月別アーカイブ: 2013年7月

科学を語るとはどういうことか を読んで

未だ少し読み始めただけである。成程なあ、と思いながらもどうもしっくりこない。確かに双方の論議にはそれなりの意義はあろう。しかし自分の感覚的受け止める領域に巧く収まらないようだ。どうしても、大学人の論議で、生活に結びつかない話である為か、自分の受け止め能力が無いためかと思う。河出書房新社の最近の出版書。少し初めに思った点を述べたい。

(2013/07/23)読み進むにつれ、新聞の書評の通り、どこまでも論議は平行線のようだが、それだけお二人の真摯にぶつかりあう姿勢は素晴らしい。とても貴重な対談で、異分野の研究専門家が率直に意見交換する事がこれからの学問の社会的要請になるかもしれない。大変為になる内容。

哲学と科学の関係について 「科学について語るとは・・」の標題で理解し難いと感じる。科学とは何かと考える。何故科学なのか?内容を読むと、哲学と科学の関係を学問領域として捉えて、その間の現代的な違いを理解しようと言う試みのように思える。それなら、最初からかみ合わない話ではないかと思う。科学は自然世界の真理を捉えようとする学問の一つの領域でしかない。哲学も人間の全てを含んだ社会的科学の学問領域と思う。どちらも世界の真実・真理を説き明かそうとする学問的手段の分野である。むしろ標題は「世界を語るとは・・」位の内容でないとうまくかみ合わないように思う。科学も哲学も世界の解釈方法の異なる方向からの研究対象分野の一つでしか無かろう。双方とも目標は世界の真理を会得することの筈である。決して科学が主題であるべきものではない筈だ。せめて『自然世界をどう語るか』に目標を置くべきと思う。科学という学問分野を論ずるのであれば、人間が考える事であるから、人間とは何かにまで踏み込んで論じるべきかと思う。そうなると、その対象はやはり世界論となり、哲学になる筈だ。また、哲学というものを学問分野として捉えるとなると、現状の哲学の状況を認識すれば、それは哲学というにはどうしても狭い領域に見えて仕舞い、哲学という本来の世界の認識論としての意義が薄れて見えるように思えるから、大学等での哲学の対象範囲が自然世界の全てを含んだ広いものにならない限り、本当の哲学には成らないと思う。哲学はすべての世界を論ずるものでなければならない。だから本当の哲学は、現代物理学についても深く本質を理解しなければ、狭い哲学論になり、本来の哲学には当たらないと思う。昔から自然科学も含めて、その全てを包含する学問が哲学であったと思っている。Doctor of  Philosophy がドクター、博士の称号と思う。科学者は『電荷』の空間像をどのように捉えているかを説明する必要があろう。電子科学論の無責任

自分には、高度の数学の知識も確率論も統計力学も理解する能力はない。その原因は高等学校で、原子結合の電子間での『共有結合』の意味が理解できない感覚的拒否反応にも似た物かも知れない。難しい論理になると、頭で理解する能力に欠けている為である。できるだけ記憶はせずに勉強を怠けて理解する癖のため、社会的に排除されている結果につながったのであろう。常識について行けない。自然・科学・哲学 に関係した思いを綴った。バートランド.ラッセル卿の言う世界はエネルギー一つになる。という意味を認識する必要があろう。また読み進むうちに、気付く事を記したい。

