月別アーカイブ: 2011年6月

知識と智慧

以下の記事を読んで何が智慧かと大いに恥ずかしくもある。独善と幼稚さが見えるから。

(7月1日追記) 知識と智慧の標題で書き始めた。下手な筆書きで『學力とは』を挿入した。誤解せれるといけないので、少し前書きを追加させて頂きたい。確かに『知識』を詰め込む事も大切ではある。それはやはり初めは何が大切で、何が不要であるかを見極める事が困難であるから。その判断力を身につけるには、多くの事を知り、全てを見通すだけの総合的な体系を描き得る迄になる必要がある。そこで、教育現場では特に気を付けなければならない重要な点が浮かび上がる。子供に教育する側が、子供の将来に、今教えている事がどの様な影響を与えるかと言う未来への予測能力を持つ必要があると言う事であろう。だから無駄の知識の詰め込みは、教育する側に避けるだけの能力が有るかどうかが重要になって来る。適切な内容に絞った教材を提供し、深い未来を見越した指導のできる教師の姿勢が求められると言う事であろう。一番の問題は、文科省と取り巻き審議会の伝承鳩教育感に未来性が見えない事である。教育を受ける子供たちに、取捨選択する難しさを押しつけている事に気付かない教育行政が問題である。ここでも指摘しておく。『電流』は電線の中を流れない。電気回路の電流解析の経験を積み重ねなければ、その電流概念の『嘘』に気付かないのである。熟練は理論より現場経験を通して身に付く。総合的視点が要求される。知識は当てにならない事を覚悟して、深く自分で考える訓練を積み重ねる以外ない。鵜呑みにする記憶学習ほど重荷になるだろう。電流は流れず  について考えてください。関連記事です。電流計は何を計るか も電流の意味を考える参考と成りましょう。

