花が光か 光が花か

花は光に世界で光を見るのか、光で世界を見るのか。考えればますます難しくなる。どうもいけないね、禅問答のようになる。光は捉えきれない。その意味はエネルギーを計測できないから。教育の場ではプランクの輻射式が物理学理論の論拠として論じられる。式を見れば何故そんな式で光を解釈できるのだろうかと頭が痛い。部屋に君子蘭が咲いている。電球の温度が光の放射を決めるらしい。プランクの放射則は白熱電球の分布波長スペクトラムを表現したものではない。黒体と言う特殊な発光体の放射則である。スペクトラムは壺の場合は、その壺の空間形状が光の波長を決める要因になるから、図の白熱電球の場合とは波長分布で違いが有る筈だ。プランクが指摘したように、黒体の放射スペクトラムは連続でなくて、不連続と言う。それは黒体の内部空洞での光の反射収斂波長がその空洞によって決まるからだと解釈する。それは原子、分子の構造空間に因る放射スペクトラムにも同じことが言えよう。フィラメントが二重コイルなら、幾らかそのコイル形状による熱エネルギー貯蔵空間が波長分布に影響を与えるであろう。電灯では、式と図の放射光分布は異なる筈だ。式はなんか味気ない感じがする。花を眺めてその花の気持ちを思えば、式などどうでも良いと思う。花を眺めただけで、そこに展開される光の不思議を十分に感じ取られる。光に色が有る訳ではない。その白熱電球が放つ光を花は受ける。花に色が有ると感じて、人はそれを慈しむ。花の色が白熱電球の色と同じならどんなに興ざめかと。花は花の思いを世界に届けようと必死に見える。それぞれの花が形と色を、自分らしく誇って示す。花弁のどこでどんな物理的エネルギー変換をして世界を創っているのだろうか。波長変換の仕組みを物理的な自然力として受け止めて理解したいが、自分には非力で無理である。花の花びらに入射した光を細胞から再放射するから人は花に色を見て、花の心を受け止めると言えよう。花の表面の微細構造内の空間が光の波長を変換していると解釈する位しか出来ない。光が世界を造るのか、世界が光を創るのか。

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