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光とは何か?ー光量子像ー

(2019/05/06)追記。光量子波頭値Hの光作用性の意味についてプランク定数の概念に記した。

現代物理学理論は人類の知的財産である学問の積み重ねとしての叡智の宝庫であるように見られている。そこには、自然世界の認識の仕方でどのように分析・判断するかに二通りの観点がある様に思う。同じ自然世界を見るのに、インドを源流とする東洋哲学と近代科学文明を推進して来たヨーロッパの西洋哲学の二通りに分けられると考える。そこには人類発祥の源流にさえも遡る異質性が潜んでいるかも知れないと感じる。東洋哲学は無駄を排除して、純粋な一つを求め続ける思考の求道の精神が基本にあると感じる。それに対して、現代物理学の根底を成す基本を分析すると、西洋的思考の特徴が西洋哲学と同一の歩調を成して拡大構築する基本的特徴で捉えられると感じる。物理学的概念はその認識に於いて、共通の解釈基盤に『数学と数式』がある。宇宙空間にまで人類が行き来できる科学技術の成果を獲得してきた原動力はすべて、西洋の自然科学論がその基を成している。それほど、西洋哲学的思考が自然世界の征服に主導的役割を果たしてきた現実に対して驚きを持たずには理解できない。私がそのように思う事の原因は、現代物理学がその数学的解釈法に基づいて構築されて来たその『基礎概念』に自然の真理を読み取ることが出来ない程の違和感を抱かざるを得ない事態を来たしている事である。その代表的概念を二つ挙げれば、『電荷概念』と『光子振動数』となろう。電荷の否定については今まで多く論じてきた。もう一つの「振動数」という概念を否定する、あるいはその曖昧さを明らかにするために、「光量子像」についての空間的実在性を込めて、論じて見たい。物理学理論は数学的解釈法が主流であるが、それでは不十分であるだけでなく、認識の曖昧性を放置する事態を来たしている。現代は、空間にその基礎概念を明確に描ききって見せる事が『科学者』に求められていると言いたい。その意味で「光量子像」を論じることが、極めて重要な現代的課題の解決の糸口になると考える。光量子像を空間的な視覚概念で捉えるべく、提案して来た。その光量子像を提案するに当りどんな事を考えたかを纏めた。それが上の「光量子とは?」である。光とは何か?-序章ー(2011/09/30) から相当時間が経過した。その具体的な光量子についての解釈を述べたい。先ず初めに光量子一粒の空間描像を示す。その表式、空間的エネルギー密度分布式 δq(ζ)である。

上の(1)式が光量子の空間密度分布を表現したものである。なお、ここに記す内容はすでに2008年12月『詩心 乗せて観世の 帆掛船』物理学解剖論Ⅱ 空間エネルギー で述べたり、日本物理学会の講演概要集に発表した。しかし重要な意味を含んでいるので、一般の市民的理解の広がりの為に書き足したいと思う。普通の科学論は数学的な手法で、高度な数式がその表現の基本であろう。しかし私は空間にその実像を認識できないと良く分からないのである。想像するにも頭の中に描けなければ、理解できない不都合な能力である。上のその意味で、何とか描く空間像をまとめ、それを「具象図」として示した。その光一粒の空間像なら、誰でも理解し易かろうと思う。少し科学に近い論を展開しようとすると、どうしても数式で論じる事も必要になる。そこで「抽象図」として表現したのが、変数ジータζで時間tと位置xを光の1波の波長λ、その周期タウτにより正規化した変数表現で表した。抽象図とは大げさの様であろうが、余りにも高度な数学で表現される「科学論」は誰の為の解説かと不満を持っているので、その抽象化の意味を考える為にも成るかと思ったからである。抽象の代表格である虚数なども何の役に立つのかと。大工の棟梁が建造物を設計するに、その空間構造を頭に描くような事と同じ科学論であってほしい。このエネルギー密度分布式は、その初めは「雷の衝撃波」が自然のエネルギー流の形状を備えているとの認識から取り組み、導き出したものである。その為に、雷と指数関数 を予め書き記した。