(6月26日に記す) 世の中の生き方を身に付けることは誰もがそれぞれの境遇の中で、修得するものであろう。それは知識と言うより知恵なのかも知れない。生き方はその人の環境によって様々に変わるものだろう。学歴が殊更要求されるようになったのは、生きる活動分野がだんだん特定され、専門分野に仕分けられるようになった現代社会の宿命のようになったからなのだろうか。しかし、その『専門性』が本当に社会の構成上に役立っているのだろうかと疑いたくなってきた。学歴は文字どうり学校教育の履歴の質・量に基づく職業人・社会人としての社会的能力評価の尺度を言うのであろう。高い教養を身につけるには、大学や高等教育を受ける事が必要と見られている。現代の極端な情報化社会では決まり切った機構・方策に縛られた生活手段の獲得に単純化された。学校教育の方策も教育行政の指導性も、その専門性が全く見えない日本の現状を呈している。『学力とは何か』一つを思い描いてみてもなかなか見えない。2003年にそんな思いで筆にした拙い乍の一文が有る。学校で受ける教育で、「読み書き算盤」は一番大切なものである。道路で遊べない都市化環境での運動機能や体力強化は特に必要であろう。しかし、今も自分で考え、解決する能力の育成が重要と言い、ゆとりが有って初めてそれが可能と言いながら、今度は分厚い教科書の内容で、決まり切った知識の詰め込みに突き進もうとしている。小学校でどれだけ知識や算数計算能力を詰め込んでも、どんな人間に成長する事を目標にしているのかとても危険に思える。みんな同じ知識を詰め込まれて、同じ方策に組み込まれて、専門性と言う虚構の組織固めに利用される人間だけの社会体制を構築しようとしているようにしか見えない。宮大工や瓦職人という日本古来の伝統の職人は知識と言うより智慧がその人を支えていたのであろう。確かに、私のように下手な日本語しか書けない者は現代社会の中で生きるには無能とされるであろう。学歴を積んで、学位を得る事が一応の現代職業人として最低の物差しの評価と成っているようだ。また職人の場合は、学歴で得た知識では体に染み込んだ感性・感覚には成らない。道具を使いこなして、身体と道具が統一された無意識体の動きにまで高められて初めて名人と言はれるのだろう。こんな事を何故書いているかと言うと、自分の現在の心境で、学習によって得た知識が余り次元の高い知恵には成り得ていないように思えるのである。と言うより、無駄な学習が多いと思うのである。高等学校で数学に「虚数」が出て来る。2次方程式を解くと、実数だけでは説明できない。理系の大学に入れば、虚数を知らないで授業に対応できない。大学教授の授業はとても高度な数学、例えば「一般相対性理論」が理解できるように等のチンプンカンプンな数式の羅列が出て来る。だからせめて、高等学校で虚数が分からないといけない、となる。虚数は自然描写に役立つか数学の論理性の限界。等に数学と言う大切な学習知識の意味を短文に記した。少し違った方向から『基礎科学』とは何かで感性・感覚と言う禅での直覚的理解に思いを触れてみた。知識は学んで後に、それを捨てる事が真の智慧に到達する道と思う。詰め込んだ知識は、経験の無い未知に出会う時、真にその能力を役立てられないように思う。危機管理に役立たない。知識は飾り物になっている。