自己確認の闇の世界に旅立ったのは昭和63年秋であった。50歳。
終戦時に続く。
父の軍歴表を見つけて、人生の過去をひも解き始めた。自分を知らないことの恐ろしさを知った。私が「舞鶴鎮守府」に触れると、妄想・空想・構想思考と統合失調症の部類になる。
社会的に認められない「日本海軍と国家体制」の事実の存在を行政はひた隠しにする。戸籍はこの事実を隠蔽するため、戦後処理をした。パスポートは外務省の認可に関わり、戦後処理問題に抵触し、発給出来ないかと思った(平成24年秋にパスポートを請求してみた。発給された。しかし発給の意味が分からない)。戸籍の改ざんは、削除と辻褄合わせの「糊付偽装」で修復した。昭和24年4月、貝野村役場での事である。戸籍には附票が有る。それは自治省の管轄であると、法務省で戸籍担当者(仁井谷?新谷?さん)から聞いた。その附票(訂正)が右のものである。父母が出生時からの本籍地?一切海軍住宅の存在は消し去られて、戦後「死亡」扱いの筆頭者「亡」で公的処理をされた。自分が、恥ずかしい過去の公開で社会的生きる意味を知る愚かさを味わう。
鎮守の故郷と父 故郷には鎮守様と呼ぶお宮が有る。季節の村祭りの舞台になる。名前を『箭放ち神社』と言うようだ。私が解釈するに村は信濃川に面し、対岸は断崖が切立っている。今は「姿橋」が掛っている。大昔、おそらく対岸に矢を放ち渡綱を掛けた事から付けられた名前であろうと考える。初めは渡し船の止め綱の役に。大昔、荷物、物資の運搬は船便しかない。そこから船便で物資を運んでいたようだ。父の四股名(シコナ 本当は醜名の字)が『箭津錦(ヤツニシキ)』で、草相撲を取っていた。昭和7年、越路の片貝で長野県の『千曲川』と大関相撲で勝ち、長岡の内山市長からお祝いに、化粧回し料200円を頂いたと聞いた。父の氏名も何時からか知らないが、戦後はすべて戸籍と異なる『金沢』であった。なお、父の免許証の住所は、新潟県中魚沼郡水沢村貝野甲・・となっている。昭和29年頃、貝野村はある事件が基で、分裂した。従って、学区も分裂した。その意味で住所が水沢村に変更になる。
父は昭和36年9月6日(誕生日に同じ月日)に、オートバイに轢かれた交通事故で死亡。姿に千手発電所への、宮中堰堤からの導水路管の土捨て場がある。無知を利用された、その土地に関わる怒りが収まらない。その一つ、新潟県の用地課の策略。昭和62年10月、千葉県館山市で電気学会電磁界理論研究会の発表の当日。夕食時に、ホールに呼び出しの館内放送がある。電話に出たら、家に県の職員が訪ねて来て、用地の話で来たが、承知して貰えるかとの話だと言う。理解も出来ない突然の話であったが、家では困っているようで、多分承知したと思う。後で理解した、その話の内容は土捨て場の自分の土地のど真ん中を『新潟県の県道』を通す用地買収の話であった。そんな予定は用地再分割の地画整理のときから決まっていた話である。しかも、自分が千葉に研究発表のため留守であることを承知の上で、夜間自宅訪問の夜撃ち処理の策略であるのは明白だ。犯罪県庁の政治行政の実態。
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