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眼球の光ファイバーと色覚

光の物理学的認識が問われている。光を周波数・振動数で認識することでは、その本質に迫れない。光一粒の認識が重要である。そのことは光の屈折現象の物理的解釈に関わる重要な基本点である。その光量子の空間像を 光とは何か?-光量子像ー に基本概念示した。

(2019/10/30)追記。記事の末尾にも追記した。どうしても、眼科の専門家の眼球機能の認識に納得できずに、先日書棚にあった、専門家の本を無意味として捨てた。光の屈折現象の物理的意味が正しく理解されていないと思った。媒体間の境界での特性差が屈折の特性を決めるのである。オットセイ、カバあるいはペンギンが何故水中でも空気中でも見えるか?人はゴーグルを付けなければ水中では見えない。その意味は眼球内のレンズ効果の理解に生かされなければならない。

さて、眼球に関する重要な指摘をしておきたい。医学的には、眼球の機能をカメラと同じように、網膜上に光学的な倒立像を結び、その像が視神経を通して脳に伝達されると解釈されている。眼科のお医者さんの多くの方がそのように解釈していると思われる。それはお医者さんの示す目の絵図にカメラの機能と同じ様子で示されているから。それは間違いと思う。眼球の中心眼軸には『光ファイバー』が貫通しているとみなすべきである。上の図は、参考文献Dispray Atras of Elementary Anatomy の日本語訳本(その原文はフランス語の Librarie Maroine SA Editeur. Paris 1980 であるらしい。 ) を見ての解釈である。(2019/05/19)追記。この文献には硝子体管の終端は網膜の視神経に繋がっている。しかし黄斑が視力の重要な部位を占めているようであることから、その点点模様が硝子体管の光ファイバーの終端模様と考えた。その文献には眼球の硝子体液の中心には硝子体管が示されている。その硝子体管を私は光ファイバーと解釈したのである。私はその光ファイバーが眼球の中心軸を貫通していると観る。カメラのようにレンズが空気中に在る様な構造で捉えて、水晶体のレンズで屈折した光が眼底の網膜上に反転像を結ぶと考えるのは間違いと解釈する。角膜に入射後の光は瞳孔、水晶体レンズを通過した後、平行光線として硝子体管と言う光ファイバー内を進行する。光の像は丁度『金太郎飴』の切断面のように、平行光線として黄斑の窪み部まで縦波のエネルギー波として到達する。従って眼底に結ばれる結像は黄斑に正立像として到達すると解釈する(ただし、光ファイバーが捩れているなら正立像とは違うかも知れない)。何故このように考えるかと言えば、カメラ構造解釈では、網膜全体に光感知機能・神経が張り巡らされていなければならず、更にその光の色覚まで網膜全体の細胞に識別する機能を負わせなければならない事になる。ここで『眼の色覚』の生物物理的解釈が問われる事になる。眼球の構造の昔の解釈では、『光ファイバー』などと言う光学的認識は無かった訳で、カメラと同様な機能解釈が当然のこととして受け入れられたものであろう。今でも、光量子の一粒の解釈が物理学では正確に認識されていない。光をあくまでも『波動論』として認識している訳であるから、「振動数」と言う横波概念でしか解釈できないのである。光を含め全ての波は「縦波」である。そのことを認識しなければ、『プリズムの屈折現象』の説明は出来ない筈である。「プリズムと光量子の分散(発表欠席)」ー日本物理学会第64回年次大会講演概要集 第1号第2分冊、p.405.  (2009)ーに基礎論を展開。日常生活で誰もが体験する物理現象さえ物理学理論は説明できないのが現実である。風呂の中の光の屈折現象も、水面の境界面で光の進行方向が屈折する。何故かと問えば、せいぜいホイヘンスの波面解説くらいのもので説明するだけである。一見、確かに光の屈折現象の説明が出来ているように思える。高等学校の物理の教科書などでも、プリズムや虹の七(?)色が光の波長によって屈折率の違いの為に分散すると説明されるが、『なぜ波長の違いで分散するか』の問いには何も答えられないのである。それは、屈折現象をはじめとする光の物理的基礎理論が完成していないからである。眼球の内部構造で、中心に『硝子体管』が貫通している事を冒頭図面に示した下部の文献で知り、直感的に眼球の光ファイバーの存在と眼球機能の本質を悟った。それは、光量子一粒がエネルギーの空間密度分布波との認識とが結びついたからである。単に波長や振動数では、媒質の境界面での瞬時的屈折原理を理解することは出来ない筈である。光の数波長あるいは何振動数分かを媒体の境界面で、じっと待ちながら、この光の波長は幾らだから、この方向に屈折させれば良いという判断司令官が境界面に居るとでも考えるのだろうか?そんな如何にも人間臭い解釈での物理現象の存在は天然・自然の神が許さない。境界面に光の一粒の先頭波面が到達すると同時に、瞬時に自動的に進行方向が決まると解釈するのが自然の本質を認識すれば、当然であろう。振動数を認識する時間的余裕を自然現象は与えてくれない。それが光の世界である。眼球の色覚機能。それは黄斑の窪みに到達した縦波の光をそのエネルギー分布密度で直ちに分離識別する機能として理解しなければならない。微細のファイバーの一本、一本で運ばれた光をプリズム効果で弁別するものと解釈した。その到達する深さの違いとして色の状態を判断するのであろう。医学に全くの素人である私の解釈は光量子概念からの必然的結論である。2011年の大学共通入試問題に眼球の問題が出た。眼球の網膜像入試問題を見ては私がここで誤っていると指摘した「カメラと網膜解釈」の問題その物である。私は医学に関して全くの素人である。しかし、物理学の真髄が教科書には無い事を知った。それが20数年前の事である。ただ1点、『電荷概念の虚像』(『電荷』という虚像)が全ての物理現象解釈に影響を与える事態に至ったと、今その怖れをも感じている(2012/01/30/ 追記、修正)。