光量子の体積積分 光量子の空間エネルギー密度の(1)式を空間の積分により、その光量子一粒のエネルギー量を算定できる。変数 ζは空間の位置と時間に因るが、時間を停止した状態で捉えれば、空間だけに注目して積分すれば良い。また、ある位置に停止して光速度で通過する光量子のエネルギー通過量を時間積分しても同じ事である。その変数の定義域とエネルギー密度波頭値を整理した表式(1’)を示す。

 

その(1’)式の指数関数の積分で、光量子1粒のエネルギー量が算定できる。結局、光量子のエネルギーは振動数νとプランク定数 h との積のhν ジュールと同じ結果には成る。しかし、振動数という概念は光量子が何か横ぶれしながら運動エネルギーを持って光速度で流れるような印象を受ける。光子あるいは光量子1粒という空間の実在認識には、振動数という概念は捨てるべきものである。ν= c/λ=1/τ [s^-1^] のような波長λあるいは周期τで表記することが望ましいと考える。

光量子空間像の解説 一応数式による光量子像を表した。しかしその意味を捉えるには具体的に考える必要があろう。そこで、ナトリウムの炎色反応でオレンジ色の波長で考えて見よう。

 

プランク定数の物理的意味と波頭値H 結果的には当たり前の結論になった。光量子のエネルギーとその周期の積という意味で解釈できる。

プランク定数hは上のように結局光量子1粒のエネルギーεとその光速度で通過する時間の周期τとの積という事に成る。それは普通の物理的「定数」という概念に該当するのだろうか。元もと、光量子のエネルギーは ε=h/τ という式であるから、当然の結果ではある。どんな周期の光量子に対してもそのエネルギーは周期の逆数に比例し、その係数がプランクの定数だと言う意味で取れば、確かに定数と言えよう。h=ετ と書き換えて見た時、プランク定数 h という「定数」の意味なのだろうか、これが「定数」という意味だと理解すべきなのだろうか。(2016/08/02)このようにプランク定数の意味を解釈すれば、光エネルギーのエネルギー密度波頭値Hに、その衝撃波形のエネルギー空間分布の鋭さが隠されているから、その意味で光量子の作用力が決まると考えれば良い。

国際キログラム原器(質量とエネルギー)

(2012/01/27) 追加記事 天秤と質量 取引用基準重量を国際的に決められるのだろうかと、疑問に成ってしまった。基準重量は地球上のどこに持って行っても、同じ基準値でなければならないと思う。しかし、地上の重力加速度は場所によって値が違うようだ。と言う事は、場所で重量の値が異なるならば、基準値としての役割をどう理解すれば良いのかと、凡才の自分には理解出来なくなった。ところが古くから重力加速度の影響を受けない計測法があった事に気付いた。それが「天秤」である。国際キログラム原器も天秤で比較測定すれば、確かに場所の影響を受けない重力加速度の影響を受けないで、原器としての基準重量を理解できる。右に、その形を勝手な図案で書いてみた。(イ)を天秤と言う。秤と言う文字も忘れかけていた。右図に漢字の4文字熟語「我心如秤(ガシンニョショウ)」を古代文字で書き記した。自分には程遠い名言熟語であるが、そんな心境に成りたいと思う。法律の生命である「公平」が「秤」の文字の意味するところらしい。確かに天が人の世に下す原則が「公平」であらねばならないと言う事なのだろう。そのように解釈すれば、天秤はその基準重量を正確に指し示す指標である事で安心と社会正義を世に示す。『質量』と言う物理概念・物理量は重量とは異なる訳であるが、それは正確に計測できるのだろうか。測定地点の重力加速度が正確に確定できなければ、それも無理な話であろう。天秤を使うとしても、質量の原器を作る事が出来るかが理解できない。なお、右の秤に(ロ)の古い「何?秤」か名前も忘れたが、とても懐かしい秤なので書き記した。今は「デジタル計」が主流になり、こんな秤は使われない。しかし物理の力学的平衡概念を「モーメント」を含めて、天秤の応用例の智慧秤に見える。行商人の量り売りの基準であった。