(2013/07/24)追記。 第5章 科学者の理解しにくい科学哲学的テーマ② この章で、科学哲学という内容の論争が具体的になっていると思う。自分の科学知識の無さをも思い知らされた。現代物理学の常識さえ知らないでいる。外村 彰氏のホログラフィー電子顕微鏡あるいは電子の二重スリット実験も知らない。科学音痴と言われそうだ。そんな自分が素人と認識させられたが、しかし『電荷』概念否定一つで物理学世界の全てを書きなおさなければならないと言う科学革命が起きる信念だけは捨てない。『電子』も、その実像はエネルギーの諸相で変化する空間的密度波でしかない。『粒子性と波動性』はそのエネルギー流として統一される。この章で、光子、ニュートリノ、量子力学的電子等と科学的話題の用語・概念が論じられている。「眼に見える物」と「眼に見えないもの」という捉え方で議論されている。面白い。目に見える、見えないで論議するとすれば、やはり『電流』を取り上げたくなる。小学生でも理科で『電流計』を使うかもしれない。電流計は何を計るか で述べたが電流計で針の指す値を読んで、電流が何アンペアーと理解する。目で確認するのは電気回路の導線の中を流れる電流と科学的に読み取る。これは正しく「科学」の一つの常識的解釈である。この解釈に対して、「科学哲学」はその電流の実在に疑問を呈して、目に見えると言う意味の科学常識を根本から見極めようとしているのかなと思う。その辺の議論に対して、曖昧さを取り払うには現代物理学理論の根本に潜む「科学的矛盾」を抉り出す事が答えとして求められていると思う。最近まとめた電流と電圧の正体で『電流計』の計測しているものが何であるかを明らかにしたと思っている。実に巧い技術の智慧と考えたい。電流一つの値は計ったからといって、何の意味をも持たないのである。電圧との組み合わせで、はじめて、実在量『エネルギー』に結びつくのである。関連記事を挙げさせてもらう。電子スピンとは?-その空間像ー 『電荷』という虚像 素粒子ーその実像ー 等がこの章で曖昧さの排除に求められている一つの理屈であろうと思う。また光子については光とは何か?-光量子像ー が求められていることへの答としたい。

第五章を読み終えて。やはり議論がかみ合わないようだ。自分は「科学」も「哲学」も、それらの学問としての常識的な知識にも疎い。それこそ「鋸とペンチと旋盤作業」から身に着いた「感覚」による勘と理屈の世界を論じている。お二人の議論を読んで、少し「科学哲学」の方が自分には近いように思った。一つ『問答』を提起したい。『電子』や『光子』を粒子として捉える必要がどこにあるのか。何故粒子でなければならないと言うのか、その訳は?が『問答』である。例えば、『電子』が粒子なら、質量と電荷の結合素子としての合理的な解釈が得られると言うのか。『電子』が電気回路を例にとったとき、負荷で仕事をして『熱』や『光』を生み出し、粒子の『電子』がそのエネルギー供給の仕事分だけ、どのような自己欠損で賄うと解釈するのか。エネルギー保存則との整合性を『粒子』が故に合理的解釈ができると言うのか。『電子』の二重スリット実験で得られる、干渉縞の解釈に『波動性』を導入しなければならない矛盾を未解決と言う逃げで避けながら、『粒子』と言えるのか。粒子がどのような論理により、スリットを通ると分散可能なのか。粒子性など捨てれば簡単な筈でも、過去の発見からの繕いのために、矛盾の中を彷徨っているようにしか見えない。こんな『問答』が少しは「科学哲学」の言いたい事につながるかと思った。

(2013/07/25)追記。 第7章まで読んで。珍しく最後まで何とか読ませて頂いた。やはり、科学者の方が科学の論理に固執し過ぎていると感じた。哲学の方が曖昧模糊としているようだが、世界の観方が柔軟性に富んでいると思った。自分も現代科学の論理には訝しいものが多過ぎると思うからかも知れない。どちらかと言えば、哲学的なあるいは直覚的な世界の捉え方に慣れているからかと。どうしても、科学者に応えて欲しい事は『電子の電荷と質量の空間像』を明確にして頂きたい。素粒子論も時空論も其処に足を着けて論じて欲しい。お二人の論議と挑戦に拍手を送りたい。

電気学会関連論文等

今日自分の名前(金澤喜平)を検索した。急に増えたようにいろいろあることを知った。CiNiiという機関にも論文が載っていた。しかし、名前の間違いおよび発表資料の欠落がある。電気学会関連論文が殆ど削除されている。電気関連論文で唯一載っているのが④の電圧型PWM変換器を用いた・・のみである。そのciniiでの公開名前は金沢となっているが、金澤に訂正したい。更に他の論文も当然掲載されてよかろう。

