知識と智慧

以下の記事を読んで何が智慧かと大いに恥ずかしくもある。独善と幼稚さが見えるから。

(7月1日追記) 知識と智慧の標題で書き始めた。下手な筆書きで『學力とは』を挿入した。誤解せれるといけないので、少し前書きを追加させて頂きたい。確かに『知識』を詰め込む事も大切ではある。それはやはり初めは何が大切で、何が不要であるかを見極める事が困難であるから。その判断力を身につけるには、多くの事を知り、全てを見通すだけの総合的な体系を描き得る迄になる必要がある。そこで、教育現場では特に気を付けなければならない重要な点が浮かび上がる。子供に教育する側が、子供の将来に、今教えている事がどの様な影響を与えるかと言う未来への予測能力を持つ必要があると言う事であろう。だから無駄の知識の詰め込みは、教育する側に避けるだけの能力が有るかどうかが重要になって来る。適切な内容に絞った教材を提供し、深い未来を見越した指導のできる教師の姿勢が求められると言う事であろう。一番の問題は、文科省と取り巻き審議会の伝承鳩教育感に未来性が見えない事である。教育を受ける子供たちに、取捨選択する難しさを押しつけている事に気付かない教育行政が問題である。ここでも指摘しておく。『電流』は電線の中を流れない。電気回路の電流解析の経験を積み重ねなければ、その電流概念の『嘘』に気付かないのである。熟練は理論より現場経験を通して身に付く。総合的視点が要求される。知識は当てにならない事を覚悟して、深く自分で考える訓練を積み重ねる以外ない。鵜呑みにする記憶学習ほど重荷になるだろう。電流は流れず  について考えてください。関連記事です。電流計は何を計るか も電流の意味を考える参考と成りましょう。

(6月26日に記す) 世の中の生き方を身に付けることは誰もがそれぞれの境遇の中で、修得するものであろう。それは知識と言うより知恵なのかも知れない。生き方はその人の環境によって様々に変わるものだろう。学歴が殊更要求されるようになったのは、生きる活動分野がだんだん特定され、専門分野に仕分けられるようになった現代社会の宿命のようになったからなのだろうか。しかし、その『専門性』が本当に社会の構成上に役立っているのだろうかと疑いたくなってきた。学歴は文字どうり学校教育の履歴の質・量に基づく職業人・社会人としての社会的能力評価の尺度を言うのであろう。高い教養を身につけるには、大学や高等教育を受ける事が必要と見られている。現代の極端な情報化社会では決まり切った機構・方策に縛られた生活手段の獲得に単純化された。学校教育の方策も教育行政の指導性も、その専門性が全く見えない日本の現状を呈している。『学力とは何か』一つを思い描いてみてもなかなか見えない。2003年にそんな思いで筆にした拙い乍の一文が有る。学校で受ける教育で、「読み書き算盤」は一番大切なものである。道路で遊べない都市化環境での運動機能や体力強化は特に必要であろう。しかし、今も自分で考え、解決する能力の育成が重要と言い、ゆとりが有って初めてそれが可能と言いながら、今度は分厚い教科書の内容で、決まり切った知識の詰め込みに突き進もうとしている。小学校でどれだけ知識や算数計算能力を詰め込んでも、どんな人間に成長する事を目標にしているのかとても危険に思える。みんな同じ知識を詰め込まれて、同じ方策に組み込まれて、専門性と言う虚構の組織固めに利用される人間だけの社会体制を構築しようとしているようにしか見えない。宮大工や瓦職人という日本古来の伝統の職人は知識と言うより智慧がその人を支えていたのであろう。確かに、私のように下手な日本語しか書けない者は現代社会の中で生きるには無能とされるであろう。学歴を積んで、学位を得る事が一応の現代職業人として最低の物差しの評価と成っているようだ。また職人の場合は、学歴で得た知識では体に染み込んだ感性・感覚には成らない。道具を使いこなして、身体と道具が統一された無意識体の動きにまで高められて初めて名人と言はれるのだろう。こんな事を何故書いているかと言うと、自分の現在の心境で、学習によって得た知識が余り次元の高い知恵には成り得ていないように思えるのである。と言うより、無駄な学習が多いと思うのである。高等学校で数学に「虚数」が出て来る。2次方程式を解くと、実数だけでは説明できない。理系の大学に入れば、虚数を知らないで授業に対応できない。大学教授の授業はとても高度な数学、例えば「一般相対性理論」が理解できるように等のチンプンカンプンな数式の羅列が出て来る。だからせめて、高等学校で虚数が分からないといけない、となる。虚数は自然描写に役立つか数学の論理性の限界。等に数学と言う大切な学習知識の意味を短文に記した。少し違った方向から『基礎科学』とは何かで感性・感覚と言う禅での直覚的理解に思いを触れてみた。知識は学んで後に、それを捨てる事が真の智慧に到達する道と思う。詰め込んだ知識は、経験の無い未知に出会う時、真にその能力を役立てられないように思う。危機管理に役立たない。知識は飾り物になっている。学びに於いて、学習効果を目的にすれば、そのまま記憶して試験成績を高くすれば良い事になる。その学習態度が、極めて拙いと言いたいのである。外国語や言葉は確かに表現能力を高めて、社会との対話、意思表明に役立つ。学習に興味を抱けたら、それだけで満点である。面白かったー。と子供が楽しければ最高である。『学習で理解した』と言う事の意味を考えてみた。私は教室で先生の話を聞くと、とても楽しい。ところが理解に苦しむ内容は殆ど頭に入らない。その場合は、その内容は決して記憶の領域に残らない。試験の点数は推して知るべしである。自分は能力が無いと諦めていた。しかし、今になって考えてみると、「解る」と言う事と「覚える」と言う事には相当の差が有ると思う。今『電流』は間違った物理概念である、いわゆる電線の中を電流あるいは電子が流れると言う解釈が間違いなのだ。超伝導もその導体の内部の分子・結晶構造のエネルギー伝道が熱化のロスを生まないで、効率良く利用される状態であると解釈できる。こんな解釈は『電流』の意味を学習で理解したと思っている人には到底受け入れられない解釈である。学習した事をすべて捨てる時に何か新しい物が見えて来ると思う。自由に感覚を磨いて、直覚的に判断できる職人の領域が『智慧』の意味と思う。この基本には『エネルギーが世界に実在の唯一であり、その極限が光である』と言うただ一つに判断基準を置くだけなのである。

