分布と量及び気温分布で②のような光のエネルギー分布が相対的に『赤方偏移』を引き起しているように観測される。それが夕焼けの基本的解釈である。

オンブバッタ

先日から小さなバッタがいる。今日負んぶしているのに出会った。IMG_0845

図鑑に『オンブバッタ』とでている。しかし、交尾中なのである。上のバッタが雄だ。下のバッタは、交尾のままで、紫蘇(大葉)の葉を食べていた。

跡方を見れば。夕刻にはもう居なかった。大葉の新芽の部分などが食べられて、欠けていた。バッタの食べ後

 

虫の名は?

なかなか名前が分からない。この虫の名は何と言うのだろう。虫の名は?

もう一枚載せましょう。竜のヒゲと虫

虫の姿が小さくて見え難い点ご勘弁願います。

良く見比べると、同じ虫ではないようだ。お尻のあたりが同じと思って載せたが、相当違うようで、改めてどちらも名前が分からない。

何蜥蜴?

このトカゲは日本カナヘビと違うようだ。気付いたら、この庭に、こんな蜥蜴がいたのだ。何蜥蜴

蜥蜴の脱皮

先日、脱皮途中の蜥蜴にあった。

2010年と今年の写真である。日本カナヘビも生息しているようだ。この蜥蜴は日本カナヘビほど、余り人懐っこくないようだ。

IT検索してみた。日本蜥蜴、日本カナヘビとあまり分類ははっきりしていないようだ。この体表面のウロコか皮か、硬そうに見えて少し特殊な類かとも思う。子供の頃には、カナヘビと言うと、体表が柔らかくて、色も青から緑と光沢のある色合いの模様のものが多かった。そんな事を思い出した。

地球の運動と速度

朝起きて、夜に寝る。電灯も無い、長い歩みの中で生命を繋いで来たこの貴重な星が地球である。日常生活で、人が感じる世界は自分が宇宙の中心に居て、あたかも太陽が地球の周りをまわって、1日・1年を刻んでいるように感じる。地球がどんな運動をしていようが、自分の身の回りに考えなければならない問題はない。学校で、理科の時間に学習する運動方程式も、地球がどんな運動をしているかは決して問題にしない。陸上競技の100m競争で、走る方向が東西南北どちらでも無関係である。それは地球の表面が全ての運動の速度の基準にして問題が無いからである。それを「慣性座標系」と言うと考えて良いだろう。しかし、自然科学では、宇宙はどのように生まれたか等と、トンデモナイ事に疑問を抱く。そんな話になれば、地球の運動を考えに入れなければ、宇宙論には成るまい。今は、「地動説」で太陽を中心に地球の自分が廻っていると理解している。地球の運動を何故取り上げたかと言うと、先にエネルギーと空間と質量の記事を書いた。質量とエネルギーは等価であると述べた。運動エネルギーは質量になると解釈した。それでは、物理学で取り上げている、運動方程式の本当の意味をどのように解釈すべきかと疑問が湧いて来た。最先端の物理学研究論では、ブラックマターとか暗黒物質とかの話題が論じられている。宇宙論を展開する科学者集団が有る。自分も少しは理解したいのだが、基礎理論が見えなくて、取り付く方法が分からない。自分なりの理解で基礎を抑えようとすると、余りにも単純な事から考えなければならなくなる。それが自分が立っている地球の運動の意味を理解しようと思ったのが切っ掛けである。物理学で、運動エネルギーを解釈するのに、地球の運動も宇宙論では当然取り組まなければならないと思う。ブラックマターと言う意味はどのような基礎概念の上に提唱されたものであるかを理解したい。市民が理解できるように、その意味を専門家は説明する責任が有ると思う。地球回転運動

地球の運動を簡単に図に描けば、右のようになろう。Sを太陽、Eを地球とする。回転軸の方向を、単位ベクトルk_s  および k_e で表す。実際の軸ベクトルの方向は同じではないが、簡単のためにそのスカラー積が1(方向が同じと言う意味)であるとした。角速度ω_s は太陽を中心とした地球の回転運動の速さを表す。その角速度を、太陽Sに対して地球が張る半径R_s の掃引面(円平面)に垂直な軸ベクトルとする。一応右螺旋の向きで、方向を決める。