最近物理量に関する国際基準が色々問題に成っているように感じる。

時間基準 今日の新聞記事に「うるう秒」に関する事が書かれていた。地球の回転周期が年々長引くと言う話である。『国際度量衡会議』で話し合われるとの事である。「うるう秒」の年間調整を取りやめるか、今まで通り「一秒」追加の調整をするかという事らしい。「うるう秒」は確かに悩ましい問題でろう。地球の公転・自転に合わせる時間基準の設定でるから、原則は時間基準1秒の長さをどう決めるかに関わる話である。しかし、世界は全ての取引が現在の時間基準に基づいて進んでいる。うるう秒、閏年の調整をしなくても良いように時間基準を設定できれば事は済むのであるが、それが出来ない訳・要因を確認し、分析する必要があろう。地球の自転・公転周期が年々変動するのであれば、時間基準を厳密に設定する事も無意味な事であり、現在の対処法しか無かろう。大宇宙の自然現象であれば、そう人間の都合良く事が運ばないのである。自然を人間が征服しようという思い上がりが無いかを改めて基準時間の問題が突き付けているように思える。地球の公転・自転周期の微増現象が地球周辺の空間環境の人工的変動ー人工衛星によるエネルギー変動・エネルギー多消費に基づく地球の熱放射ーが影響していない事を祈る。

質量とエネルギー 話は変わる。『質量』とは何か?の問答は重要である。物理学で質量と重量という話はよく問題にされる。地球周辺の重力加速度g[m/s^2] の値で、同じ質量でも重量は異なる。『国際キログラム原器』という重さの取引用基準重量がパリに保管されている。それは『質量』なのか「重量」なのかが考えると解らなくなる。その原器を他の地点に持ち運んで、測定したら、どんなに環境を整えようとしても、同じ重量の計測結果を得る事は難しかろう。それでは『質量』はどうかと考えて見る。その質量という物理量が元もと曖昧な物に思える。明確に認識していないように思うのは私だけだろうか。何故そう思うかは、エネルギーと質量の関係が曖昧だと考える。物理学の『エネルギー』はエネルギーその物を物理量と捉えていない。必ず『質量』に付随した形でしかエネルギーを認識していない。例えば、『光子』も振動数で捉える。それは何か不明であるが「振動」あるいはシュレーディンガー波動方程式の「波」を伴う質量的な『モノ』を仮想して解釈しているようだ。光をエネルギーその物とは解釈していないようだ。アインシュタインが唱えた、E=mc^2 [J] という意味を質量からエネルギーに変換する一方的な解釈にとどめている。m=E/c^2 [Kg] というエネルギーは質量と等価であるという、同じ方程式の意味を認識していない。地球の燃料を、燃料の質量を熱変換で利用して、地球から宇宙にエネルギー放射をしている訳であるが、地球の質量減少という見方で、物理学的には余り考えていないように思う。一方、太陽から注ぎこまれるエネルギーは相当の量である。そのエネルギーは地球の質量として蓄えられているのである。緑の森林は太陽のエネルギーを命に代えているのである。質量とはエネルギーである。『国際キログラム原器』は温度が上がると、周辺の気流による浮力で軽くなると新聞記事にある。それが本当なのかと少し戸惑う。原器を加熱すれば、熱エネルギーが付加される。エネルギーと質量が等価であると言う事から、原器は重くなる筈である。原器は質量の基準では無かろうから、重量の基準と看做さなければならない。地上の異なる地点で、異なる重力加速度となるから、重量もどのように基準としての評価をするかもなかなか難しい事と思う。何かこんな事を、書かずに居られないで書き記す自分を愚かな骨頂に思う。