学びに於いて、学習効果を目的にすれば、そのまま記憶して試験成績を高くすれば良い事になる。その学習態度が、極めて拙いと言いたいのである。外国語や言葉は確かに表現能力を高めて、社会との対話、意思表明に役立つ。学習に興味を抱けたら、それだけで満点である。面白かったー。と子供が楽しければ最高である。『学習で理解した』と言う事の意味を考えてみた。私は教室で先生の話を聞くと、とても楽しい。ところが理解に苦しむ内容は殆ど頭に入らない。その場合は、その内容は決して記憶の領域に残らない。試験の点数は推して知るべしである。自分は能力が無いと諦めていた。しかし、今になって考えてみると、「解る」と言う事と「覚える」と言う事には相当の差が有ると思う。今『電流』は間違った物理概念である、いわゆる電線の中を電流あるいは電子が流れると言う解釈が間違いなのだ。超伝導もその導体の内部の分子・結晶構造のエネルギー伝道が熱化のロスを生まないで、効率良く利用される状態であると解釈できる。こんな解釈は『電流』の意味を学習で理解したと思っている人には到底受け入れられない解釈である。学習した事をすべて捨てる時に何か新しい物が見えて来ると思う。自由に感覚を磨いて、直覚的に判断できる職人の領域が『智慧』の意味と思う。この基本には『エネルギーが世界に実在の唯一であり、その極限が光である』と言うただ一つに判断基準を置くだけなのである。

 断食と脳細胞 宗教の行に座禅や断食行が有る。以前、テレビで「阿闍梨」への修業の苦行を見た。密教の修業だったか解らないが、最後の「断食行」に籠るまで、長い年月を山岳の踏破で過ごし、身体的な十分の訓練を経て断食に入るのであったように覚えている。お堂に籠り何日間で有ったか忘れたが、水は有ったかもしれないが、何も食べずに、外界と断絶して相当の期間を過ごすのである。IT検索に修行の様子が出ている。千日回峰行と「お堂入り」。お堂入りは、水も無しで不眠不臥、読経三昧で9日間の命懸けの業であると。明けて出る時に生きていれば、その人を「阿闍梨」と称号するらしい。こんな荒行が現実に在る事が信じられない。当然生き仏のような高僧として讃えるようだった。アジアや中東には「断食」が今でも行われているようだ。飽食の時代に生きて、「断食」は東洋哲学の究極の智慧なのかも知れない。命懸けではあるが、体に貯まった不純・不要な物を掃き清めて、脳の細胞の再生作用が働くように思う。殆ど脳細胞の大部分は使わず仕舞いで過ごしているようだ。危険であるが断食は脳の活性化に有効であると信じる。恥ずかしながら己の馬鹿を披露しよう。1990年12月ある病院に強制的に幽閉された。これで人生もお仕舞いと覚悟した。食を拒否する『断食』に入る。気が付いたら他の病院のベットの上だった。そこで食を摂った。それが大晦日の「病窓に 満月迎え 除夜の鐘」の句になる。意識不明で転倒した時の外傷が有った。全く気付ず、今でも痕跡が残っている。年が明けて、数日で『光の相対性理論』を纏めた。そんな研究が何の役に立つかも考えず。ただ生きている暇を弄ぶ為だけのノート作業であった。頭が冴えたのは、『断食』のおかげである。病院では一服も薬は飲まず、ゴミかごに捨てていた。ただ、医師が『ハロマンス』と言うよう神経作用の注射を強制的に注射された。意識朦朧となり、視力が定まらずの苦行の苦痛を嘗めた。

