金澤 喜平
禅思想は達磨禅師の生き様に代表されているように思う。中国の『老荘思想』および『古代インド哲学』、『釈迦』等にその思想の源流があると考えたい。人間の生き方、考え方の指針を求めて、人間の苦悩の根源が『欲望』に支配される事に在る。『無為、自然』や「色即是空 空即是色』等の東洋的哲学思想を、人間がその欲望から解き放たれるには、自然世界・人間を含めた科学的悟り以外は無いと言う求道の思想であろうと解釈する。科学的という言葉をどう言う意味と解釈するかは難しい事ではあるが。すべての『真理』を会得する事と言う意味位に考えるべきかと思う。『般若心経』(私はこの経典が日本的仏教の仏壇の先祖に関わるものでなく、現在の生身の人間の生き方を説いている、平和への表明論と解釈する。)の終わりに、『みんなが手を取り合って、世界の真理を学びあいましょう』と結ばれていると解釈する。それはやはり『科学』の分野と観ても良かろう。ただ、東洋的な考え方は、禅の『不立文字』と言う言葉があるように、突き詰めてゆくと言葉で表現する事が出来ないような領域に到達してしまうような傾向が強い。だから、科学的な追求が、『西洋科学』として構築された思想や考え方と異なる方向に行く必然性を持っているようにも思える。私が今思うことは、『物理学』と言う学問体系が西洋の積み重ねる思考方向であるのに対して、それと逆に『東洋科学』は概念を突き詰めてゆく事によって、無駄を剥ぎ取って行くから、結局何も無かったと気付く事を求めているのではないかと錯覚しそうな感じに囚われるかも知れない。しかし違うのである。だけれども、『現代物理学』を論じると、殆どの科学者は『西洋哲学的概念構築論者』で思考方法が出来ているから、それが『世界の科学論の手法』である為、『東洋哲学的科学論』とは中々折り合いがつかない状態になると思う。しかし、やはり科学論は、その論理に『論理的矛盾』があれば、正すのが「科学」の本道であろうと考える。それが『自然科学』と言う学問の世界であろうと思う。科学と哲学は、どうも相容れない範疇、対極的と思われ易い取り合わせであるが、あえて取り上げて『禅と自然科学』なる標題で論じた。有名な物理学者に私の『物理学論』は哲学か文学論で、科学者からは無視されるような意味の批判を受けた。それも定式化された解釈の科学者から見れば一面当然であろうとも思う。まだ深く認識出来ていない科学者にとって見ればやむを得ないだろうと思う。そんな事もあるから、猶のこと「科学論」は皆が手を取り合って考える、みんなの、市民の理解出来る場の論議でなければならないと思うので、数式なしに『科学論』が話題となるべきとの意味で記事にした。
(2013/03/21 追記) この記事を記して既に2年以上経った。科学論で、電気磁気学の論理に疑問を抱いて、25年以上経過した。『電荷』概念、『電流』否定が科学論との革命的挑戦への闇の世界に入る切っ掛けとなった。磁場がエネルギーの回転流との結論、磁界・磁気概念の本質 に到達した。昨年は水蒸気に関する解釈に迷い込み、自分でも驚く雷の正体 に辿り着いた。雷の原因が『電荷』に無関係である事に気付かされた。水蒸気の放出する熱エネルギーであると。雨蛙の生態についても、雨蛙と幼生生殖 でようやく安堵した。雨蛙ーその謎ー の文集を2006年に配布してから相当経過した。自然科学とは何かと考えると、専門的学術世界での視点だけでなく、市民的生活感覚からの視点の重要性が浮き彫りとなったと思う。(2013/05/05追記) エネルギー(energy)とは?および自然・科学・哲学にも関連して。