日別アーカイブ: 2013年7月22日

科学を語るとはどういうことか を読んで

未だ少し読み始めただけである。成程なあ、と思いながらもどうもしっくりこない。確かに双方の論議にはそれなりの意義はあろう。しかし自分の感覚的受け止める領域に巧く収まらないようだ。どうしても、大学人の論議で、生活に結びつかない話である為か、自分の受け止め能力が無いためかと思う。河出書房新社の最近の出版書。少し初めに思った点を述べたい。

(2013/07/23)読み進むにつれ、新聞の書評の通り、どこまでも論議は平行線のようだが、それだけお二人の真摯にぶつかりあう姿勢は素晴らしい。とても貴重な対談で、異分野の研究専門家が率直に意見交換する事がこれからの学問の社会的要請になるかもしれない。大変為になる内容。

哲学と科学の関係について 「科学について語るとは・・」の標題で理解し難いと感じる。科学とは何かと考える。何故科学なのか?内容を読むと、哲学と科学の関係を学問領域として捉えて、その間の現代的な違いを理解しようと言う試みのように思える。それなら、最初からかみ合わない話ではないかと思う。科学は自然世界の真理を捉えようとする学問の一つの領域でしかない。哲学も人間の全てを含んだ社会的科学の学問領域と思う。どちらも世界の真実・真理を説き明かそうとする学問的手段の分野である。むしろ標題は「世界を語るとは・・」位の内容でないとうまくかみ合わないように思う。科学も哲学も世界の解釈方法の異なる方向からの研究対象分野の一つでしか無かろう。双方とも目標は世界の真理を会得することの筈である。決して科学が主題であるべきものではない筈だ。せめて『自然世界をどう語るか』に目標を置くべきと思う。科学という学問分野を論ずるのであれば、人間が考える事であるから、人間とは何かにまで踏み込んで論じるべきかと思う。そうなると、その対象はやはり世界論となり、哲学になる筈だ。また、哲学というものを学問分野として捉えるとなると、現状の哲学の状況を認識すれば、それは哲学というにはどうしても狭い領域に見えて仕舞い、哲学という本来の世界の認識論としての意義が薄れて見えるように思えるから、大学等での哲学の対象範囲が自然世界の全てを含んだ広いものにならない限り、本当の哲学には成らないと思う。哲学はすべての世界を論ずるものでなければならない。だから本当の哲学は、現代物理学についても深く本質を理解しなければ、狭い哲学論になり、本来の哲学には当たらないと思う。昔から自然科学も含めて、その全てを包含する学問が哲学であったと思っている。Doctor of  Philosophy がドクター、博士の称号と思う。科学者は『電荷』の空間像をどのように捉えているかを説明する必要があろう。電子科学論の無責任

自分には、高度の数学の知識も確率論も統計力学も理解する能力はない。その原因は高等学校で、原子結合の電子間での『共有結合』の意味が理解できない感覚的拒否反応にも似た物かも知れない。難しい論理になると、頭で理解する能力に欠けている為である。できるだけ記憶はせずに勉強を怠けて理解する癖のため、社会的に排除されている結果につながったのであろう。常識について行けない。自然・科学・哲学 に関係した思いを綴った。バートランド.ラッセル卿の言う世界はエネルギー一つになる。という意味を認識する必要があろう。また読み進むうちに、気付く事を記したい。

(2013/07/24)追記。 第5章 科学者の理解しにくい科学哲学的テーマ② この章で、科学哲学という内容の論争が具体的になっていると思う。自分の科学知識の無さをも思い知らされた。現代物理学の常識さえ知らないでいる。外村 彰氏のホログラフィー電子顕微鏡あるいは電子の二重スリット実験も知らない。科学音痴と言われそうだ。そんな自分が素人と認識させられたが、しかし『電荷』概念否定一つで物理学世界の全てを書きなおさなければならないと言う科学革命が起きる信念だけは捨てない。『電子』も、その実像はエネルギーの諸相で変化する空間的密度波でしかない。『粒子性と波動性』はそのエネルギー流として統一される。この章で、光子、ニュートリノ、量子力学的電子等と科学的話題の用語・概念が論じられている。「眼に見える物」と「眼に見えないもの」という捉え方で議論されている。面白い。目に見える、見えないで論議するとすれば、やはり『電流』を取り上げたくなる。小学生でも理科で『電流計』を使うかもしれない。電流計は何を計るか で述べたが電流計で針の指す値を読んで、電流が何アンペアーと理解する。目で確認するのは電気回路の導線の中を流れる電流と科学的に読み取る。これは正しく「科学」の一つの常識的解釈である。この解釈に対して、「科学哲学」はその電流の実在に疑問を呈して、目に見えると言う意味の科学常識を根本から見極めようとしているのかなと思う。その辺の議論に対して、曖昧さを取り払うには現代物理学理論の根本に潜む「科学的矛盾」を抉り出す事が答えとして求められていると思う。最近まとめた電流と電圧の正体で『電流計』の計測しているものが何であるかを明らかにしたと思っている。実に巧い技術の智慧と考えたい。電流一つの値は計ったからといって、何の意味をも持たないのである。電圧との組み合わせで、はじめて、実在量『エネルギー』に結びつくのである。関連記事を挙げさせてもらう。電子スピンとは?-その空間像ー 『電荷』という虚像 素粒子ーその実像ー 等がこの章で曖昧さの排除に求められている一つの理屈であろうと思う。また光子については光とは何か?-光量子像ー が求められていることへの答としたい。

第五章を読み終えて。やはり議論がかみ合わないようだ。自分は「科学」も「哲学」も、それらの学問としての常識的な知識にも疎い。それこそ「鋸とペンチと旋盤作業」から身に着いた「感覚」による勘と理屈の世界を論じている。お二人の議論を読んで、少し「科学哲学」の方が自分には近いように思った。一つ『問答』を提起したい。『電子』や『光子』を粒子として捉える必要がどこにあるのか。何故粒子でなければならないと言うのか、その訳は?が『問答』である。例えば、『電子』が粒子なら、質量と電荷の結合素子としての合理的な解釈が得られると言うのか。『電子』が電気回路を例にとったとき、負荷で仕事をして『熱』や『光』を生み出し、粒子の『電子』がそのエネルギー供給の仕事分だけ、どのような自己欠損で賄うと解釈するのか。エネルギー保存則との整合性を『粒子』が故に合理的解釈ができると言うのか。『電子』の二重スリット実験で得られる、干渉縞の解釈に『波動性』を導入しなければならない矛盾を未解決と言う逃げで避けながら、『粒子』と言えるのか。粒子がどのような論理により、スリットを通ると分散可能なのか。粒子性など捨てれば簡単な筈でも、過去の発見からの繕いのために、矛盾の中を彷徨っているようにしか見えない。こんな『問答』が少しは「科学哲学」の言いたい事につながるかと思った。

(2013/07/25)追記。 第7章まで読んで。珍しく最後まで何とか読ませて頂いた。やはり、科学者の方が科学の論理に固執し過ぎていると感じた。哲学の方が曖昧模糊としているようだが、世界の観方が柔軟性に富んでいると思った。自分も現代科学の論理には訝しいものが多過ぎると思うからかも知れない。どちらかと言えば、哲学的なあるいは直覚的な世界の捉え方に慣れているからかと。どうしても、科学者に応えて欲しい事は『電子の電荷と質量の空間像』を明確にして頂きたい。素粒子論も時空論も其処に足を着けて論じて欲しい。お二人の論議と挑戦に拍手を送りたい。