色の世界を尋ねて

世界は不思議に満ちている。『色彩』という彩りの意味一つを取り上げても、その自然の深みを知ることが出来ない。日常生活は彩りの世界にある。目に入る光の基の繰り広げられる感覚の世界である。しかし、光には『色』は無い。色の無い光が人に演ずる『色覚』の世界である。何故そんな事が起きているかを考えると、その不思議な意味に取り付かれてしまう。庭の佛相華(辞書を引いたらー仏桑花ーとある。何処かで見間違ったものかとも思うが、「佛」という文字とその姿という意味の「相」が花の呼び名に相応しいと以前から使っていた)、南国の花ハイビスカス、に揚羽蝶が止まる。なかなか羽を広げた写真を撮らせてくれない。赤い大きな花弁と揚羽蝶の彩りが、ひと際『色の世界』を演出して見せる。日中の花びらの赤い色は、何故赤いかが解らない。背景の葉の緑色も同じく、その色の訳の何故かは分からない。解らないと言う意味は、光の物理的意味が理解できないと言う意味である。揚羽蝶の色は『生物物理』の研究対象として、その『鱗粉』の解釈の問題となっているようだ。陽の光が空気を通して揚羽蝶の翅に当たり、鱗粉の構成分子と空洞構造の中での反射共鳴の結果として翅から放射される光が微妙な色模様を演出していると私は解釈している。赤いハイビスカスの花弁は、陽の光を吸収して、何故赤い色に見えるのかを理解できない。いつもの事ながら、最終の決まりが何処に行くかが不明のままに書き出した。書き始めるに当って、相当思考の纏まるに困難と思うような題材を選ぶ時の習慣のような気がする。だから、纏めるに困難でありながらもそこには新たな解釈や斬り込みが予想される時のようだ。一日以上下書きのままにして置いた。検索で「蝶の翅の鱗粉」を調べて見た。相当のデーターが検索に応えられる。電子顕微鏡写真でその複雑な構造が見られる。そこで考えた。『顔料』は日本画等の色彩の材料だ。宝石もルビーの赤や水彩絵の具の色彩も『色』の代表に思い浮かぶ。そこで、その色が何故『色』という個性、特徴を示すのかと考えて見た。「Color cell 」という言葉が浮かんだ。『色』とは『光』と空間を占める『物質』の間に繰り広げられる独特の自然現象である様に思える。物質は分子や原子による空間の構造物である。分子も原子も本来は『色』を持たない。どんな『顔料』もその構成分子が色を持つ訳ではない。色を示す訳は、物質が本質的に『色』を持っている訳ではない。何が『色』を演出するかと言えば、物質が構成する『光』を閉じ込め加工して放射する『色空間』あるいは『光の壺』とでも言いたい分子構造による『格子状微細空間』の仕業として解釈する以外に方法が無い。その『色空間』を「Color cell」と考えた。光について「振動数概念」の捉え方ではこの解釈は生まれないと判断した。『光量子』の一粒の捉え方が決め手である。可視光線の『波長』の寸法と『色空間』の寸法が丁度釣り合う大きさに思える。