禪と科学

禪とは中々難しいものだ。理解困難なものほどその魅力に惹かれもする。その難しさを表したものに『般若心経』が有る。色即是空 空即是色に集約されていよう。禪と科学等と大層な題材を選んだものと我ながら呆れている。普通に、世間的には『禅』と『科学』は相対立するものと看做されよう。ここに、恥ずかしい達磨の図を挙げた。自分の精神的葛藤と将来への不安を表現したものと今になって理解出来る。達磨は孤高の存在である。二つ達磨は無かろう。(記す文章もどのように弾け飛ぶかは定かでないので、自分のリスクであるが、未熟のままで書き足す過程をそのまま公開しながら進む事にしたい)上の達磨図絵は、見た人も多かろう。昭和62年2月頃、長岡工業高等専門学校の電気科5年生の卒業文集にと学生に頼まれて書いたものである。その後名刺の裏図絵として利用した。食べ物、飲み物を鍵掛の神経をすり減らしながら、殺害の危機から生命を守る極秘の秘儀を尽くして、一日も欠かさずの諸行で、何食わぬ顔で半年間過ごした。常在戦場の意味かと後に知る。そんな中で、一寸先も見えない暗闇に立つ自分の怒りは、向ける相手が見えない「四面楚歌」と言う全体が相手である。電気科の教官、校長および中曽根臨教審の審議会等教室の授業内容盗聴を含めた犯罪に対しても、対処の術が無かった。ただ黙って生命を守るだけであった。そんな中で卒業生に送る言葉も書けなかった。それがめめしい二つ達磨(繋がりの無い孤高を憂える弱さ?)の禪精神の異端の図となった。 魑魅魍魎の世界を覗けば 二つ達磨は「生命を守る」異常事態の中の出来事である。長岡工業高等専門学校が殺人学校に見えた。歴代校長。初代校長:山崎貫三。二代目、田健一(文部省保健体育課)。三代目、大戸啓二郎(昭53年4月~昭55年4月29日病死)。事務取扱、高橋旦。4代目、池田作次(昭55年6月11日~昭59年2月12日病死)5代目、高橋旦。昭和60年4月~私が転入、幽霊所属。昭和61年5月初頭、健康診断結果で、胃カメラ検診を受ける事を指示される。何の異常も感じないのに「変だ?」と思った。論文が忙しく、予定日を後日に変更。検査で『細胞検査』も同時にすると言われた。その後、再び、庶務課長の指示文書で、「胃カメラの再検査指示」通知があった。2度までの検査を何故しなければと、「殺人の臭い」で無視した。不思議にその後に何の指示「再検査指示」の連絡は無かった。その8月、9月が「殺害の危険」を実感した。それ以降の半年が「生命を守る」秘密対策と魑魅魍魎との戦いであった。二人の前任校長の病死が一つの予備知識であった。やはり「二つ達磨」の補足記事に記した。 我が科学革命の原点『静電界は磁界を伴う』(昭和62年電気学会全国大会)で、物理学の根幹を否定する問題提起をした。『電気磁気学』指導担当者としての務めでもあり、決死の覚悟の発表でもあった。電子概念、電荷概念の否定と言う科学界に打った楔であると今に思う。『電流』と言う電気技術者としての根本的拠り所を、自己否定と言う事になる挑戦であった。当時は電気学会の会員であった。昭和63年のびわ湖湖畔での『電磁界理論研究会』以降、会費滞納で除籍処分となる(2019/01/27)追記、電気学会会費については初めから納めていなかったことに最近気付いた、だから会費滞納が原因ではなかった、自分の存在の意味が全く理解できない。昭和62年春の全国大会での発表内容は、 『瞬時電磁界理論』とは に取り上げた。それは電界、磁界と言う概念の矛盾を指摘した原点となるものである。電荷概念についての当時の解釈には、私なりの曖昧さも有りその点でも今考えると、世界の基礎理論に立ち向かう気力と現在までの思考の変化を見るようで面白味が有る。そのすぐ前に、 禅と自然科学  に、似た記事が有った。(2015/02/20)追記。長岡技術科学大学で、昭和63年10月8日、私に対する免職処分?の基礎理由として、教授会で私を呼んで学生電気実習の指導を拒否している事を謝罪させたが、再び実習の指導を放棄したと成っている。不思議にも、その日は大学に内緒で、出張届もせず、自費でこっそりびわ湖湖畔での電磁界研究会で大事な発表をしていた。教授会に呼ばれたことも無い。『瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義』電気学会、電磁界理論研究会資料、EMT-88-145.(昭和63年10月)。長岡工業高等専門学校で、昭和61年秋に撮り貯めておいた実験データの資料の発表であった。 昨日書棚から、鈴木大拙著、北川桃雄訳『禅と日本文化』を取り出して、読んでみた。昭和15年出版の内容で、太平洋戦争前年の時代性も感じられはするが、第1章 禅の予備知識 辺りの内容にはとても感心させられる。第1章にはおおよその禅の意味を知るに役立つ事がまとめられている。決まり切った方式や、常識あるいは知識から解き放たれた自由の境地に精神を浮遊させている姿を望むものかと感じる。心を無にする。だから理屈を望まず、決まりに従わず。そんな風にもとれる。そこに“禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)と・・”や“科学は系統化を意味し、禅はまさにその反対である。”