網膜と色覚 もし視覚の像を網膜で捉えるとすれば、網膜の各部分ごとに入射光線の波長を識別しなければならない事になる。それは光の寸法、一粒の光子の波長を全ての波長にわたって識別する細胞の検知能力が要求される。網膜全面にわたりその識別を要求できる程、細密な細胞形態を望めるだろうか。波長は何を持って識別すると考えるのだろうか。その識別能力は黄斑部の細胞の奥深さでの光分散機能(プリズム効果)に期待する以外になかろう。(2013/03/18)追記。

追記(2013/4/3)。今日、眼球の光ファイバーに関する記事を見た。YAHOO!知恵袋の質問の回答にあった。Wikipedia.org/  のファイル:Schematic diagram of the human eye en.svg の記事。私の記事の眼球構造の図が間違っているとの指摘もあるようだ。しかし、安心した。どうも専門家の指摘のように思う。この『眼球の光ファイバーと色覚』の図で、ファイバーが網膜の黄斑に繋がっているのが間違いだとある。(2013/04/09)-その御指摘は御尤もである。今日改めて、参考資料(カラーでみせるやさしい解剖)を確認した。確かに、視神経に硝子体管が繋がっている。だから御指摘は当然と思う。しかし、御指摘の中心窩付近の傷害、変成が視力に影響するらしい事から、やはりそこの黄斑部がファイバーの接続箇所と解釈したい。どうもその説明の図には黄斑の名称がなく、中心窩(チュウシンカ)が黄斑の事かと思う。カメラと等価な眼球の光解釈は確実に間違いであると思う。黄斑と中心窩に硝子体管が繋がると解釈したいー修正・追記。(2018/03/14 追記)この眼球の光学的網膜写像の解釈には違和感を抱かざるを得ない。その意味を眼球の光路とカメラ機能-?-に眼球型カメラと言う図での矛盾を描いた。眼球の網膜はカメラのフイルム面のように平板ではない。網膜面に写像が得られるとすれば、どのようなレンズの屈折で可能かは納得する理解が出来ない。何故球面にレンズの写像が出来ると考えるのだろうか。レンズの焦点・焦点距離とは?などで最近考えた事との関連で眼球の『硝子体管』と『黄斑』の関係に強く再確認の思いを得た(2018/03/14追記)。