電気学会関連論文

回折と光の属性

どうして素人の私が『物理学』の原理を探求して、ブログ等で論じなければならない事態に至ったのだろうか。

(2015/06/28)この部分の記事削除した。

光の属性光の属性 光をどのように認識するかを端的にまとめてみた。光を振動数で認識するのが、量子力学や光学の専門的基本概念になっている。しかしそんな認識では、様々な光が呈する現象を理解する事は出来ない。今回は『回折』を取り上げる。その理解のためには、光の属性として、3つ程基本に挙げた。①エネルギー密度の縦波である。②光は振動等していない。③直進性と拡散性を光の呈する現象の基に持っている。特に、①と③がここで論じる『回折現象』の理解に必要である。

エネルギー密度の縦波 エネルギー密度の縦波

もう何度も示した光の縦波模様の図である。光が横に触れるような振動波形で解説されているのが、普通の専門書や教科書である。何が横に触れるかの説明が出来ないような解説図は、どう見ても学習者はただ『暗記学習』の訓練をするだけになろう。Attribute of Light

直進性と拡散性 光は空間を伝播する時、ほぼまっすぐ直進すると基本認識している。しかし、必ず光の中心から逸れて、横に漏れるのも基本的特性である。空間を伝播するに、そのエネルギーの縦波であれば、エネルギーが漏れて伝播効率が落ちるのもやむを得ない。このような光の拡散も基本的属性である。Diffraction

回折現象の正体 光の干渉縞も、実験で見た事が無い。2つのスリットを通して、光の干渉が起きるのも基本的物理現象として、理解している人が多かろう。そのスリットを光が通ると、出口側で、光が回折して、本来なら陰になる方向まで光が曲がる現象を『回折』というと理解している。ホイヘンス・フレネルの原理などで専門的な解説がなされている。しかしその解説を読んでも、少しも納得できない。何故回折するかの物理的説明になっていないと思う。これこれの法則でこのように解釈すれば、昔からの皆が最大公約的に共通認識で定まっているから、その通りに覚えなさい。それで、大学入試試験には合格する事請け合います的な論法で済んでいる。素人の解釈で誠に申し訳ないが、光をエネルギーの縦波と捉えれば、スリットに入ってから出るまでの間に、光のスリットの側面と接触する部分があり、そこでその障害物との間で相互作用が起きる筈である。これも光エネルギーの物体との摩擦現象になると考える。所謂『近接作用』現象である。エネルギー波が接触すれば、上の図のように、摩擦により遅れとエネルギーロスが起きる筈である。その結果、出口でスリットに近い部分の光のエネルギー量は減少する事になり、そこに光が拡散する現象を引き起すと考える事ができる。そのエネルギーの廻り込みとして光が広がるのである。

(2013/07/28)追記。上の記事の摩擦と言う文章を読みながら、スリットが超伝導体に開いている場合は意外に光エネルギーのロスが無いかも知れないと思った。回折現象が起きにくいと。自分の超伝導の原理解釈は、導線に電磁エネルギーが進入しない現象と認識しているから。導線表面でのエネルギーの反射で、損失にならないのだと。

上に述べた解釈は、いろいろの現象に対して、新たな解釈を迫ると理解している。『重力波』等の存在は信じられない。水星の近日点による光の重力曲がり観測(アインシュタインの予言と1919年、イギリス観測隊)についても誤解と認識する。

今年(2013)も庭に雨蛙

梅に親分雨蛙は余り移動しないで、定住するようだ。今朝庭で探したら何匹もいた。親分らしい貫禄ある一匹が梅の木に居た。

何年間棲みついているか定かではないが、去年の秋10月17日に撮った写真に似ている。雨蛙の変態化? に比較的成長した雨蛙を載せた。その中の⑥番の雨蛙と今年の雨蛙が同じもののように思える。背中の紋様が良く似ている。そこに示した雨蛙は、標題にしたように、色や姿が保護色にしては余りにも異色なものが多かった。②番の雨蛙は誠に色形が雨蛙然としていたが、今年はそれらしい姿を見せない。