等とある。また知識に三種ある。第一は読み聞きによる知識。第二は科学などの観察と実験・分析と推理の結果による知識。強固な基礎を持つ、それはある程度体験的、経験的であるから。“第三の種類の知識は直覚的な理解の方法によって達せられるものである。”と記されている、それが禅の知識に相当するものと解釈する。“直覚的理解”なるものは確かに科学の理解とは異なるであろう。数式も、論理性も無視するように見える。だから、系統的に確立された物、方式あるいは国家なる概念に対しても従わない、精神の自由を禅の本質とするもののように思える。禅は破壊の思想と言われる所以がそこにあろう。『般若心経』というお経も仏教の形式も禅の求めるものから見れば、囚われてはいけない事なのである。もともと『般若心経』は仏や、お葬式の為の御経ではないのだ。インドに生まれた生きる人の自然観と生き方の悟りを纏めたものであり、人生哲学である。昔は知識人の最高の指導者が宗教人であったから、その流れを踏襲して現在に至っているだけである。精神が囚われない生き方は現在の複雑で、金銭的な物量に縛られた社会制度では、禅は生きるに困難である。 第3,4章に、禅と武士、禅と剣道で書かれている。禅は精神的呪縛から解き放たれている事を最高の位に置くのじゃないかと思う。武士道精神が自由より義理と人情に縛られる支配層の思惑に陥る危険性が有る。その典型が太平洋戦争の『特攻隊』と日本軍隊であった。禅と武士道が日本の精神性を表象するように思はれる原因の一つが「武士の大小二刀の帯刀」にあったのかと初めて知った。確かに西洋の騎士や戦いの武人は武器を持つが、日本の武士のように「小刀」を携えることは無いようだ。宮本武蔵の二刀流は別として、「小刀」には戦う為の刀と言うより、自分自身を律する為の脇差であったのかと。それは殆ど『切腹』と言う自分の生命を自身で絶つ為に使う刀である。それは如何にも古来の日本的精神性の優越性として日本人によって崇められる特質の表れと思える。『切腹』と言う所業(好ましくない行いーと言う意味で使った訳ではないー)が武士道の精神性を担保する拠り所としての日本人社会の一規範と成っていた事の奥底に潜む意味を考えることが重要に思える。それは『禪』と結びつくのだろうか。確かに「雲水」が旅の中で出来事に遭遇して、その諍い(イサカイ)・争いを収める為に自らの生命を「生き仏」として捧げる所業は各地に「生き塚」として残っていると考えている。禅僧は何時如何なる処で生命を捨てるか覚悟が出来ていたのであろう。その禅僧の精神性が武士道に反映されて来たところに日本的特質が隠れているのかもしれない。支配階級に巧く利用されたのが『特攻隊』である。許されない権力犯罪である。卑怯にも、社会的集団性を持って、そこに組み込む体制を作り上げたのである。『特攻隊員』自身の潔さと湛えながらの、権力体制の悪い所業の無責任性を作る卑劣さがその根底に隠されているのである。「生死一如(ショウジイチニョ)」「潔く死ぬ」等の言葉が禅の思想に結びついているようだ。この辺の日本人に特有な意識が集団体制や利権団体あるいは国家的全体主義への道に繋がり易い危険性を帯びていると思う。『原発災害』も原子力村の集団体制が正当な異議を踏み潰してきた当然の結果でしかないのだろう。『和』の日本に『禪』は馴染むか。と言う感じもする。禅は孤高の思想だ。その点で、武士の孤独な、太刀一筋に生命を掛ける生き様に共通するのであろう。当然であろうが、世間と合わなければ排除される。それが日本人の精神的特性を支えている根底にあるものに見える。 空即 無限なる有なり 初めの図絵に記した。この中にはいろいろな意味を含ませていたように思う。当然、禅思想と人生を強く意識していた。禪とは何かも長い間の思う対象であった。しかし、一番大きい意味は「電気磁気学」のエネルギーの諸相が「空間」で表す意味に「無限性」を感じていたからであるように思う。当時は「電荷概念」をどのように捉えれば良いか、思考の始まりであったから、暗中模索の中に居た。「生命」を守る日々の行為と、「物理学」の根底に抱いた疑念との精神的葛藤に身を置いた。その思いが自然にその絵図になったのであろう。渡された名刺を見て、人はどのように思ったかは、今になれば日本社会での村意識構造の中での事であるから、想像に難くない。アハハハ!今でも、文科省の教育行政は当時感じていた下らなさの思いは、日本の未来に禍根を残し続ける危険を禁じ得ない。長岡工業高等専門学校の助教授の辞令(松永光文部大臣)が出せる筈が無かったのだ。文部省への審査書類が有る。その中身は「新潟県立新津工業高等学校での研究業績として、「静止電力変換装置」で確信した「変圧器の励磁電流の噓」が教科書に在る事を批判した。『電圧時間積分』が鉄心磁束量の解釈に欠かせない概念である事を指摘した。新潟県で採用辞令も出ていない幽霊教員の過去をどう繕っても、文部大臣(中曽根内閣、松永光文部大臣 1985/07/01付け)が辞令を出せる訳が無い。その後の事は押し並べて計るに難くない。まさか「軍歴表」が絡んでいるなど知る由もない。私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府