さて、円平面上に直交座標 x(t)i+y(t)j=r(t) で、地球の位置ベクトル r(t)を仮想する。ただし、i ,j はそれぞれ単位ベクトルとする。この半径座標ベクトルr(t) は地球の位置座標を表すと考えられる。右図の半径R_s が時刻t の関数であるから、ある時刻tの位置とすれば、r(t)=x(t)i+y(t)j =R_s {i x(t)+j y(t)}/ {x(t)^2+y(t)^2} で地球の位置を認識出来る。斜文字をベクトルとする。ただし、時間の基準は r(0)=x(0) i に取り、またR_s=√{x(t)^2+y(t)^2} である。空間ベクトルについては、空間ベクトル解析と単位ベクトルに参考記事。

そこで、地球の運動を速度から単純な計算で算定してみた。公転軌道の半径さえ分からない。だから、適当に太陽から地球に陽の光が到達する時間が8分と言う事だけで算定した。

地球公転・自転速度その結果が右のようである。厳密なベクトル式で表現すれば、公転と自転のそれぞれの速度のベクトル和で表される。ただ、地球の運動を公転と自転で比較すると、太陽基準空間に於いて、我々の運動する空間速度Vは殆どが公転速度で決まることが分かる。地球の自転速度は0.0162の比率分しかない事になる。1.6パーセントでしかない。自分の空間速度は公転でほぼ決まっている事になる。概略であるが、毎秒地球が30㎞弱の速度で運行している。昔、マイケルソンとモーリーと言う二人の物理学者が地球の運動が光の速度にどのような影響を及ぼすかを実験で調べた。結果は巧く確認できなかった。その事が、現代物理学の理論に大きな影響を残した。アインシュタインはじめ、ローレンツ等の物理学者が、その実験事実を捉えて、実験が全ての意味で正確で誤りが無いものとの認識の下で、理論をつくりあげたと思う。ローレンツ収縮や特殊相対性理論等である。光の速度と光の寸法(波長)および実験装置の寸法誤差(何オングストロームの寸法誤差)等が如何に正確に設定できるかをどんな方法で確認したのかという点でも信じられない理論である。更に、光の速度と地球上の実験装置の空間速度の意味をどのように解釈したかも、難しい論議になる。ほぼ30[km/s]の地球速度で解釈しているようだが、それは公転速度で、実験装置の地球上での回転とはあまり関係ないことになる。そんな事からも光に関する相対速度の理論は信頼できない。これは余談である。さて我々が運動方程式を立てる場合に、運動は慣性座標系と言う地球上の目の前の空間だけを認識すれば良いことになっている。しかし運動方程式が物理現象の厳密な原理から得られるとすれば、地球の運動を考慮しないで済ませられる訳は『何故か』について答えなければならない筈だ。それは、ブラックマターの問題にも通じる話となろう。運動エネルギーが質量と等価だと言う事から、この地球の保有するエネルギーと質量をどのように認識し、算定するかと手も足も出ない事に首を突っ込んでみたが、自然の重層構造に今のところ脱帽する以外ない。しかし、理論が本当に正しいかを常に疑問を持ちながら、理解する必要が有ろうと言う点で、取り上げておくべきと思った。

『特攻隊』に観る集団強制的・反人道的・日本全体主義ー良き未来を願って!-

『禪』と武士道について思いあぐねているうちに、どうしても気掛かりな事が頭を駆け巡る。それは先の戦争での、『特攻隊』の意味である。

禅は直接源流のインドから入って来た訳ではない。禅は、主に中国の宋の時代、日本の僧が大陸で学んだ学問として、本国に持ち帰った歴史的経過を経て日本に定着したものであろう。中国には、孔子の論語と『儒教』がある。『禪』と『儒教』が互いに影響し合いながら、社会に浸透したものであるらしい。その両方の思想を同時に日本に取り入れた筈である。鈴木大拙著 禅と日本文化 からそう思う。

『禪』の特質、個の尊重・独立性。あくまでも個人の主体的で、自然調和の思索を重んじる思想と思う。

『儒教』の特質、それは全体統制的・家父長制。『子のたまはく・・』と寺子屋での『論語』講読として過去の日本の風景ともなっている。歴史的制度である『儒教』の学習制度だ。儒教は、政治体制の安定と全体的集団化に都合が良い思想であろう。