(2019/10/30)追記。黄斑円孔内の空間で、どの様な波長弁別機能が存在するかは全く分からない。光の屈折原理は光伝播媒体の異なる特性差によって、光エネルギー密度の差が速度差を生むからである。眼球のレンズの前後の境界で物質的空間特性がどれほど異なるかと考えればほとんどその差はないと考える。角膜の球面構造と空気のような、空気とレンズの境界の特性差のようなものが無ければ、眼球内部でのレンズの屈折は原理的に起きない。眼球内部でレンズの屈折光がが望めない媒体ならば、網膜面に光が視界の像を結ぶ訳が存在しない。「コメント」を頂いた中に、黄斑についてビタミンA云々というお教えがある。下のような学会での私の解釈は、光の基本的屈折原理だけからの「自然の本質は単純・純粋にある」と言う観点からのものであり、特別科学的に信頼できる確信などない。黄斑内部で光の波長と細胞との間で生命の不思議な仕組みがきっとあるだろうと今は思う。科学理論は広い分野を包含した哲学的で、必ずしも科学的実験での証明ができなくても、総合的な自然感覚(例えば、人の水中での視界は全く見えないが、ゴーグルを付ければ空気と角膜の媒体間の屈折により正常によく見える等。)が新しい研究の不思議解明の道しるべとなると考える。以上追記させていただいた。確かに今確認すると、私の図は不適切である。光の波長識別の説明は示されていない。光の浸透深さで波長を識別する意味が図には無い。眼球の光ファイバーと光量子 日本物理学会 第56回年次大会で発表した資料を示す。目の色覚機能この図が示す色覚機能は光ファイバーの一本を通して縦波のエネルギー密度波が黄斑部に入射して、その波長に応じて、屈折による分散方向が異なると解釈したものである。その位置を黄斑内部で検出して、その情報を視神経から脳に伝達すると解釈した図である。先に書いた文の削除は、少し参考資料に惑わされて書いた部分である。あくまでも『黄斑』の黄色い点の一点ずつが光ファイバーの接続点を示すとの解釈である。視神経管の構造を検索で調べたら、中心は血管の動脈と静脈が通って居りその周りを視神経が通るとある。黄斑部の波長識別信号が視神経に網膜内を通って繋がっていると解釈したい。しかし、「カラーでみせるやさしい解剖の図と違う解釈になるので、黄斑からの経路がどのように繋がっているかは全く分からない。

(2013/5/17追記) 先日検索した文献(*)に、硝子体の構造が示されていた。そこには、繊維細胞の複雑に絡み合った様子の顕微鏡写真が載っている。その細胞の一本一本が光ファイバーと観れるかどうかははっきり言えない。しかし、硝子体(管)と硝子体液から眼球が構成されている事から、その文献によれば、益々硝子体(管)が管状の『光ファイバー』であると確信できる。(*)江内田 寛, 坂本 泰二:硝子体の構造. 眼科手術.17:355-357.2004 (現在この論文が何故か以前のように簡単に見られなくなった。2014/02/19 現在)

光束[lm(ルーメン)]と比視感度

追記(2013/04/09)。光の計量単位ルーメンとエネルギー量ジュールの関係について、量的評価が出来ない事の結論になった。光の量的評価は、特に人が感知する感度に関わることで、エネルギー量とは無関係となる。その事を最初に記す。光束の単位ルーメン[lm]は光のエネルギー量の単位ジュール[J]と関係付ける事は無理である。人が光の強さを感じる感度は必ずしもエネルギーの量に比例する訳ではない。波長に対して感度が異なる事だけは間違いない。だから照明に関する単位は元々エネルギー量との関係を定義できないのである。それがルーメンに対する結論である。だから無理に『エネルギー量』と関係付けようと考える以下の論理は矛盾している事をお含み頂きたい。この事から照明と配光曲線の場合においても、光源と比視感度曲線からの算出光束F[lm]もエネルギー量に関係付けられないものである。

