月別アーカイブ: 2011年5月

マグマと地球の生命

(2012/02/20) 記事修正追記。今1年前の大津波について その現象を解剖してもう一度まとめようと考えた。 津波を解剖する 津波現象を考えれば、地球の熱的本質に思いが及ぶ。それが『マグマ(地球の中心にある核の意味で使っていた。以下同様に核の意味)』であり、地球の心臓部に当たる生命の源を考えざるを得ない。その意味で記事の内容を見直した。

(6月29日)追加記事。マグマが生命の基であり、地球の支配者である。今日本が抱えている未来への転換問題がある。それは『原子力発電』である。日本は自然の脅威と恩恵を受けた平衡の上に生きる島である。この地球のすべてを決めるのは人間ではない。奥深くに潜むマグマである。日本列島がどの様に生まれ、変遷してきたかも分からない。しかし、火山活動と地殻変動の繰り返しの上に出来ている。先日『小笠原島の世界遺産登録』と言う報告が有った。その島が海底火山によってできた事を知った。如何にも湾にもその噴火口の面影が見えて、マグマの関わりに思いをはせた。30年も前になるのか、『雲仙普賢岳』の噴火と溶岩流災害が有った。昭和18年には北海道に『昭和新山』が平野に突然噴火で生れた。今も赤い溶岩から蒸気が吹き出す様子をテレビが写していた。同じくテレビ映像で、最近よく見るのが『佐渡の尖閣湾』である。佐渡ヶ島は新潟から見える有名な『佐渡おけさ』の島である。佐渡がどの様に出来たかは知らない。しかしあの尖閣湾の地形を見ていると、小笠原の湾と結びつくのである。佐渡ヶ島も、やはり海底噴火活動で出来た島でないかと考えたくなる。まさか、本州と繋がっていた等とは?そうとしたらとても恐ろしい事を考えざるを得なくなる。『親不知』の断崖が佐渡との繋がりを分断する陥没地震の結果だ等と言う事は考えたくない。日本列島の海岸線の美しさは、豊富にその絶景を展開してくれている。それはすべてマグマの脅威の活動とその恩恵であると解釈しなければならない。何も人間が喜ぶ為にマグマが活動している訳ではない。その地球の生命の活動が人の生活に災害として襲い来るように人間が解釈しているだけなのである。今回人間の『科学技術力による恩恵』として無意識に慣れ親しんできた、原子力発電のエネルギー消費行動がマグマの支配による日常・地球活動で、思いも掛けない事態に見舞われてしまった。複雑な海岸線に囲まれた日本列島での原子力発電は決して許される未来像ではない。どんなに安全性を強調する防御設備を備えたとしても、それは原子力と言う『魔物』のパンドラに人が縛られた結果の、甘い欲望に惹かれる事であるとだけは誰もが覚悟して進む「人間破滅の道程」である。地球の生命活動と人間の欲望の技術過信行為との、未来短縮危険平衡世界である。それを世界中が欲しいと望む世界なのか。日本の政治が問われている。経済産業(欲望)省の言いなりは許されない。

(5月29日) 記事。光の相対速度の話は途中であるが、少し視点の異なる地球の不思議に思いをはせたい。それは地球の中心部に在ると言う『マグマ』の事である。太陽は太陽系の中心に在り、熱エネルギーを放射している。学説に拠れば、水素ガスの『核融合』に拠りヘリュウムへの変換で熱エネルギーを発生していると言う。質量とエネルギーの等価則-E=mc^2-や地震津波現象を考えると、「地球の運動と生命」に思いが行く。光や熱のエネルギーが地球の自然の生命を育んである。エネルギーは何かが熱や光エネルギーに変換されるから発生するのである。太陽の核融合理論や学説をどう自分の認識に結びつければ良いかは全く不明だ。核融合が、徐々に継続的に長く続く訳は何かと思えば、不思議てならない。ただせめて、この地球の中心の『マグマ』についてはある程度自分なりの解釈を出来ないかと思った。昔は、地磁気の発生原因にマグマの電磁エネルギー流、電流だという説も有ったようだが、そんな『電流説』は地磁気と関係ない。ただ暗黒の超高温・超高圧のエネルギー流体が存在する事は間違いなかろう。大変気がかりな事がある。『マグマ』と『地震』の関係を切り離すことは出来ないだろうと思う。地球中心部に、光放射の空間の余地が有れば、どんな眩しさかとは思うが、密閉空間なら熱エネルギーが籠った超高圧・高温の暗黒であろう。その熱エネルギーは常に地球の表面を通して、放射されている。火山活動や蒸気・温泉はそのひとつである。熱を維持するにはエネルギー保存則の大前提は守られよう。高温・高圧がダイヤモンドや様々な宝石を作りだす。初めから宝石が有る訳ではなく、何かが変換されて産まれたものである。みんなマグマが関わっている筈である。エネルギーに変換するには地球は「地殻変動」でエネルギー源を取り込まなければ熱源を保てない。化石燃料の石炭・石油もその地殻変動とマグマの影響によると考えられよう。等と暇に考えてみた。

『熱』に関する記事を書いた。 『温度とは何か』が問うもの  原子力発電の熱の行方   放射能と発熱の正体はなにか?  等も熱エネルギー・光エネルギーを単位ジュール[J]から統一的に見たいと思う事から書いたものである。

光の速度と空間特性

(2021/09/12)追記。とても気になることがある。この記事も幾つかのファイルが削除されてしまった。光の空間伝播特性を確認したのは、1991年1月の湾岸戦争の砲撃の様子をテレビで見ている頃の事である。場所は新潟県立小出病院の閉鎖病棟のベットの上である。前年の12月、突然新潟県立悠久荘の精神科医が自宅に来て、強制収容された。抵抗で、断食に入る。覚えているのは小水が黒くなって、意識不明で倒れた。やむなく転院となったようだ。意識が回復したのは年末であった。

