(7月25日追記) 今年の猛暑でこんな姿に成り、哀れなり。地球が灼熱地獄に変わる前兆か?植物が太陽光に耐えられない状況は人の生命もその行く末を暗示していると思える。
草・木の夏姿。目前の緑に目をやる。椿の堅い葉が強い日照りで黒褐色に焦げている。去年当りから目立つ状況だ。今年は、更に紫陽花の葉が日中に萎びて哀れな姿を呈している。緑は太陽光を吸収して、地球の生命を守る大切な働きをする筈であった。萎れる程になったら、とてもその役目は果たせない。寒さには強くても、暑さには耐えられない限界がある筈。自然に寄り添えば、自然の思いや訴えが聞こえる。
年を追うごとに、飛んで来る虫や昆虫の姿が激減している。もう、春に食い荒らされる筈の山椒の葉も、揚羽蝶の生存数が激減し、卵を産み付けないから、そのまま残っている。もう何年もあの大きいカラスアゲハもクロアゲハも普通の揚羽蝶も見れなくなった。左の写真は上が椿の日焼け、下が紫陽花の萎れた日焼け。こんな哀れな緑の苦しみを見たくない。
酷暑化する日本の夏ーその常態化ーどこまで上昇するか?風の無い気温50℃までか、60℃になるか想像してみて欲しい。『技術が進んで科学が滅びる』経済成長と言う欲望の追求は自然を破壊する事で成し遂げてきた。人間の本姓の成せる業である。今は昔と成ってしまった。庭にも自然が見えた。古いネガフィルムの写真から拾ってみた。1996年頃の庭に来た揚羽蝶である。秋アカネが信濃川の右岸で絶滅して、もう二度とここの田畑上での秋の日本の風景は見れなくなってしまった(2020/03/14)追記。最近また戻ってきた。一つの安心をアキアカネが教えてくれた。感謝!。日本社会を進めてきた指導的人達は、霞が関と言うコンクリートの建物で、エネルギーを使う様に仕組みを構築して来た。冷房の空間で、夏に向き合わずに過ごす経済成長を追い求めてきた。ある物理学の大学教授が言っていた。有名な大学で高等数学を教えている方らしい。「私は自然を見ないようにしている」と仰っている方が教育する『物理学』とは何の為の物理学かととても気掛かりになった。自然は、何処かに旅行にでも出かけた時に、そこで味わえれば事足りるものと思うのだろうと悲しい。
周りの田んぼを見れば、春は量販店に山積みされた『除草剤』が田の畔にたっぷりと撒かれて、枯れ草の生命が哀れな姿を曝している。『水は誰が造りだしていると考えるのか』二酸化炭素がどうこう言うが、水は自然が作り出している事を知らないのではないか。それが『科学』だと思う。技術じゃありません。Spring 8 の電子加速原理も専門家はどんな理論で説明できるのか不思議でならない。自然を見ないようにすると色々儲かるようだ。Spring8 は円形加速装置で電子を光速度近くまで加速できると言う。電磁気学の基本法則で電荷加速は電界の他は無い。装置は殆どが磁気加速装置であろう。ローレンツ力の磁界加速は円運動の中心軸方向への加速度運動と成り、同一半径の円形リングでの加速は出来ないのが「教科書理論」である。電荷概念の加速理論は円形加速装置では不可能である。理論の噓を置き去りにした『理論物理学の素粒子理論』は論理性を無視した素粒子論業界の迷走研究だ。
『エネルギーが質量の基』日本物理学会講演概要集第64巻第1号第1分冊 p.20 (2009) これも発表出来ずに終わった。この論文の主張は、質量はすべて光のエネルギーが局所空間に集まった結果の表れである。アインシュタインが提唱した『質量はエネルギーである』の『E=mc^2^』の式が示す事からの当然の帰結である。質量がエネルギーだからこそ、エネルギーが質量なのである。物理学理論で、『エネルギー』の実在性を認識できないうちは日本の夏の気温は何処までも人間が住めなくなるまで上りつづけるであろう。世界のグローバル化は過熱地獄の地球を作ろうとしている。