追記(2013/04/26)。この記事をご覧くださる方が今でも居られる。標題に『比視感度』の用語がありながら、その図解説が無い。ここに参考図を提示する。比視感度正確なものではない。波長に対して、人の感度がどのようであるかを教科書などの解説に基づいて図案にしたものである。5550Å([Å]は1× 10^-10^[m])が最大の感度を示すと言われている。その色が橙色か黄色かも本当のところは自分は知らない。その波長に対する人の感度の傾向は、大体図の様に見做してよかろう。それぞれ人によって異なるかも知れない。波長λで表現すると、面白い事に、赤外線までの限界に対して、ちょうど半分の波長分が可視領域である。

(2013/10/03) 追記。 人の光に対する波長感度が実際にどのようであるかは測定できない部分も多かろう。その波長感度の解釈図が上の様に照明学で評価していると言う意味であろう。そのグラフで、光と波長の関係が示されているので、その図の上から、光の波長と作用性の『問答』を一つ取り上げて論じておく。波長λが3800Å(オングストローム)以下で、紫外線、X線あるいはγ線等とエネルギー基準が高い光の領域になる。波長が短い程エネルギーが大きい光と看做されている。光速度で進行する光のエネルギーの空間領域が小さい光ほど、そのエネルギーの働きが強くなると言うことである。波長が短い程、光一粒の空間占有領域が小さい程、その光の原子、分子への作用性が強まると言うことである。その意味を物理的にどのように解釈するかが重要であろう。その解釈で、光の振動数概念では、十分理解できない筈である。その光の作用性の意味をエネルギーの空間分布密度から解釈したい。領域が小さい光ほど、その作用性が強まる意味は何か。その事に対する解釈を示しておく。それが光のエネルギー空間分布形に在り、波頭値のエネルギー密度が大きくなると言う意味である。光は正弦波のような波ではなく、雷の波形の先頭の衝撃波状である基本的認識が大事である。光に振動性はない事を理解すべきである。光の先頭の波頭値のエネルギー密度がその光の作用性を理解する基本認識でなければならない。その光の空間像は光量子の波動関数形と作用に示した。その詳細は光とは何か?-光量子像ーに示した。

物理量の単位は複雑である。国際度量衡会議で共通の単位系を決めている。MKSA系である。しかし、なかなか理解し難い単位がある。それが光の量を表す「光束」と言う単位である。ルーメンと言う。磁束と同じに、光の束あるいは光の線の密度と言う考え方で決められた単位であろう。世界はすべてエネルギー一つから成り立っている。他の物理量概念は全て便宜上の仮想量でしかない。エネルギーの単位は[J(ジュール)]であり、全てはそのジュールとの関係で解釈・認識出来なければならない

さて、人間の視感度が光の量及び波長とに関わってくる。明るい、暗いで物を見る見方が違う。光には色彩がある。いや光には色は無い。しかし自然は彩り豊かな世界として目の前に現れる。その色は、本来光に在るものではなく、人間の眼の中の仕組み・機能あるいは脳がそのような彩りがあるものとして認識しているに過ぎないのである。その色を7色とか、何色に分類すればよいかは分からないが、兎に角、光の波長で人間の目の感度が異なると言われている。普通は、波長が7600[Å(オングストローム)]~3800[Å]の範囲の光を認識出来ると言われている。単位[Å]は長さの単位であり、極めて微細なものである。一つの原子の直径が大体1[Å]程度である。人間の目の感度は、上記の範囲の光が見える訳で、その光を「可視光線」と言う。その中心の波長の光が緑色で、最大の視感度を持っていると言われている。その波長5550[Å]での最大感度を680[lm/W]と文献(#)に在る。(#:電気工学必携 改訂新版 尾本義一監修 三省堂、いつもこのポケット型ハンドブック一つで重宝させてもらっている)。この単位も良く分からない。単位[lm/W]=[lm s/J]は光束lmと時間sの積でエネルギー量と解釈できる。だからエネルギーのジュールJとの比率で、目に入った光の内、視覚に寄与したエネルギー量の比率を表していると見做せる。だから一応論理的には筋が通っている視感度の単位である。単位で問題にしたいのは[lm]である。照明関係の量的評価量はこのルーメンlmである。時間との積分で初めてエネルギー量になると言うことは、一体どんな意味があるのか理解できないのである。ここで中断して、照明関係の単位等を一覧する事にしたい。ここで、光と色彩の関係を考えるには、人の目の仕組みおよびその神経伝達信号の生理学的認識が欠かせなかろう。その為には、人の目の構造を理解する必要がある。眼球の光ファイバーと色覚にまとめた。