閉鎖病棟での解析は、統合失調症の研究ではお役に立てないのだろうか。1カ月で断食に因る結果か、頭脳の利きが良く不思議に短時日で纏められた。

新潟県の抹殺行政の処理の結果を含んでいると思えてしまう。

(2020/06/09) 追記。この記事は分かり難いかと思い、改めて光の相対速度と空間 (2020/06/08) に書き換えた。

光その不思議な世界 求め続けた道。

(3)  二つの運動体間の光伝播特性 ー基本例題ー

(1)で、光規定空間という絶対空間を定義して、世界を支配する王者が『光』であるとの認識に拠り、『光相対速度』を定義した。その光規定空間での光速度とはどんな特性を演じるかを理解する必要がある。アインシュタインの『特殊相対性理論』とは全く異なる点は、極めて常識的な日常の感覚で理解出来ると言う点である。そこで基本的な光伝播特性を理解するための簡単な例題を挙げて解説してみようと考えた。二つの運動体が光規定空間の一本の直線上を運動する場合を取り上げる。その概要図を示す。

宇宙空間の直線状の運動を空想すれば良い。あくまでも地球上の空間では、地球がすでに運動しているのでここで考える直線状運動は考えられない。それが上の概要図である。ここで動作式を記すには変数などの添え字が多くて無理である。別のファイルからの挿入形式としたい。これからその準備に掛かかるのでしばらく猶予を願う。(6月13日) この項に取り掛かる前に『相対速度とは?』を準備として追加した。ようやく基本例題の問題が出来た。

(2) 本解析法の基本は「単位ベクトル」に拠る。その事を空間ベクトル解析と単位ベクトルとして纏めた。 (2011年6月10日)。

(1)  『特殊相対性理論』に疑念を抱いて、『光規定空間』に拠る『光相対速度』を提唱した。その基本的考え方を以下に纏めた。(2011年5月22日)

『光』それは世界を支配する王者。その科学的認識が20世紀に大きな影響を及ぼしてきた。その顕著な世界が『特殊相対性理論』である。今はその理論が誤りであると確信できた。もうすでに10年以上経過した。「自由空間における光の伝播特性と周波数」(1998.10.5) 「光伝播時間算定のための瞬時空間ベクトル解析」(1999.) 「2軸回転系の光伝播特性」(2000.9.25) の3報を日本物理学会講演概要集に記す。ここにその過去の記述を纏めておきたい。ファイルの挿入と言う形式で記したい。『光の相対速度』を算定式に纏めた奇遇の時を経た結果でもある。『光の相対速度』とは? それは光源から放射された光が「光速度一定」で伝播する『伝播空間座標』とその光を観測する『観測者』の運動との関係で変化するのである。  上で、速度と空間の考え方を説明した。

 光規定空間座標 光の世界を論じようとすると、どうしても遠い宇宙論に話が及ぶ。光は直進すると言う意味を運動する地球上で観測する場合にどう解釈するかをはっきりさせておかなければならない。宇宙全体の空間と時間(人間の認識上で規定したー時空概念ーでしかない)を決定するのが『光』であると言う解釈での『光規定空間』と呼ぶ。

光規定空間座標と光の相対速度 光が伝播する空間特性を捉えようとすれば、ある程度数式で解析しなければならない。

写真086その空間での光の伝播特性のベクトル解析法を説明した。光が光源S(t)から放射された後、光源に観測者が居るとして、その光が観測者に対してどのような相対速度で伝播するかという問題である。特別難しい数式でなく、せいぜい三角関数で解ける問題であろう。(訂正)(1)式のnc_c_t=cn_c_t=が正しいので訂正します。訂正ファイルを入れ変えた。

光の相対速度の特性 上に求めた『光の相対速度』の式(3)を少しグラフ上に描き表してみようと思う。

写真087

(2015/10/5)追記。上の続きが載せてなかったのに今日気付いた。二つの運動体間の光伝播時間のベクトル解析結果である。この内容は日本物理学会講演概要集 第54巻第1号第1分冊p.77 (1999) に在る。講演発表は欠席。

光伝播時間光伝播時間

伝播時間(2)伝播時間(2)

光規定空間座標を仮定して、その空間座標上での光伝播と観測に関わる伝達時間がすべて光と観測者との運動の相対性によって決まるという論である。特殊性と言う意味は否定し、空気伝播の音声の相対性論と変わりない事を論じた。ただ、光規定空間座標を我々観測者が認識することは不可能である。我々自身が光の光速度一定で伝播するその空間に対して、どのような速度で運動しているかを実際に知る事は出来ないから。例えば太陽のその空間に対する速度も知る事は出来ないから。しかし地球上の光観測においては、光放射源と観測者間の相対運動に因っても観測波長や伝播時間は変化する。なお、地球の運動速度により、観測波長は変わらなくても、伝播時間は変わる可能性がある。

日本雨蛙

(追記 8月13日) 酷暑を避けた雨蛙の住み家。避暑なのか?1メートル程の高さの台に、植木鉢が有る。その鉢の中に毎日、数匹の雨蛙が鉢樹の根元に群がって居る。花海棠と紅紫檀の植木鉢。この花海棠の根元に、5匹映っていると思う。少し色が黒い雨蛙が1ッ匹混じっている。こんなに毎朝同じように群がっているのは、今年が初めてである。やはり酷暑に耐えられない為であろうと思う。朝晩水遣りをして、居るので土がひんやりしているからであろう。この小さな庭にも、現在10数匹の雨蛙がいる。今年夏生まれ立てのものも多い。こんな姿は愛らしい。