武士道 『道』と言う何か哲学的、思想的意味合いが有るかの思いに囚われる用語が、これまた極めて日本的な使われ方である。神道(仏教道とは言わない)、華道、柔道、剣道、茶道あるいは人道等と道が付く。車道は意味合いが違い、本来の意味の使い方である。『道』には精神的な耐え忍ばないと、成就しない過酷さが隠されている様な意味合いで使われるように見える。暴力的指導が潜在的に横行する背景として、日本的『道』は権力的優位にある側に都合が良い意味合いでもあるように思う。寺子屋制度にも遡る、日本的精神訓練と称する体制固めが今も庶民的意識として、街中に存続しているのである。武士道は、どうも『禪』とは懸け離れた思想的領海に形成されたように思える。むしろ対極的な、『儒教』の世界に縛られた道に見える。この辺の論は、過去の論客の解釈と相当違うだろう。禅は自由な、あくまでも社会的強制からは離れた、独立の個の精神にだけ行動の規範を求める本質を持っていると解釈する。しかし、武士が生き残るには、歴史が示すように、権力者の庇護の下で生きざるを得なかった。そこに、武士道の『道』の意味が有ると思う。「中世以降、日本の武士階級に発達した独特の倫理。忠節・礼儀・武勇・信義・名誉などを重んじる。禅宗・儒教によって洗練されたもの。(現代語・古語 新潮国語辞典 第二版より。)」と説明されるが、禅よりもむしろ儒教の色が濃く反映された『道』の意味合いであると思う。武士も、庇護を受けて、いざ鎌倉となれば、忠節・信義・武勇で答えるのが『道』の精神である事を肝に銘じていた。恩義(報いるべき義理のあること)・忠誠(忠実で正直なこと)・忠義(主君や国家に対して真心を持って仕えること)が武士の守るべき規範になった。放浪の武士は自由で、『禪』の精神を生きられたであろうが、独立と孤独の中に身を置かなければならなかった。また、禅僧が地方で、生き仏として、自分の生命を捧げた『塚』が有る。それはあくまでも、自己の意思での自由な犠牲的精神の結果である。ただ、『生死一如』などの文言も『禪』の思想的背景になっているが。

『特攻隊』 その太平洋・アジア戦争(第二次世界大戦)における日本的特徴の日本国家的戦争制度にあった『特攻隊』制度を挙げなければならない。今も、日本人はこの国家的制度をどのように認識し、どう捉えているのだろうか。戦争における『個人の意思』と集団的全体体制による『個人の意思の抹殺』と言う自由の剥奪。それは、今も何処の国においても強制的『徴兵制度』として常態的である。しかし『特攻隊』は、更に兵士の『死』を強制的に、国家権力の戦争の手段として執り行ったものである。これを人道的に許される権力行使と観るのだろうか。戦争の傷跡を、日本人はどのように考えて来たのだろうか。最近の政治意識の向こう側に見え隠れする、強権的な流れに流されそうな様子が見えて、未来への不安が止まない。それは、ジャーナリズム報道に於いても全体性的傾向に見える。日本的全体主義傾向が『特攻隊』に象徴されているようで、日本的『武士道』精神が誠に権力側に好都合に利用されて来たと解釈する。靖国神社の参拝問題も、『戦陣に散った御霊』と言うが、禅の道には、そんなものはないと解釈する。それは宗教的思想の問題でも有ろうから、それぞれの個々人の解釈になろう。『禪』は抽象的な偶像は余り信仰しないと解釈する。現実の『実在』を重んじるものであるから『霊』などには関わらないと思うが、体制維持の権力者側にとっては社会的精神高揚の意味で極めて大切になるのであろう。日本的全体性が、異なる意見を排除する任侠的な傾向の恐ろしさに『特攻隊』がある。『生死一如』等が権力側に利用されないように精神を鍛えておかなければならない。平和を守ると言う事を『戦争拒否』で実践するには自由な自己の精神での死をも厭わない、拒否する覚悟が『禪』の本筋である。そこに『儒教』との違いがある。

禅と日本文化 を読みながら考えた

『禅と日本文化』 鈴木大拙著 北川桃雄訳 岩波新書 第49刷(1988) は以前から時々読んでいた。昔から、禅は難しく読んでも中々理解できないものであったが、その禪と日本文化分強く惹かれる。この本は、昭和15年(太平洋戦争開戦前)に、大拙・鈴木貞太郎博士が外国人のために、禅の解説に英語で書かれたもので、その和訳本である。外国人どころか、自分にとってどんなに禅の理解に役立つか計り知れない。