一般には、部屋の明るさを照度E[lx(ルックス)]と言う単位で表現する。このルクスは部屋の壁、床あるいは本の紙面に入射する単位面積当たりの光束でE[lm/㎡]を表す。参考までに、晴天の日向の照度は10万ルクス、満月の夜は0.2ルクスらしい。図書館などの設計照度は500ルクス程度。さてもう一つ光源の明るさを表現する単位がある。それはI[cd(カンデラ)]である。ちょっと聞き慣れない空間角の単位ω[st.rad(ステラディアン)]を使った定義量になっている。全空間の立体角は4π[st.rad]である。即ち光源から放射される単位立体角当たりの光束量を持って、その光源の光度I[cd](=[lm/st.rad])として評価する。このように照明に関する単位はいろいろ複雑である。基本になっている量は、光束量ルーメンである。先に、最大視感度680[lm/W]と言う単位について示した。単位[lm s]がエネルギー[J]ならばと考えたが、どうもこの光束量F[lm]の正体が分からない。

何を言いたいかと言うと、光の量で明るさを論じるのが照明であろう。光の測定に疑問を持っているのである。照度計でEルクスと言う。光のエネルギー測定の基本法則は「プランクの法則(1900年のノーベル賞受賞対象論文)」である。プランク定数h=6.625×10(-34乗)[Js]が光の基本定数となっている。この基本法則の光スペクトル測定が正しく行われたのかを疑うのである。照度ルクスも何を測定しているのか理解できないのである。ルーメン[lm]はエネルギー量に比例した物理量を評価しているのかが理解できないのである。照度計で測定するとき、時間の長さに関係なく或る一定値を表示する訳であるから、入射エネルギーの時間比率を表示している事になる。即ちE[J/s]の単位と同じ意味の量を計っている事になると考える。すべての可視光線の波長成分を積算するものとして計測しているのであろうが、光源によっては波長スペクトル分布に大きな差がある。ここで人間の視感度曲線・特性との絡みが関係してくるのである。最大視感度を基準にして、可視光線の全体の波長に対する眼の感度を『比視感度』曲線として表して解釈する。紫色は感度が悪いとは思うが、赤の感度は感覚的に本当に比視感度曲線のようになっているか疑問に思う。赤色に対しては、人間の感度は非常に良いように感じられる。

以上から、工学的実用量ルーメン[lm]が物理量エネルギーのジュール[J]とどのような関係に在るかを明らかにする必要がある。冒頭にも訂正したが、結局ルーメンという単位はエネルギー量ジュールには換算できない特殊な単位である事に成る(2013/04/26追記)。曖昧さを排除するに欠かせない点である。更に比視感度曲線が、教科書のような特性になっているか大変疑問に思う。光のエネルギーをどう認識するかは極めて重要である。物理学教科書で、プリズムの屈折現象に関する解釈は曖昧のままである。光の何が屈折の原因であるかを説明できない。『光量子一粒の空間エネルギー分布』が屈折現象の要をなす。日常の生活空間に現れる光の魅力を大切にしたい。