(追記 7月17日) 『モリアオガエル』 似て非なるものにモリアオガエルを日本雨蛙に対して挙げたい。前から気になっていたが、日本雨蛙は水が嫌いで、水の無い樹上生活がその日常性である。行動は夜行性であるから、日中は動かず木の葉の上で過ごす。その雨蛙によく似たカエルがモリアオガエルである。モリアオガエルは特殊な生態を示す。池の上の樹木の葉で交尾行動をして、産卵・受精し、オタマジャクシになって池に落ち、その水中で成長する。色も雨蛙と似ている。しかし、おそらくモリアオガエルには雨蛙のような環境に対する保護色の変身術は無いだろう。その色合いと似て、オタマジャクシの生態を摂る顕著な特徴から、日本雨蛙も『オタマジャクシ』の生態を摂ると誤解されて来たものと思う。 「モリアオガエル」と『日本雨蛙』の決定的違いは手足の指の間の『水掻き』が有るか無いかの違いである。雨蛙が水が嫌いで、雨が降ると雨水の当たらない場所に移動する事から、水掻きの無い特別の「蛙」である事が分かる。

『日本雨蛙』について検索すると、ウイキペヂア初め多くの記事が出て来る。私は、小さな2,3坪の庭の中の世界を見続けて、その雨蛙にこよなく惚れ込んで来た。最初のまさかという驚きが不思議な世界を教えてくれた。日本雨蛙は、決して『オタマジャクシの生態はとらない』と言う事は検索の中には出ていない。それは、雨蛙を英語でもtree frog と呼び、木のカエルと言う意味で捉えられている。雨のカエルと言うのは、雨が降って土が柔らかくなると土の中から新生の雨蛙が生れ出て来るから、雨の文字が付いたのである。昨年、一匹の雨蛙を観察したのでその記事を纏めておきたい。

雨蛙の生態と誕生。ここには雨蛙の土の中での白い幼虫の状況を報告している。この白い幼虫との遭遇と、その観察が後に雨蛙の生態を理解する決定的記憶になった。(2013/07/22) この記事の写真の一部をここに載せる。2006年6月27日am10時過ぎに撮った写真である。前日に大雨が降った。そこで、新生雨蛙の誕生を予測して出かけた。田んぼの畦と側溝で、探して撮った。的中して、まとまって居る雨蛙を見つけられた。二枚続きの写真。右の写真には十六匹ほど居るかと思う。新生雨蛙06年

目の前の小さな庭、そこには全く水が無い。新しい雨蛙の交配も交流がほとんどない。コンクリートの舗装道路で固められてしまった。人間の為に、自然の生きものの生命が失われてゆく。それでも何匹かの雨蛙が現れる。「雨蛙が間違っても田んぼの中でオタマジャクシから成長するなどと考えて欲しくない」決して雨蛙は、オタマジャクシから成長したような『尻尾は見せません』

(2013/02/06)追記。最近の記事を上げておく。雨蛙と幼生生殖 雨蛙の耳? 雨蛙の変態化?

地球の自転と万有引力を考える

(7月4日追記) 科学は高等数学で記述される。しかし、自然は本当は人に易しく語りかけて来るものと思う。難しい自然法則を掲げられると、それだけで尻込みしたくなる。そんな法則など余り当てにならないと思うようになった。だから「万有引力」などと言う物理学大法則を取り上げて疑問をぶつけたのが下の5月の記事である。今回追記しようと考えた訳は、最近の地球上における、気象異常現象とその多発が気掛かりになったからである。日本の夏の気温が猛暑続きである事は誰も体感している。(2018/11/29)追記。以下の偏西風は間違った解釈であった。地球の自転は貿易風が相対的な気体との関係を生み、その関連から偏西風の方向が生じると考えるべきであろう。それは地球の自転が何によって引き起こされているかとの関わりで考える必要があろう。その訳は物理学で答えられないのであろう。以下#・・#間の考えは間違いであった。#地球の回転速度より早く、大気が吹き回っているのである。地球が自転してその影響で偏西風が起きる訳ではないのである。#当然中国の上空の温度上昇が西風として日本に流れて来るのである。中国のエネルギー消費の増加に連動して日本の気温上昇が起こるのは当然の帰結である。二酸化炭素がどうのこうのでなく。要するに『エネルギー消費量の増大』が人間の生存環境に大きく影響を与えているのである。暑さを避けるには、貧乏人も、お金持ちもみんなが平等に生きる生活環境を分かち合わなければならない事に気付くべきである。クーラーで暑さをしのぐ経済成長路線が人間の生活環境を悪化加速しているのである。確かに、太陽光発電は二酸化炭素の発生抑制には成る。シリコン原材料の採掘から太陽光発電パネル製品製造過程のエネルギー消費量が発熱の気候環境に及ぼす分を差し引いての話である。原子力や、火力発電のように海水温を上昇させる訳ではないが、森林などの熱吸収効果と比較すれば、とても大きなエネルギー消費による気温上昇の原因には成るのである。『原子力発電の熱の行方』 。気温上昇だけでなく、風水害、森林火災の多発現象は人間の経済成長路線の負の産物である事を認識したうえで、未来の生き方を決めなければならない。二酸化炭素ガスの地球空気層の蓄熱作用は大きいだろうが、海水の温度調節機能は計り知れない大きさである。その海水温度上昇は永久凍土・氷河を融かし、海水の蒸発現象を促進し、大洪水の引き金になっていると解釈する。地球はグローバル化して狭い活動範囲になってしまった。世界中の人がどの様な未来の生活を望むかを、みんなで自然科学・自然の意味を理解して決めて行かなければならない時代に肥大し過ぎてしまったのである。地球環境は、極めて微妙な平衡状態に浮遊する対象であろう。地球が太陽系の中に浮遊する星であれば、多くの打ち上げられた衛星の宇宙ゴミもエネルギーバランスに必ず影響している事を認識しなければならない。また、嫌われるような話になった。

