自然と科学の間に

分らないことを・

「教育」の意味・目的は何かと考える。電子科学論の無責任と言う記事を書いた。今、世界は大きな節目に掛かっていると思う。今まで疑いもしないで信じて来た『自然科学』の本質がとても危険な問題を抱えている事に気付き始めた。それは私だけが思う独りよがりで済ませられない事態であると。前にも、自然・科学・哲学で述べた事がある。自然の眞相は深くて、その全貌を捉える事は無理である。だからそれぞれの細かい分野に分かれた解釈で専門的に集団化され、その学問・研究分野は市民の立ち入られない楼閣で囲まれた閉鎖社会の独立形態になってしまった。

自然科学と教育 市民が科学研究、科学技術に参画できなければ、不安な閉鎖性技術社会の危険に直面する機会が増える。教育で教える内容がグローバルな世界に直接繋がる時代であるから、その内容は極めて重要である。日本では、政治が関わると、権力的抑圧の方向に行き易い。市民参加型の教育制度がとても重要であるにもかかわらず、日本人の没個性的意識構造が、政治的支配による体制作りになり易い。大学の教育力が理科教育でも、過去の指導に固執している為、十分な改革力の発揮が出来ないままで過ごしている。『電荷』と『電子』の問題を、その実在性の認識の問題として、どれだけ自分の心で真摯に受け止められるかのところに来ていると思う。原子構造にもかかわれば、原子核理論の根幹の問題でもある。基本的な法則を本当に理解させることが「教育行政」の喫緊の課題である。長い年月をかけて、市民的科学認識を育てなければならない。そんな意味を込めて、冒頭に筆字にした。

科学技術社会の市民監視体制の確保 最も専門的で、立入れない科学技術、それが「核関連分野」である。私にも理解できない先日の事故がある。東海村の放射能漏れ事故。『放射能』と言う用語さえ意味が不明である。研究実験は金元素の試料に陽子ビームを照射して、素粒子の検出をするという内容のようだ。事故はそのビームが多く照射され過ぎて、放射性物質が放散されたように解釈できる。金元素が核分裂すると、その分裂破片が放射性の元素になってしまうと言うことのようだ。金が放射線元素に分解する等と言う事は知らなかった。どんな放射性元素なのかも説明して貰わなければならない。『放射能』と言う曖昧な用語が報道に使われること自体が市民の科学リテラシー問題にもかかわる社会的課題である。放射性物質が外部に放散したと言う事は、その放射線を放射する分裂元素を外の市民が吸い込む可能性がある。その吸い込んだ元素は体内から排出するまでの間、その内部で放射線量を排出し続けることになる。その間その人は被爆し続けるのである。『国』の用語と同じく、『放射能』もとても意味を理解できない科学用語である。放射性物質(放射性元素)と放射線(放射性元素から放射される高エネルギーの見えない光、レントゲン照射のレントゲン線と同じ)の用語で統一して報道すべきである。放射能は使うべきでない。放射能と発熱の正体は何か?で、私も使ってしまった。

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