 断食と脳細胞 宗教の行に座禅や断食行が有る。以前、テレビで「阿闍梨」への修業の苦行を見た。密教の修業だったか解らないが、最後の「断食行」に籠るまで、長い年月を山岳の踏破で過ごし、身体的な十分の訓練を経て断食に入るのであったように覚えている。お堂に籠り何日間で有ったか忘れたが、水は有ったかもしれないが、何も食べずに、外界と断絶して相当の期間を過ごすのである。IT検索に修行の様子が出ている。千日回峰行と「お堂入り」。お堂入りは、水も無しで不眠不臥、読経三昧で9日間の命懸けの業であると。明けて出る時に生きていれば、その人を「阿闍梨」と称号するらしい。こんな荒行が現実に在る事が信じられない。当然生き仏のような高僧として讃えるようだった。アジアや中東には「断食」が今でも行われているようだ。飽食の時代に生きて、「断食」は東洋哲学の究極の智慧なのかも知れない。命懸けではあるが、体に貯まった不純・不要な物を掃き清めて、脳の細胞の再生作用が働くように思う。殆ど脳細胞の大部分は使わず仕舞いで過ごしているようだ。危険であるが断食は脳の活性化に有効であると信じる。恥ずかしながら己の馬鹿を披露しよう。1990年12月ある病院に強制的に幽閉された。これで人生もお仕舞いと覚悟した。食を拒否する『断食』に入る。気が付いたら他の病院のベットの上だった。そこで食を摂った。それが大晦日の「病窓に 満月迎え 除夜の鐘」の句になる。意識不明で転倒した時の外傷が有った。全く気付ず、今でも痕跡が残っている。年が明けて、数日で『光の相対性理論』を纏めた。そんな研究が何の役に立つかも考えず。ただ生きている暇を弄ぶ為だけのノート作業であった。頭が冴えたのは、『断食』のおかげである。病院では一服も薬は飲まず、ゴミかごに捨てていた。ただ、医師が『ハロマンス』と言うよう神経作用の注射を強制的に注射された。意識朦朧となり、視力が定まらずの苦行の苦痛を嘗めた。

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