(5月19日記事)アイザックニュートン(1642-1727)が唱えた「万有引力」が宇宙や地球の運動を考える基に成っている。アインシュタインが唱えた『特殊相対性理論』、その発展上の『一般相対性理論』が現代物理学の宇宙論の拠り所と成っているようだ。しかし、それらの相対性理論は私から見れば、間違った理論と言わざるを得ない。何も難しい高等数学の数式が宇宙の真理を説き明かすものでないと確信している。現在『重力波』などが華やかに研究されているが、私には全く意味を成さないものである。そんな難しい事よりもっと身近に大きな疑問が山のように転がっている。宇宙空間が歪むなどと言う前に、何故地球が自転するのか?何故太陽を中心に惑星が同一方向の回転をするのか?上空の偏西風は何故西から地球の回転より早く回るのか?地球を回しているのは何か?等と詰まらぬ日常観測の疑問も『物理学理論』で簡単に説明できなければ、高尚な宇宙理論方程式にどんな意味が有ると言うのだろうかと異議を唱えたくなるのである。『詩心・・』70号「地動説」ってどんな意味?(2000年7月22日)ですでに疑問を吐き出しているが、今でも納得できないでいる。月と太陽と地球の運動はどのように理解したら良いのだろう。などと考えてみた。と冒頭にあり、終わりに『この地球の速度を知りたい。太陽の運動速度が解らない限り、自分の足元に不安が付きまとう』とある。先日ツイッターで「マイケルソン・モーリー」の地球の運動と光との相対速度の検出実験(1887年頃で、明治20年に対応する)の問題について触れた。その実験の検出失敗をアインシュタインが早とちりして、光の速度に関しては、日常生活で経験する様な二つの物体の運動に伴う、その相対性は観測上に現れないと言う解釈の基で、光だけは特殊な自然現象と看做さなければならないと言う事を踏まえて、『特殊相対性理論』と言うものを唱えた。ミンコフスキーの光空間とか、とても普通の感覚で捉えられない世界を構築したと言わなければならない。その学説の延長上に現在の宇宙論が有ると言ってよかろう。身近な疑問を挙げれば、地球と太陽が運動していると考えるなら、その運動の基準空間をどう認識するかと言う大問題になる。その基準空間を私は「光規定空間」と解釈する。空間は歪んでもいないし、どんな学説にも左右されず、ただそこに在るだけの全方位均等空間である。宇宙の果てがどの様であろうと地球上からの想像の域を超えることはできない世界と覚悟している。だから『光』が空間をユウクリッド幾何学の直線的に伝播する事によって決定する『光規定空間』が全宇宙に展開しているだけである。広大な空間に様々な形状で、渦巻状や回転体群の星座・星雲が個々別々の軸性を持って、エネルギーの集合局所化としての質量の集合群が生成・消滅の繰り返しとして宇宙世界を形作っているだけである。その空間を支配しているのが、物質の極限状態のエネルギー即ち『光』である。地球が運動していると言うなら、その地球の運動速度を規定する基準空間座標が確定できなければ成らない筈である。それは同時に太陽の運動方向とその瞬時速度を確定できなければならない事をも意味する。こんな至極子供じみた疑問が科学の宇宙論の基本問答として提起され、回答が求められて良いであろうと考える。

レーマー(デンマークの天文学者、1644.9.25-1710.9.19)の木星の衛星観測による『光速度算定』 木星の衛星の回転周期を観測して、地球が木星に近づく場合と離れる場合との間で、衛星の周期に違いが有る事に気付いた。その訳を地球の運動と木星からの光の速度との『相対速度』に原因が有ると解釈したのだろう。1675年に木星と地球との相対運動に基づく『光の相対速度』を算定したのである。現在光の速度は毎秒30万キロメートルと考えられているが、レーマーは光の速度を観測により、毎秒22万キロメートルと算定したようである。少し値が違うが、当時すでに地球と木星の相対運動を基に、光の相対速度と言う基本認識から算定していたのである。その実験内容の意味は「マイケルソン・モーリーの実験』で求めようとした、地球と光の相対速度検出実験と何ら違わないのである。マイケルソン・モーリーとレーマーの実験結果の違いは二つのミラー間の光の伝播経路の僅かな差に求めた事と木星と地球の相対運動の接近と離遠の大きな差に求めた事との違いが失敗と成功のカギを握る1つの要因となっただけであると言える。以上の事柄から、どう考えてもやはり地球の運動をどのような物だと確定する根拠を明確に示せない。光規定空間座標上に地球の運動状態を定義できないのが残念である。真空空間での光の速度が定義されているのだから、様々な星座や星の地球との相対速度が観測上で確定できれば、光に基づいた地球の運動を確定できるかもしれない。

万有引力とはどのような意味か? 太陽系が身近な天体である。その天体の運行で、何故同じ方向に回転するのかがとても理解できない事である。万有引力で説明しようとしても、太陽への引力と遠心力との釣り合いと言うが、質量も作用点も明確でない事や、公転・自転が万有引力の原理が原因で決まるなどという理屈は成り立たない事等から、総合して考えると万有引力の法則としての意義が信じられないのである。ニュートンは微分積分学を打ち立てた偉人でもある。「ニュートンの万有引力則の矛盾」(2004年3月の日本物理学会講演概要集第59巻第1号第2分冊 p.315) で作用点の矛盾を指摘した(旅費が無く発表に参加せず)。それは距離の逆二乗則の距離積分の数学的論理問題の提起でもある。重力定数6.672×10^-11^[㎥/kg・s]はどのように算定して、どう言う意味かは解らない。地球の自転公転で、2000年は4年毎の閏年でありながら、100年に一度は閏年にしない原則に当たる年であるのに、更に特別の事情により閏年の366日となるという珍しい2000年問題の話題になった年でもあったようだ。一年が365日としての自転公転周期に閏年も含めると、地球の一年間の回転数は366と4分の1回転となる。1回余分に回転数が加算される。等と愚かしい事を考える。ついでに誰もが不思議に思うだろうが、何故月は地球に同じ面しか見せないのだろう?万有引力からは説明できない。月は、太陽に対してどんな軌跡を描いているのだろうか?それは万有引力から説明できるだろうか?地球の太陽系における空間エネルギー分布および火星、金星、木星等々の全体の空間エネルギー分布が太陽系の意味を認識するに重要と思うが、それらはどう計算すれば良いのだろうか?等と疑問の山に満ちている地球の周りに、足元に。