今日は他にも何匹かを確認した。その幾つかを載せる。

もみじ小鉢に椿に捻子花と斑入りホウチャク草に敷き石に

これらは今年生まれた新生雨蛙であろう。相当日にちは経過して、成長したが、色艶・容は純な雨蛙である。今年もこれから秋口まで、時々雨の後に生れ出る雨蛙がいる。去年の親雨蛙が今年も同じ庭にすみついていたことで、一つの日本雨蛙の生態の理解につながったと喜ぶ。

 

オオミスジコウガイビル

久しぶりに見つけた。名前も忘れていた。10年程前にも見つけた。検索で調べた。扁形動物に類するとある。長いよ!お腹に居るサナダムシもこんなものなのだろうか。

虫の頭だ

この庭には、いろいろの生物が生息している。一体この虫は何を食べ、どんな繁殖の生態を備えているのか。何も分からない。

この虫は長い事が特徴だ。先日短めの虫が目に入った。子供だろうか。子供か?

 

指数関数の形と特性

現代科学は数学と一体に成って、難しい内容に成っている。・・群論、統計力学など初歩的と見られる数学もとても難しい。それに対して、指数関数形は自然現象の特性表現にとても良く合うように思う。だから自分はせいぜい指数関数位しか数学的理解は出来ないし、それで十分かと負け惜しみに思っている。2013_0624_091932-指数関数例(1)y1とy2の二つの関数形を比べて見ようかと考えた。自然科学では、自然対数の底eの累乗か、常用対数の底10の累乗かで表現するのが一般的である。へそ曲がりの癖から、少し見方を変えた指数関数形を取り上げてみた。

取上げた指数関数の意味 自然現象には衝撃波が多いと思う。最も一般的な例は雷の電圧波形になろう。津波の波形も衝撃波形である。また、放射能と発熱の正体は何か?の冒頭のグラフのように、放射性元素の崩壊特性も指数減衰特性で示される。自然現象で正弦波形は余りないと思う。水面の波形も厳密に観測すれば、正弦波ではない筈だ。光量子のエネルギー波も衝撃波として解釈した。しかし、そのような衝撃波を周期関数で表現したいと思っても、なかなか上手い方法が見つからないので困っている。周期関数と言えば、三角関数形が標準である。衝撃波の波頭値Hとした指数関数を考えて、上記のグラフを取り上げた。空間距離座標の変数をxとした場合である。1≧x≧0の範囲の衝撃波の繰り返し周期関数表現が欲しい。巧い方法が無いものかと思案して、能力の不足を嘆く。

上のグラフから、指摘したい点がある。e^x^とH^x^の指数形で、自然対数の底e=2.71828182  の表記が標準である。しかしその数値を使わなければならない理由が理解できない。3でも大して都合が悪い訳ではないと思う。ただ、eでの計算が標準化されて、計算の基本データになっているからでしかないと思う。複素数を解剖するにも記した。2.5でも3でも余り変わりがないようだ。単純に、3で良いのではないかと思う。数学の専門家からの御批判があれば嬉しい。

エネルギーの共振現象

エネルギーの共振

物理学理論では『エネルギー』そのものの空間での実在性を明確に認識しているとは見えない。極めて曖昧である。運動エネルギーや位置エネルギーという概念には必ず『質量』が基に成っている。『エネルギー』そのものの実在性に注目することが大切である。その点は日本の教育現場の内容とは相当異なるだろうが、市民の自然科学認識には重要である。