相対速度とは?

光の速度と空間特性』の(3)二つの運動体間の光伝播特性について論を纏めようと考えたが、光の空間伝播と言う解釈にはやはり特殊な認識が必要と感じた。アインシュタインの『特殊相対性理論』とは全く異なる解釈の展開ではあるが、日常の感覚とは少し視点を変えなければならない事が有る。光規定空間の場は地上の座標とは異なり、そこでの光伝播を論じようとすると、日常の生活での『相対速度』と光の伝播に関する『光相対速度』との違いを明確にしておく必要を感じた。先ず日常の例で相対速度と言う意味を考えておく。ロケットの打ち上げの様子は誰もが映像で見慣れているだろうから、それを題材に考えてみた。ロケットの打ち上げの様子を人が観察している状況で考えてみる。私も宇宙の事に関しては全くの素人である。だから疑問だらけでありながら、論じることに面映ゆさを禁じえない。例えば、ロケットは真上に発射されているようだが、暫くすると横に流れているように見える。その訳は「地球の自転の影響なのだろうか?」等である。マイケルソン・モーリーの実験では地球の表面速度を約 30[km/s]と考えていたようだから。地球自転の影響でロケットが曲がるなどと考えることは間違った解釈なのかどうかは、ロケットの発射現場の人に聞かないと分からない。専門家には素人の論は相手にされないが、一通り教科書の中身を学び過ごした目から見ると、総合的に判断して、余り専門の理論に固執しないで考えて良いかと思う。その中から役立つ理論を抽出して、日常生活の中に結び付けられたら良いと思う。古い理論の伝承鳩教育が現状の教育機関の問題点と思う。ロケットの話に戻す。観測者からロケットまでの距離が『相対離隔距離』と言えよう。人はロケットを見ながら、その上昇する早さとか方向とかのおおよその状況を推し量る。人からの距離が x[m]とする。この長さと方向性を数式で考えると、空間ベクトルに成る。ベクトル x になる。このベクトルの時間的変化率、即ち時間微分 dx/dt が所謂『相対速度』と言うものの解釈、定義になる。この相対距離の時間微分を「ベクトル解析」と言う有効な数学で解釈すると、「空間ベクトル解析」と言う論題になる。その『相対速度』はどのようになるかを示したい。人がロケットを観測して、その観測結果がロケットの速度として認識出来る訳では決してない。ただ考え方として理屈を付ければこのように表現でき、納得できるだろうという程度である。人がロケットの早さとか、その距離とかを目視で認識するのは、対象物が両目に張る角度γしか無かろう。近くではその識別力は相当効くが、遠くに離れるとどの程度の能力になるかとは思うが。兎に角数学的に解けば、時刻 t の時の離隔距離 x(t) と少し経過した時刻 t’ の距離 x(t’) の各ベクトルの差を経過時間 tr = t’-t で割れば時間微分となる。その時間間隔 tr を限りなく0にするのが極限値としての時間微分の意味である。lim(リミット)と言う記号で表した。その結果がロケットの時刻 t における瞬時的速度を表す事になる。その大きさが V であり、方向が単位ベクトル n で表される。また、発射台からのロケットの相対速度を解析すれば、人からの距離の微分と同様に同じ結果と値 Vn になる。なお、ロケットがより遠くの場合でも、もし同じ速度 Vn であれば、ベクトル解析結果は同じ微分値となるのは当然である。この辺の話になると、人間の観測感覚とは合わないだろう。

さて、人が離れた物を認識するのは何に拠るかと言えば、無意識ではあるが、それが『光』である。光で認識する訳であるが、光の相対速度を考えようとすると、特別な解釈の意識を持たなければならない。地球上でロケットを観測しても光の相対速度から、ロケットから反射する光が同じ地球上で観測するため、相対的に地球の運動はほとんど影響なく認識出来ると解釈して良い。(この文章は間違いである。2013/04/21に訂正。)ロケットからの光はロケットから放射された瞬時に、ロケットの速度とは無関係に光規定空間を光速度で伝播する。他方観測者の観測点は地球の光規定空間に対して何らかの測定不可能な相対運動をしている。そのロケットと観測者の相対的光規定空間上の瞬時的相対離隔距離はあるベクトル的な時間関係で定まっている。しかし、その座標関係を観測上も、計算上も瞬時的に捉える事は困難である。光の観測で或る程度の相対関係を認識するだけである。ロケットと観測者の二つの相互の状態を捉えるには、光あるいは電波に因るより他に方法はない。ロケットから放射された光を観測者が捉えたとしても、その瞬時のロケットの位置を捉えることに成る訳ではない。観測対象からの光伝播特性は 光伝播時間算定のための瞬時空間ベクトル解析法 日本物理学会講演概要集第54巻第1号第1分冊77頁(1999)(発表欠席)に解説してある。ロケットと観測者の光規定空間上の速度ベクトルが明らかなら、光の観測でロケットの相対速度を理解できるが、二つの速度が一般的には解らない訳であるから、光の到達時間の遅れをどう補正できるかで、観測結果が決まるであろう(以上追記)。