計量単位から科学診断

最近『科学リテラシー』と言う言葉が目に付く。リテラシーはLiteracyで、ある分野の活用能力とか識字力とかの意味のようだ。科学技術に取り囲まれ、その支配に踊らされているような日常生活が現代人の姿である。朝起きて、蛇口をひねれば水やお湯が出る、洗濯機が自動的に衣類を洗ってくれる。幾らでも着替えて、水と電気を使っても、当たり前で『勿体ない精神』等生まれな。洗濯板の上で固形石鹸を擦りつけて手指の皮がむける程ごしごしと衣類を洗濯する事など知らない世代の時代に成ってしまった。どんなに一日の時間を上手く使うかが毎日の生きる術であった。今自然の姿が人から見れば、許せない程の過酷さをむき出しに襲いかかって来た。人が自然を征服して、豊かで平穏でしかも楽な生き方を求めても、それは自然の真の姿の棚心の上での一瞬の姿でしかない。しかもその自然を憎んでもその自然の中でしか生きられないのである。この度、福島第1原子力発電所が震災により崩壊した。この災害は簡単に壊れたからゴミとして廃棄し、次の手を打てない事にその科学技術の現代的恐怖がある事を、皆が認識した事であり、科学技術の大事件であると言える。科学技術の大事件と言う意味には、科学と言う本質が如何に怪しい専門家の業界支配下に進められてきたかを明らかにする転機になったと言う意味を含んでいるのである。それはいろいろの科学技術に使われる『計量単位』にその怪しさの本質が隠されていると言うことである。私は物理学の持つ深い意味を探ろうとする時、ただ一つその計測単位がどのような意味を持っているかから検討に入る。今回の原子力事故で盛んに使われる単位に、放射能におけるシーベルトとベクレルが有る。そんな単位を誰も使った事も無いし、聞いた事も無い。専門業界の業界用語と言っても良かろう。今何故このような記事を書くかと言えば、ある新聞に放射能に関する特集の科学記事が有った。そのkey解説記事を見てとても気掛かりになった。科学ジャーナリズムにさえ、科学リテラシーの欠如を見せられたからである。英語に弱いから、手元にTHE OXFORDO DICTIONARY FOR SCIENTIFIC WRITERS AND EDITORS と言う辞書が有る。さすがに科学技術の先進国と思うが、日本にはこのような一般向けの科学辞書が無いのかと残念である。そのp.383に特殊名のDerived SI単位として纏めて出ている。 1 Sv(シーベルト)=1 Jkg^-1^(放射性元素を含んだ被計測物質、空気とか、食品など1kg当たり何ジュールのエネルギー放射量を放出するか)、1 Bq(ベクレル)=1 s^-1^(毎秒当たり何回放射崩壊-event-するか)。等の単位が載っている。ただし( )内は私の注釈である。新聞記事で、シーベルトは放射線を浴びた時の人体への影響を表す単位。は良い。ベクレルの説明に戸惑った。原子核崩壊が1秒間に1個起きるのが、1ベクレル。その次に「お金なら硬貨の枚数がベクレルで合計金額がシーベルトに相当する。放射性物質を含む食品を食べたときの云々・・と体内被曝とシーベルトの関係が解説されている。確かに、この二つの単位の関係は専門家の解説がそのようにされているのだと思う。専門家の単位の認識が曖昧でいわゆる『業界単位』に成っているのである。シーベルトとベクレルの単位を比較してみれば、[J/kg]と[回/s]をどのように変換しようとしても、単位の次元が異なるから同じ土俵に乗せられるものではない。しかも放射性物質が衣類などに付着した場合も、体外被曝となる訳で、外から影響を人体細胞が受ける。東電原発での作業従事者の被爆事件が大々的に報じられたが、あれも外部の放射性物質からの放射線被爆が主原因であろう。単位は係数を掛けても次元は変わらないと言う基本原則を認識しない記事は科学リテラシーの問題として取り上げなければならない。物理学の単位でも真空中の空間を真空誘電率ε[F/m]や真空透磁率μ[H/m]等で捉えているが、その意味も宇宙論や素粒子論の専門家は無頓着であるようだ。それは空間を伝播する光のエネルギーの実像を規定する重要な定数である。改めて、物理量や科学技術に使われる計測単位には、その意味を矛盾なく捉える事に拠り、科学の本質を正しく認識出来ると言う視点の鏡が隠されていると伝えたい。

日本カナヘビと竜のひげ

(2011年9月26日追記) 先日、カナヘビの新しい生態・性格(?)に触れたので、記録しておく。盆栽の紅紫檀がお気に入りだ。少し木が夏の日照りで弱まっていたので、他の日陰に移動した。日本カナヘビが枝に居たが、その鉢を動かせば飛んで逃げるだろうと、無視して運んだ。ところが全然気にする様子も無く、じっと動かないで、そのまま平然とこちらを見ている。折角だから、一枚写真に収めた。この写真はGoogle検索では赤ちゃんと間違って表示される。手が無ければ、ニシキヘビの様にも見える。この庭は、管理が悪く雑草や自然の生態を成り行き任せにしてあるので、日本カナヘビが棲みついているのだろうと思う。ずぼらな自分の性格と、自然のままに放置しておきたい気持で、他の人からはだらしなく見えるようだ。小言を言われて、止むを得ず昨日は草取りと、増えた「竜のひげ」を抜き取ってしまった。来年は何処に卵を産むか、あるいは繁殖不能になるか心配でもある。ただ雨蛙や、日本カナヘビが生息できるには、その動物性の食料が維持されなければ、生存は無理である。この庭には、秋の虫の鳴き声が余りしないのは、捕食されてしまうからだろうと思う。人間に管理された、綺麗に見える庭は他の生物にはとても住み難い世界の筈だ。生物多様性と人間の生存環境の問題は、原発廃炉の後処理の困難さと同じく、人間の欲望と生態系全体への意識転換とは、とても世間の経済成長意識との絡みで、本当に難しい現代的命題と思う。こんな狭い庭から世界を論じてはいけないだろうか?