色の実相 (2012/01/30/ 追加挿入) もみじの紅葉、銀杏の黄葉また、DVDディスクの色模様を具体例に挙げて考えて見よう。情報化社会だから、検索すれば一通りの知識は容易に手に入る。もみじの紅葉の訳などは、いろいろのサイトに解説されている。ブドウ糖と結合した赤色のアントシアニン系色素が「赤い色」の原因だとある。その分子構造も分かっている。そこまでの解説でほとんどが終わっている。そこに「何故か」と言う疑問が生じるのである。光に「色」は無い。色の無い光がもみじ葉に当たると、何故赤い色の光が反射されて出てくるのだろう。アントシアニン系色素分子の何が赤い光に変換させるのだろうか。赤以外の光をすべて吸収して、赤色の光だけを放出すると言うのだろうか。もみじ葉への入射光の内のどんなスペクトラムをアントシアニン系色素が赤色の光に変換するのだろうか。そんな疑問で「何も分からない」と言う事だけははっきりして来る。確かに、アントシアニン系色素がもみじの紅葉の原因であろう。それだけで、その色素が紅葉の原因であると言うだけで、化学的、物理的解説として済ませるだろうか。色素と言う「赤色」を生む原因はプリズムの分散と同じ原理に因るのか、そうでなければ、色素分子の構造の『色空間』が光の加工・変換の原因になるのだろうか。こんな『疑問』を捉えて、『問答』を頭の中に循環させることが「科学研究」の種となる様に思う。IT「検索」は至極当たり障りのない何となく誰もが暗黙の了解で済ませている程度の「曖昧な認識」の範囲に留まっている。色素が原因だ、程度で満足出来ない疑問感知能力が大事であろう。「DVDディスク(音楽CDの間違いのようです)」の分散模様をカメラに収めた。ディスクの構造は3層に成っているらしい。表面に有機樹脂の透明な保護被覆がなされている。基底は銀かアルミの光反射鏡に成っているらしい。上の写真の光分散模様は小さな蛍光灯スタンドからの光の反射を捉えたものである。スタンド光源の平面寸法は10cm×7cm程度である。色の分散模様はどうも光源の種類に無関係の様である。白熱電球も太陽光線も光源の大きさによる分散模様の形状は異なるが、分散光の色模様はほとんど同じようである。それも『謎』に見える。その音楽CDの分散模様の分析を始めたが、なかなか難しい。(2013/07/27)追記。下の解釈図は間違いです。

(2013/07/31)追記。その間違いの図を残しておく。間違い図間違いの訳は、CDの表面での光の屈折による分散と解釈した点である。それは分散模様で、目に入るディスク色模様は三色が逆になる筈だ。しかし、観測する三色の色の順序は中心から、青、緑そして赤となっている。この矛盾は図解に間違いがあるからだ。きっとすぐ分かった人も多いだろう。「間違いを正してください」と『問答』にするのも良いか?光源の放射光の面が反転した像を見ていることになり、その訳を考え直した。CDの分散模様を確認した結果、大いに反省した。改めて解釈を述べたい。CD光分散光路先ず光源の光がどのような光路を通って目に入るかを①図に示す。蛍光灯の面光源が基本的に何色にも分散して目に入射している。黄色や紫系も有るが青、緑及び赤の三色が強く現れている。例えば青色は光源全体の面からの光が全て青色になって映るのである。緑も赤もそれぞれが光源の全面の分散光を映している。CDには光源が何面も映っている事になる。この色分散模様で、疑問が二つある。第一は、何故青、緑次に赤と順序が決まるかである。第二点は左右が反転して映る訳である。CDの事には素人であるため、なかなか理解できなかった。その訳は、全てCDの記録の方式に隠されていた。CD記録ビット結局記録信号が盤の円周上に「穴」が掘られて記録されているものと思えた。その「穴」の長さや数の密度で、信号を記録しているらしい。所謂デジタル信号として。その様子を②で解釈した。疑問の第二点の左右が反転して映る訳を、次のように解釈した。光路交叉理由

左右光路交差の訳。 円周上にビットの穴があいているから、その穴に光が入射すると、側面で反射され、光源からの光路が交差して、右からの光路は右側に戻ることになる。だから、目に映る光の映像は、右側の光源がCDの左側の盤面からの光として見えることになる。だから左右が交差した光路の光を観測することになる。光源の映像が左右反転するのである。