この辺の微妙な光の速度差を論じようとすれば、光速度を定義する場を明確にしておかなければならない。その点で、ローレンツの収縮やアインシュタインの論理で、考察対象の速度v や光速度 c と言う場合のその速度を定義し、論じる基準の空間が何も明確にされていない処に論理的矛盾が有る。言わば「曖昧さ」の上に論じられているのである。私が『光の相対速度』と言う場合に、その意味を誰もが分かるようにしておかなければ、論理にならないと思うので、ここに取り上げた。ロケットの速度を人の観測と言う場に「空間ベクトル解析」と言う数学的手法の意味を説明した。光の伝播現象に、光一粒(光量子、光子と言うもので、1波長分のエネルギー空間分布を私は定義)の空間での瞬時、瞬時の座標位置を「瞬時空間ベクトル解析」により捉えようとするものである。ここで説明しておきたかった事は、光の速度基準空間が『光規定空間』と言う宇宙の全空間を支配する均等な絶対空間と解釈すると言う点である。この辺は宇宙論の専門家とは全く異なる視点で解釈している事をご承知いただきたい。光が世界を支配する全ての「王者」であると言うのも、この事、即ち「空間と時間ー”時空”」を規定する支配者が光である事に基準を置いているからである。素粒子も変換時に光を放射する。光をどんな素粒子が構成すると言うのかを明確に示されれば、私も『世界の王者が光だ』などとは言わないで済むかもしれない。素粒子の根源も『光』である

空間ベクトル解析と単位ベクトル

人が生活する場は「4次元空間」である。物の存在を認識する事は最低でも3次元である。物差しで長さを計ると言う事も、長さだけでは物の存在は認識出来ない。長さは物ではない。物の或る一面の寸法を計るのである。長さと言う概念はあくまでも空間を占有する実態を伴はない。長さは空間のゼロの概念である。日常生活は、目の前の空間で速度や広さ、長さを考えれば十分である。例えば、東西南北で「南向き」、「東向き」そして天上天下の「天の向き」の3つの方向で座標を考えれば目の前の空間の全体を把握し、規定できる。しかし、光の物理学的論理を展開しようとすると、日常の目の前の空間で考えることでは無理である。3次元空間の座標が、ある基準点を原点O点として仮想し、そのO点に直交する3本の座標軸で考えて得られる。その座標は空間の位置の距離寸法と方向を規定することで初めて役立つ。「大きさ」はおよびで決め、「方向」は「単位ベクトル ijおよびkを使う事にする。ベクトルは太字の斜体文字で表そう。この単位ベクトルが空間のベクトル計算や表示にとても便利であると同時に重要な量となる。その辺の関係を基本的なベクトルを基に少し考えてみる。右の図で、ベクトルaと bおよびそのベクトルとしての意味を簡単に説明しておきたい。%e5%86%99%e7%9c%9f427それは光の速度と空間特性で、今後記事を追加するに当って、運動物体と相互間の光伝播特性を考える為の基本的事項を纏めておこうとした。ベクトルと挟み角それは右のベクトル図の関係を理解する程度の基本的内容にとどまる。その図のベクトルabおよびベクトル積[a ×b]だけを取り上げてみる。各ベクトルがn_a_および n_b_なる単位ベクトルを持つとする。考える対象は目の前に描く空間でのベクトルであり、抽象的な高度の数学論とは異なる事をご承知いただきたい。ベクトル計算には「スカラー積」と「ベクトル積」の二つがある。図で考えると、ベクトルaをベクトルbに掛ける場合の計算を取り上げてみよう。その時の基礎事項はベクトル間の角度γ(ガンマ)とベクトルab方向成分a_b_とそれに直交した成分a_?_(単位ベクトルの方向性をどう表現すれば良いか難しくて添え字?とした)の二つに分解する必要がある。baの「スカラー積」を取れば、ab cosγの大きさが得られる。しかしそれは空間的な意味は失われてしまう。baの「ベクトル積」を取れば、[a ×b]でabの成す面に垂直な方向の新たな空間ベクトルとなる。このベクトル図の上で、スカラー積とベクトル積の計算を下に示す。