(8月6日追記) 日本カナヘビ赤ちゃん誕生 今赤ちゃんが生まれるのですね。偶然に見かける一瞬の自然。

(8月3日追記)カナヘビの脱皮。当たり前の事かも知れない。カナヘビと言うのだから、生態は蛇と同じ面が多いのだろう。昨日偶然に見かけたので、記録として残しておく。今の夏の時期に、衣替えをすることを知った。日本カナヘビの右の前足の付け根に白い抜け皮を付けているのを見た。数日前に、棘のあるピラカンサの枝やサボテンにまつわる様な様子を見た。それがこの成長に伴う脱皮の為であったのかも知れない。

庭に『日本カナヘビ』が棲みついている。寿命はそんなに長くはないと思う。毎年小さな子供が生まれる。殆ど外部との交流が無いように思う。だから親近交配で生命を繋いでいるようだ。殆どは地面に居るが、結構樹上を巧く住み場所として、素早く動き回る。蛇と同じように。昨日二匹が絡み合っているのを写真に収めた。以前からシャッターチャンスに恵まれないかと思っていた。前に絡み合っているところを目撃したが、一瞬で離れてしまった。だから写真を撮る機会はないと諦めていた。ところが昨日見かけて、ハッとした。傍を通るのに動かない。カメラを持ち出して何枚かを撮った。交尾の写真と思う。事を終わって去って行く。

 

 

 

 

 

 

標題に「竜のひげ」が入っている。爬虫類だから、産卵をするのだろう。2006年6月17日a.m.9:00晴。の記録で撮った写真が有る。盆栽の植え替えをしようと、鉢から竜のひげを取り外したら、その根元に5個の卵が産み付けられていた。その内の3個を映した。長径が1センチほどである。雨蛙と言い、日本カナヘビと言え結構小さな坪庭の中が、不思議な生き物の世界を見せてくれる宇宙と思う。

日本カナヘビは灌木の上に時どき居る。紅紫檀の盆栽で。雨蛙は中々焦点を合わせられない。デジタルカメラの赤外線自動焦点信号を攪乱する。ついでに同じ盆栽の鉢上の2年児らしき雨蛙の忍者振りを参考に。カナヘビは殆ど問題ない。「雨蛙ー出猩々に忍術ー

追記(2013/6/21) 今年は春から時どき日本カナヘビをこの庭で見かける。先日は、番いで互いに相手を気にしている様子の素振りを見かけた。竜のヒゲも少し残っていて、環境は保存されているようだ。しかしまだ以前のように、自分への信頼関係は無く、安心し切ったあからさまな生態は見せてくれない。

(2013/07/24) 夕方青紫蘇の葉を摘もうと、庭に出た。足元に生まれたばかりと思うカナヘビの赤ちゃん。IMG_0800

 

雨蛙ー出猩々に忍術ー

(2017/04/19)追記。雨蛙の忍術の以下の話は間違いかと反省している。

今年も日本雨蛙を追いかけることになるかもしれない。数日前から目に入っていたが、今日はもみじ『出猩々』に見つけた。昨年購入したデジタルカメラ(Canon IXY220IS)は雨蛙を取る事が目的でもあった。しかし、雨蛙の保護色に手を焼いた。AUTOモードで、シャッター半押しで焦点が合う筈なのに、雨蛙は何故かデジタルカメラの射程計測信号を攪乱する様で、近接撮影が上手く行かない。雨蛙に嫌われた為かも知れないが、巧く近接撮影ができない。きっと腕の差か、技術不足として、今年も雨蛙を追いかけて見ようと覚悟。腕の為か、雨蛙の忍法に負けた為かピントボケの写真。少し離れて枝に止まる雨蛙。この庭には水が無いが、雨蛙が生れ出るのである。決してオタマジャクシの生態はとらずに、庭の土の中から生れ出るのである。土が雨で軟らかくなった頃に生れ出るのである。この写真の雨蛙は大人の雨蛙である。出猩々と雨蛙の忍術写真を今年の第一報とする。

(2017/04/19)追記。ずっと気掛かりであったが、この忍術は私の間違いであったかもしれない。写真の焦点ボケであったかも知れないと、・・。

『温度とは何か』が問うもの

温度とは何か この標題で今年(平成23年春  2011年 )の物理学会で発表する予定であった。温度は物理学のあらゆる研究の条件となる重要な環境指標である。しかし『温度』と言う物理学的概念は中々捉えようのない不確かな概念でもあると思う。そこで私なりの解釈を学会の場で問題提起をしようと投稿した(日本物理学会講演概要集第66巻第1号第2分冊、p.443)。ところが今年は、日本物理学会第66年次大会(新潟大学キャンパス)が東日本大震災の影響下で中止となった。一応発表に使う資料を準備した。そこでその内容の一部をここに報告する事にする。『温度とは何か』は熱現象に関わり、その本質は的確に捉えられていないと思う。物理学理論、教科書的理論はとても納得できるものでないと言わなければならない。熱に関わる事に踏み込むと、収拾が付かなくなる程、言はば魔の領域でもあると聞いていた。温度は熱エネルギーと密接にかかわり、古くは産業革命の原動力となった蒸気機関の発明からの『熱理論』の研究対象となってきた。工業製品の自動車エンジン、クーラーの熱交換機、原子力発電所の原子炉と蒸気タービン等あらゆる現代科学技術の隅々に主動力源として応用されている。ならばその理論は完ぺきであると解釈するのが当たり前と思われよう。例えば水の蒸気機関では『蒸気線図と熱サイクル』として完璧な技術理論が完成されている。蒸気の圧力p[kg/㎠]と比体積v[㎥/kg]および温度T[℃]並びにエンタルピーi[kcal/kg]やエントロピーs[kcal/kg K]の関係で、その水蒸気の詳細な状態量を評価している(しかし、これらの概念量の単位はMKSに統一されていない上に、温度も摂氏温度[℃]と絶対温度[K]が混合している点は注意)。理論は兎も角として、この熱力学応用技術は完全に確立されていると見て良かろう。それでも『温度とは何か』と問わなければならない事がある。私が指摘したい事は『物理学理論』として大学などの教育現場で行われている『熱理論』の授業内容が無用に思える。今回の学会講演概要集にも計らずも(?)私と同じ標題の論文が載っているが、その内容は解釈・理屈が私のものと正反対である。