今日改めて読み始めた。その内容は初めの部分を読むだけで、博士の広い造詣の深さに驚きを禁じ得ない。そのお陰で、読んで心に響き、未熟で、不完全で、成長できない自分を見詰めるのに本当に安心を与えてくれる内容である。こんな自分でも良いかもしれないと教えてくれるようにとれる。全く社会との関わりがとれない、怒りの収まらない未熟な生き方でも止むを得ないかと。読めば、現代社会に『禪』は収まり切らない特質が、その本質であるように思うから。経済成長が世界の共通な評価指標となっている現代に、禅思想は馴染まない事が良く分かる。そんな現代社会の脅迫感・不安感に苛(サイナ)まれた個々人の精神性の有りようから、『禪』の意味を眺めてみたいと思う。その規範にこの本を読み解いて、少しでも安心できればと考える。既に、禪と科学および禅と自然科学などでも書いた。禅は決して知識として学んでも、身に付くものではない。それはただ自分だけの実践でしか理解、感得できるものではない。いくら本を読んで、学んでも修得する事が無理である点が、禅の本質なのであろう。今になって初めて、鈴木博士の説明している意味の幾らかが分かったかと感じる。それは、今年になって『電気磁気学』の本質に辿り着いたと思えるからでもあろうか。

『電気磁気学』の到達点 幾つかを拾い上げておく。生活電気と『光速度』 回路とエネルギー流ー電流解剖論ー 力学から見た電流矛盾 電子科学論の無責任 電流と電圧の正体 等が今年の5,6月にまとめた記事である。これらの解釈は、『電気磁気学』の教科書を学習してもなかなか理解できない。教科書の理論を捨てなければ到達できない本質・真髄である。失礼になるかもしれないが、学術用語は事象の皮相的解釈で、取りあえず社会的集団的合意形成の体制固め用語とでも言えば良いかもしれない。例えば、『電界』や『磁界』と言う学術用語は、電気磁気学理論を展開するに無くてはならない用語である。しかし、そんな用語も深く理解しようとすれば、化けの皮が剥がれて、矛盾がむき出しになる。到底論理的な解説を展開する事が出来ないものであるのに、専門的論理として、堂々と社会に貢献しているように看做されて、崇められている。自然科学は、実験的裏付けによって、その論理性が認知されていると言はれる。ところが、その実験と言う意味の中味を分析すれば、法則の原理を実験で確認したり、量的測定ができないにも拘らず、論理の重層構造の積み重ねの上での、専門領域での合意に基づく間接的代用測定で、原理の実証と認定する実験法を採っているのでしかない。例えば、クーロンの法則を実験で直接量的実証をすることなど決して出来ない。そんな電荷間の物理的法則が存在すると解釈すること自体が論理性の無い事なのである。『禪』と言う世界観は、論理性の矛盾をどこまでも見破る透徹した破壊力を備えていると見られよう。『不立文字』と言う意味で語られることが多い。例えば、上に挙げた生活と『光速度』という記事を取り上げて見れば、『不立文字』を文字で表現する事が出来ないと単純に捉えれば、その記事さえも意味の無い事と言われるだろう。しかし、電磁気現象と社会的に評価されている科学分野の現象の本質を少しでも理解しようとすれば、何らかの言葉で表現しなければならない。専門的学術用語が矛盾で使えない等と言えば、一体どのように現象を表現すれば良いかと言う抜き差しならない壁に突き当たる。それは『不立文字』それ自体の科学論的矛盾ではないか?そこをどのように切り抜けるかが問われてる。スイッチSと言う用語が使えないかと言えば、それは違うだろう。『自動車』と言えば、誰もが理解できる。それではどのような場合の科学技術で使う専門用語が『禪』の世界観で打破されるものに相当するのだろうかと言う『問答』になる。殆どが直接人間の五感で感得不可能な用語の場合ではないかと思う。『電流』と言えば、電流計で計測する物理量である。決して電線の中を流れる電子量を計っている訳ではない。だから、自然科学論を展開しようとしたとき、最後は人間が本来磨き上げて来た長い生存の歴史の中での感性・五感で感知する鋭さでの、言葉にできない『禪』の世界認識の直覚に基づく表現になるかと言うことである。それが万象が一つに集約される『エネルギー』であろうと言う結論である。『エネルギー』は五感で認知できるだろう。お日様に当たれば、暑くも、暖かくも感じられる。それをどのような『エネルギー』と理解するかはまた別の話で、先ず何かが自分の体に入り込んで、外から加えられた『エネルギー』が有るからだと感覚的に認識することが『禪』的世界観と言うことになろう。理屈は後から付けても良いが、先ず感じることが第一である。感覚を磨けば、理論の怪しさがおのずから観えて来ると言うのが『禪』の世界観と思う。『不立文字』に負けないで、自分なりの自然科学論を展開して行きたい。ただ経費を掛けないで、直覚的感性に頼る世界観を。

鈴木大拙氏の禅の世界観もさることながら、翻訳者の表現力にも敬服する。第1章 禅の予備知識、および第2章 禅と美術の論説が特に印象的で、感銘を受けた。しかし、第3章 禅と武士以下については少し違う観方をしてみたい。それらについては別の機会に述べたい。