「スカラー積」の意味。ベクトルaとbのスカラー積とは何かを考えておきましょう。数学的意味と言うより、空間ベクトルの日常的な物理的実在性の意味についてである。二つのベクトルのスカラー積には空間的なベクトルの意味が全く失われてしまう。よく電気工学などでベクトル計算が使われる。そのベクトルは全く「抽象的ベクトル」で、実在空間とは相容れない概念の論理である。だから『光伝播特性』を論じる場合の空間ベクトルは『実在空間』を対象にした生活感覚に近い論理を展開する必要がある分野と考える。電気工学での「スカラー積」は抽象概念の『電圧』や『電流』を空間上に表示して解釈する場合に当たり、その場合も空間ベクトルの意味は失われる。スカラー積で得られた結果は「電力」や『熱エネルギー』等の空間概念から外れたものを表す事になる。『熱エネルギー』もエネルギーの少ない方向に自然に流れるから、伝導するから、その時は実在空間での方向性を持った『熱エネルギーベクトル』と看做す必要がある。微分演算子でグラデュエントgrad等で表現し、解釈する事になる。大体『エネルギー量』関連になり、空間的ベクトル性は失われるのが「スカラー積」の特徴と看做せば良いのかな。%e5%86%99%e7%9c%9f428

「ベクトル積」の意味。 スカラー積に対して、「ベクトル積」は空間上で大きさと方向が明確に規定される為、意味も分かり易い。ただその方向と物理的意味についての解釈には独特の習慣に慣れることが要求されるかもしれない。こんなところに、学問と言うある種の専門性には、『特殊な性質』が有るのかもしれない。所謂『専門性』と言う意味の中身が、一般生活常識では理解し難い難しさの領域の事になるのかもしれない。

単に空間にベクトルを設定しても、その方向性や計算が明確に規定し、理解するのが困難である。そこで最初の図のように、三次元の基準となる空間座標が必要になる。xi-yj-zkの3次元に更に1次元の時間を加えた4次元座標で、光の伝播特性などを考察するのである。ここにその『単位ベクトル』の意味を示す。

右ねじ系軸ベクトル 空間ベクトルで、角速度ベクトルω[rad/s]が有用である。角度ではある右ねじ系軸ベクトルが、空間で回転する角速度ωはその方向性を回転角の平面に対して、垂直な軸方向に定義する。角速度軸ベクトルその事に論理性があるかどうかは分からない。ただ空間ベクトルの取り扱い上便利であると言う事であるこれも技術的観点からの有用性だけなのかもしれない。右の回転運動のベクトル図で、動径 r  の先端の座標が回転速度ベクトル v [m/s]で回転する。その図の各ベクトルの取り扱いと考え方を纏めておきたい。特に、角速度ベクトルωの意味には特殊な解釈が含まれると思う。それは角度θやωの単位[rad]の次元解析上の意味が一般的に見失われると言う事である。次元解析で角度[rad]は消えてしまうのである。その点をも考慮して、纏めてみた。それが今後どのような意味を持つかはまだ明確ではない。以上で、単位ベクトルの意味について少し考え方を述べた。蛇足かも知れないが。