温度を何が決めるか 特に気体の温度は何が決めるかと言う『問答』である。それを右の図面で考えてみようと思う。先ず温度とは物理量かの問いである。教科書的熱力学は温度が基にあって、その時の気体分子をどのように解釈すれば良いかの論議に成っている。その逆で、『温度を決めるのは何か?』が重要な視点であろう。図には3つの温度が示されている。室温と言う気体の温度T[K]、温度計の指示値T_th_[K]および白熱電球のフィラメント温度T_f_[K]の3つである。温度計を電球の放射光から遮蔽すれば、室内の気体の定常温度Tを指示する筈である。室温は電球の放射光と気象条件などの外部条件の基に平衡温度に落ち着く。しかし電球の光が温度計に照射されれば、その温度計の指示値は室温より上昇する。その時の温度計の指示値は決して気体分子の運動エネルギーにより決まるものではない筈だ。直接電灯からの放射光のエネルギーが温度計の液体に入射してそのエネルギーに基づく膨張が指示値となった筈である。逆に、温度計の指示値から気体分子運動エネルギーを計算することは出来ない筈である。気体(空気)の温度は温度計の指示値から読み取る訳であるが、その指示値は何が決めるのか。まさか、空気分子が振動して温度計のガラスに衝突し、その運動エネルギーの一部をガラスの振動エネルギーに変換し、更にガラスの振動がアルコールの液体の運動エネルギーに伝達し、アルコールの液体の運動エネルギーの増加で、アルコールが膨張すると説明する訳ではないと思う。分子の運動エネルギーが増加すると、分子の衝突の影響が強くなり、互いの分子間の反発力の増加で、分子間の離隔距離が広くなり、膨張したような広がりを生むと看做す解釈になっている。「分子運動論」の基本的認識はそのような解釈に基づいているのだろう。しかしその解釈は本末転倒した論理である。温度が与えられると、その温度によって、分子運動が決まると言う解釈が間違いである。即ち温度が気体の運動を決めるのではなく、気体分子に与えられるエネルギーの量により分子の状態が決まるのである。どのような状態を呈するかと言えば、気体、液体あるいは固体の運動では無く、ただ体積の膨張・収縮と言う状態の変化で現れるだけである。図で示した意味は、電灯からのエネルギーが直接温度計のアルコールに入射し、アルコールの体積膨張を来たす現象として説明したかったのである。ボルツマン定数k と絶対温度T から、気体のエネルギーを kT [J] とするがT は必ずしも気体の温度を示している訳で無いと解釈する。結局『温度とは何か』である。それは、気体であれば、気体分子が保有するエネルギー量が周辺の近接する気体分子、媒体の保有エネルギー量との関係に基づき、近接する物同士の間で、互いにエネルギー放射と吸収の平衡状態に落ち着くようにエネルギーが流れる自然現象である。『エネルギー』そのものが実在している事の認識ができるかどうかの問題でもある。光が訳の分からない何かが振動しているような曖昧な解釈が罷り通っている状態では理解が出来ないと思う。光も振動する物など何も無く、ただエネルギーが縦に、縦波として伝播しているのである。物理学熱理論では、気体の温度を「気体分子の運動エネルギー、振動エネルギーあるいは並進運動エネルギー」等の『運動の衝突・反発力』による膨張との解釈と観る。それは気体分子などの質量に付帯したエネルギーと言う意味では、『質量』が物理的拠り所となっている点が私の解釈と異なる。それなら、その運動エネルギーが如何程であれば、逆に気体の温度を幾らと規定するのかと、温度と気体分子運動との相互依存関係の有無について、回答を要求せざるを得ない。『温度とは何か』が問うものは「何が温度を決めるのか?」であり、『温度』その物の意味を問う事でもある。温度の値を決める原因は何かを明らかにすることが物理学理論の進むべき本筋である。蛇足かも知れないが、もう一度言う。決して、気体分子の運動エネルギー論が気体の温度を説き明かす解釈にはつながらない。温度の基は『エネルギー』そのものである。光、光量子等と言はれるもの、太陽光線はその代表的なもので、エネルギーそのものである。そのエネルギーが気体分子、温度計のアルコール液体、部屋の壁面、床面に吸収されて、それぞれに貯蔵されたその吸収エネルギーが平衡を保つように逆にエネルギー放射されるのである。気体分子や『モノ』に入射した『エネルギー』そのものにより、『モノ』が膨張するのであり、運動などしていない。近接体同士の間でのエネルギー量の平衡が保たれるようにエネルギーの流れが起きる。気体分子や『モノ』のエネルギー吸収・放射特性が同じ訳ではないから、エネルギー量とその膨張量は違う。それぞれの物質間で、エネルギーの吸収・放射を繰り返しながら、膨張が決まり、結果的にその平衡バランスで温度計の指示値が決まるのである。その指示値を室温と解釈しているのである。さて上の図には電球のフィラメント温度T_f_[K]が基に成って、光エネルギーが放射されるが、その放射量を決める法則が『ステファン(・ボルツマン)則』で、絶対温度の4乗に比例すると言う。この法則が正しいかどうかと言う疑問がある。ここで光・熱の放射法則に触れておこう。熱放射則としては先ずプランクの式を挙げなければならない。プランク則は特殊な黒体の放射則であるが、温度と放射光の基本関係を解釈する基に成っている。この二つの式だ、その単位をご覧いただきたい。式も複雑であるが、その単位が問題である。そんな空間を伝播する光のエネルギーを測定できる訳が無いのである。エネルギーの単位ジュール[J]のメートルmの4乗当たり等の空間概念が測定できる訳が無い。じゃステファン則の単位秒当たり、単位面積当たりの空間エネルギー流(電気ではポインティングベクトルと言う)を測定できるかと言う疑念である。この点については、『プランク定数』を疑うと言う標題で別に論じたい(まだ未投稿のままである)のでここでは踏み込まない。(2013/02/12)以下#までを 追記。熱輻射理論に関する考察および花が光か 光が花か で熱輻射理論への疑問を記した#。ステファン則等あらゆる熱力学理論の基本定数として欠かせないボルツマン定数k[J/K]が有る。それは1分子当たりの保有エネルギーと絶対温度の関係が物質に関わりなく一定であると言う意味を表したものである。その古い意味を含んだ法則に『ボイル・シャルルの法則』が有る。ボイル・シャルルの法則そのものの法則としての意味は重要と思う。しかしボルツマン定数との関係付が怪しいと見る。こんな定数が正しいと言えるのかと言う疑問である。気体定数R、アボガドロ定数Nと言うとても古くて偉大な定数が物理学・化学の科学論の大原則として、頑迷に蔓延っている。例えば、アボガドロ定数は1811年に提唱された仮説である。どんなガス分子も同一の体積には同一の分子数であると言う解釈である。ならば、ベンゼン核を含む芳香分子ガスも水素ガス分子も本当にそんな法則が成り立つと言えるだろうか。教科書的原理の殆どは誤った古典的解釈論の伝達法に成っていると思う。科学技術社会を構築して来たのは科学理論ではなく、経済成長と言う人の欲望が進めてきたと思う。結論として、「気体分子運動論」は不要で無意味な論である。最後に、発表一枚目の準備シート。