第一の疑問の解釈。 この解釈には戸惑った。屈折から考えると、どうしても説明がつかない。色の配置が逆になるのである。その解釈はやはり「穴」に求めざるを得ない結論になった。IT検索すると、専門的な解説が出て来る。確かに『屈折』では説明できない。『回折』と『干渉』による説明がなされている。しかし、何故そうかと言う説明が無いのが悲しい。それが「科学論の常套手段」に見えるから悲しいのである。説明している専門家自身が説明できないでいるとしか見えない。何処かで、過去の法則や原理を持ち出して、適当に逃げているとしか見えない。だからと言って、私がこれから述べる解釈も、どれ程のものでもない。原因をその「穴」にしか求められないと言う直覚的判断である。それは「回折」でも『干渉』でもない。単純な穴の中での反射からの解釈である。Color Cell のように見える。やっと図にまとめた。スリットの貫通穴じゃないから、『回折現象』は当てはまらないと考える。光の波長による屈折の違いとして解釈した。屈折と分散保護膜に入射した光は波長により屈折角が異なる。その僅かな違いが穴の中で異なる光路を辿ると解釈した。その結果、青色と赤色の場合で、光路を示せば、図のように成るだろうと考えた。穴を通して、屈折の光路が逆方向に反射されることになる。勿論緑色も、その中間の方向に反射されて放射されることになる。以上で、修正の解釈とする。

大した事でもないのに、考えると色々複雑な現象と思った。私なりの解釈でしかないので、異論、批判を歓迎します。

 可視光線の寸法と電波波長 光の寸法という空間概念は一般的な物理概念としては認識されていないであろう。『光量子』『光子』という光の物理学的認識では、振動数が理論的な認識の基本的条件となっている。「振動数」がどの様に『光子』の空間的存在形態で捉えられるかについては、物理学理論では問わないで済ましていると思う。振動数が空間にどのような意味を持つかは『問答』の対象とはしない。だから光の寸法という捉え方を物理学では認識していない。私が主張する点は、正しくその『光の空間的寸法』である。そこで、今回ITからの検索などで、集めた電波技術の利用状況と「可視光線」との範囲を波長から纏めて見た。普通は振動数で表示する事が多いと思う。可視光線の配色を同時に表現しようとすると、波長範囲が長く伸びて、簡単ではなかった。適当に切り貼りしてまとめて見た。ここでの『波長』は、その寸法では十分説明できない処がある。それは『波長』を正弦波の1サイクルで捉えるのが「教科書」あるいは『物理学理論』の基本である。しかし、私が解釈する『波長』の寸法は『エネルギー』から見た寸法である為、正弦波の1サイクルには2つの波長が含まれる事に成る。その点は、ここでは一先ず「教科書」の波長で解釈する事にして置く。その点については、エネルギー伝播とその検出回路における「交流条件」という事との関わりがあるので、簡単ではない。さた、可視光線の範囲がここで取り上げる『光の世界』の話の基に成る。光はエネルギーの流れであり、『光子』というような言葉で認識する時に、光の粒子と頭に描くか、雲のようなエネルギーの流れと捉えるかによって、認識に差が表れよう。粒子ならどのように振動するかも頭に描けなければならないと思う。兎も角「色の世界」として話題にする波長の範囲は極めて狭いのである。その範囲だけで人は無限の色彩の世界を享受しているとも言えよう。

追記(2012/01/25)  今日の朝日新聞1面に「始祖鳥は黒でした」という囲み記事があった。科学誌ネーチャーコミュニケーションに発表される「始祖鳥の翼は黒かった」という記事の話である。まさに、色素・色彩の謎に迫る研究である。しかも誰も見た事の無い「始祖鳥」の化石動物の色彩に関する事である。古生代の世界の色彩は誰も知らない。恐竜の色がどんなに煌びやかであったかどうかなども想像できない。だから画像は全て土色か灰色で描かれている。昔の世界がそんなに単調な色ではなかろうと想像しても、本当の色彩を知る事は出来ない。だから、その一つの研究として「始祖鳥」に挑戦した事は意味があろう。しかし、翼の色が「メラミン色素」から単純に「黒」と結論付けた事を私は理解できない。まさに私が『色彩』という物の本質をどう捉えるべきかを考えたのが上の記事である。蝶などの昆虫や雉などの鳥類の色彩の『色の世界』の仕組みが謎に満ちていると思うからである。タンパク質に本来色がある訳ではない。元もと光に色がある訳でもない。煌びやかな色の輝きは翅の構造が生み出すものであろうと見る。だから、この度の記事を見てとても理解できるものでないと思った。