エネルギーの共振 上の絵図は電気回路の中でも特徴的な『共振回路』である。ただ回路を真空管の中に封入した場合を想定して、『エネルギー』の意味を考えて見ようと思った。空間でのエネルギーの実在性をどのように解釈するかの『問答』である。電気磁気学では、クーロンの法則を『嘘』であっても大事にしているが、電荷の周りの空間に存在を仮定した電気力線の解釈でも、その空間の『電気エネルギー』を認識していないか、触れないようにして誤魔化して過ごす曖昧さに気付いていない。空間に質量に基づかないエネルギーが存在すると言う認識はない。せいぜい分子分極の解釈位で誤魔化している。分子など無くても、真空でも『エネルギー』は実在するのである。電気回路の電流が無くても、電荷が無くてもあるいは磁束が無くても『エネルギー』は実在するのである。そのエネルギーの実在性を認識するために、真空管内でのエネルギーの共振現象を取り上げた。真空という仮想空間を想定した訳は、エネルギーそのものの存在を意識するための仕掛けである。真空では、分子分極のエネルギー貯蔵も排除され、コンデンサ電極間のエネルギーとコイル内のエネルギーの存在を直接認めるしかないだろうと言う考えからである。さらに、コイルとコンデンサでの『エネルギー』に違いが有るかという『問答』も有意義であろう。そんな諸々の観点から、『エネルギー』そのものの存在を意識せざるを得なかろうと思う。エネルギーが空間に局所化すると、その特徴的現象として、空間のインダクタンスLと空間のコンデンサCの間で共鳴現象に落ち着くと解釈する。そのエネルギーの空間分布はやはり衝撃波状の振動に成ると考える。電気波形の観測時には、正弦波としてしか見えない。電気回路を通して観測するから、観測波形は「交流条件」などに従うからと考えたい。エネルギー分布波形を観測する事は残念ながら不可能である。また、共振回路でのエネルギー共鳴振動のエネルギー流の空間伝播速度が光速度に対して如何なる値かは不明である。共振回路の空間的広がりがどのように共振現象に影響を与えるかも興味ある事である。コンデンサについては、ラジオ検波回路のようなバリコンを想定した。外部からも磁石で調整可能と考える。

世界は重層構造

世界は重層構造

自然の世界を理解しようとすると、その重層構造的姿が理解する困難さを教えているように思う。人間の如何に小さいかを宇宙規模で理解することが大切と思う。

前の記事、エネルギーと空間と質量をまとめるに当って、理解の困難さを知る。理解できたと思うと、またその先にとても深い理解困難な意味が隠されている事に気付く。その道の果てしなさを上の字句にした。自然科学論には程遠い解釈論に成るだろう。数式で表現できないのだから、それも止むを得まい。

誰でも分かる科学論 宇宙論や素粒子論の専門学術論はなかなか市民が理解出来ないと思う。それは数学的抽象表現が論理の基に成っているからと思う。だから、日常用語の言葉で説明できなければ、学術論は論者自身が本当に理解しているのかと疑わしくなる。自然世界を誰もが理解できる筈は無かろう。しかし、ここまでは理解できるがその先はこれこれの理由で理解できないと言う『理解困難さ』を認識出来れば十分であろう。数学的数式による抽象論は誰もが理解できると言う科学論ではない。難しい自然科学の応用研究の内容に対して言っている訳ではない。学校で使う教科書の範囲の記述内容について、少なくとも数式無しで、日常用語で説明できなければ無意味だと言っているのである。

世界、その理解のために 世界は重層構造の建造物でありながら、その根源は単純性に基づいている。単純性こそ多様性の基である。当たり前の例を挙げてみたい。例えば人間という生命と露草という生命の姿には大きな違いがある。しかし、その生命を創る根源に違いは全く無い筈である。そこに思いを寄せたとき、世界を理解する事がとても難しい事に思い至るであろう。人間という生命が、他より偉大であると思えるだろうか。きっとこの論には、東洋哲学と西洋哲学の違いを根底に取り入れて解釈しなければならないのであろう。しかし、何故このような多様性の世界を創ったかを考えれば、その本筋を理解する事がどれほど難しいかは理解できよう。『誰でも理解できる科学論』は誰もがその世界の難しさを納得できる事でもあろうと思う。その基本認識で、間違いのない意識を持ったうえで、世界を理解することに挑戦しなければならないと思う。

単純性とは? それはどのような事か?17個の素粒子論は単純性とは看做せない。『エネルギー』一つが世界を構成する基である。だから世界は重層構造の建造物と看做した。ここに記した事を基に、エネルギーと空間と質量を考えてみたい。