松の葉先に線香花火

何処まで行っても光の不思議の謎は解けない。不思議が重なれば、益々虜となってしまう。光で目覚め、夕闇で夢に紛れる。人も太陽と共に生体リズムを奏でている。この豊かな自然に彩られた地球星に生命の消滅を繰り返してきたのだろう。今人間が我物顔で振舞っているが、いつかは光のように一瞬の線香花火のように消えて行くのである。地球星の生命の華やぎとは裏腹に、太陽が燃え、地球が生きている意味はその絶えず変貌する渦の中に人も生きているのである。地球は生きるには、中心のマグマが燃え続けなければならない。地殻が中心まで燃焼の素を自身で供給し続けている筈である。日本列島は残念ながらその地殻変動の瀬戸際の島であろう。今回の震災もその地球の生きる活動の一環と観なければなるまい。人類の発祥がアフリカと学説では成っているようだ。世界には黄色系のアジア人から白色系、黒色系と様々な人種が生存している。私は『人類発祥アフリカ説』を簡単には信じられない。DNAで黒色系から白色系にどのような筋道で変化するかの説明がなしに、その学説は科学論として受け入れがたいのである。海から人類は生れただろうとは思うが、広大な地域の海から幾つもの道を辿って発祥したと解釈している。松の葉先に光の微かな色模様を見る。まるで線香花火のように一瞬の輝きを心に植え付ける。日本人や東洋人にはその心に『一瞬の儚さ』を慈しむ心情が有るように思う。禪や武士道はその東洋哲学の生活信条であったのだろうと解釈している。私の楽天性がいい加減な生き方にも成っている。松は針葉樹の代表であり、その風格は風雪に耐えた老躯に見事だ。下手な絵筆を気にもしないで恥ずかしげも無くと思う。部屋の小盆栽の松の葉先や風蘭の葉先に水滴が付く事がある。そこに朝日が当たるとその水滴に光の放射散乱が生れる。その微かな光の様相は丁度線香花火のように輝く。線香花火の光の放射状の輝線は火薬が燃焼しながら飛散するので、その軌跡から、光が放射されて人の目に届くのである。光の直線伝播の原理そのものの現象である。しかし、その線香花火に似た松葉の先端からの放射光が何故人の目に見えるかが私には不思議な事なのである。一体その光は、目の錯覚に拠る映像なのかどうかが分からないのである。光が放射状に飛散する様子が見えることの物理的な理屈が理解できないのである。光が直線状に伝播するなら、目に対して垂直に入射する光は見えて当たり前である。横方向に飛散する光が見えるには、その光が空中で飛散途中で分散しなければ、人の目に光が入る訳が無い。そんな極めて単純な疑問なのである。全く議論の余地にもならない、生活の足しにもならない愚問である。こんな詰まらない不思議を追いかける愚かさを感じながらの日常である。『詩心 乗せて・・』90号 色の世界に心を染めて に光の散乱模様を載せた。その様子が左図である。①は一筋の途中から光が分散して見えるのである。②は松葉と同様な、風蘭の先端の水玉の散乱光である。③は時計などのガラスの角に光が当たる時に生じる散乱模様である。これらの全ての散乱光は方向に拠り青から赤までの間の光の色調模様で変化する。これらの光の線は微かで、光量子との比較で何千個分に相当するのかなどと考えてみたくなる程の微かな光なのである。光は見えてもその本質が捉えにくいのは、光速度で伝播する瞬時値を計測できない困難さを永遠に持っているからであろう。この機会に、部屋に差し込む朝日の分散光が襖に描く光模様を示して置こう。丁度これらの光の色の放射分散光が放射状に、線香花火の如く空間に彩られるのである。何故そんな光が見えるかを、どなたか解説頂ければと願うのみである。上の最後の写真はガラスの飾り模型からの放射光が襖に描いた宇宙の如き星空模様を展開している。光の分散の原理はプリズムの解釈に示される筈であるが、物理学は答えられない。何故波長の違いが分散を生むかの説明が出来ないのである。光の空間的瞬時値が捉えられなければ困難である。そんな光の分散で、夏の日本の風物にホタルを重ねてみると、ホタルとプリズムが題材に浮かぶ。