虚数は自然描写に役立つか

最近気に係ることがある。数学で、複素関数論と言えば中々難しい内容のものである。複素平面あるいはガウス平面と呼ばれる、直交した実数軸と虚数軸で捉えた平面のことである。その虚数軸の虚数と言う概念の意味を考えると、実に難しいと思うのである。最近特に気掛かりなことは、物理学理論が私の取り付く島もないほど高度な数学的記述で論じられるが、その描写内容は実在空間との関係で何も認識できない抽象論に偏ってしまったように思う。専門的な分野で通用するかも知れないが、一般市民の理解から余りにも遠く離れ、その乖離が大き過ぎると思う。実在空間は二次元では何の意味もなさないと思う。必ず三次元で無ければ、目の前の空間を認識できない筈である。そこで、虚数軸を導入しても、実軸と虚数軸からなる平面は厚さが無いから実在性には役立たない。物は原子核でも体積を占める。そこで虚数概念を導入したとして、三次元空間をどのように表現するかと考えても、厚みの方向を表現できない。だから物理学理論では、実在空間の中にどのように考察対象が存在するかと言う、最も基本的な空間認識の欠落した範囲での解析において虚数が利用される。虚数概念の意味を考えるだけで、自然科学とは何か、科学技術とは何か、そこには同じ科学と言う言葉が使われるが、その中身に含まれる意味に違いがあるのではないかと、色々と考えさせられる。

磁界・磁気概念の本質

電気磁気学は電荷に基づく『電界』と、もう一つの『磁界』との二つの電磁気的組み合わせで解釈されている。今回は、磁界あるいは磁気と言う概念について、物理学的理論の矛盾を指摘し、その本質がどのようなものであるかを明らかにしたいと思う。結論は「磁界はエネルギーの回転流である」と言う一点にある。

1990年の秋に、磁界とは何かを明らかにしたくて手掛けた時の写真がある。それは家庭用のキャップマグネットで確認したものである(現像は1992年秋)。右の下の写真(2)は上の(1)マグネット上の砂鉄模様である。金属キャップとマグネット間に環状の砂鉄模様と、その外側に砂鉄の空隙ギャップ部が出来ている。砂鉄の欠けた円環部が何故生じるかは単に磁束概念では捉えられないと考える。ここから磁場に思い入れが始った。2007年に、日本物理学会第63回年次大会資料写真を撮った。直径6cm弱のマグネットを量販店で購入。それが右写真である。その2007/12/14(2)はマグネット上の紙の上に砂鉄を振りまいたものである。この写真は、決してマグネットの表面は均等磁場で無いことを示している。もともと磁束などが磁石の空間に実在すると解釈することそのものが、一つの便宜的な技術的導入概念なのである。だから磁石面近傍が均一な磁束分布等と考えること自身が間違っているのである。そこで、磁石の磁極表面の砂鉄分布模様が何故このように周辺部に集中した円環状になるのかに、答えなければならない訳である。そこで、2枚の磁石間のギャップで、砂鉄模様がどのようになるかを調べた。誠にお粗末な間に合わせ実験ではあるが、経費縮減、効果絶大を狙ったものである。何処かの事業仕分けの対象科学研究に比べて、意義は絶大と認識している。そのギャップ空間の磁気状態は誠に興味深いものである。間隙のギャップ長が長ければ、磁極のN,S間の砂鉄は中心付近で柱状に繋がる。その柱状砂鉄模様も基本的には、中心部でも円環状に連結した分布となる。それが2007/12/14(3)の写真である(研究データとしては稚拙であるが)。ところが、そのギャップ長を短く狭めてゆくと、砂鉄は磁石の周辺部に全部集まり、円環リングで磁石が連結される。胃カメラの様な微小レンズのカメラなら、はっきり示せるが研究費ゼロの身の上の哀しさ。後は頭で纏めるしか方法は無い。学会で発表した論題「磁力密度 f=rot(S/v)」は力の概念をも統一的に解釈するものであり、力の基本的認識はエネルギーの回転流に基づくと解釈している。力ベクトルf[N/(単位体積)]、エネルギー流S[J/s(単位面積)](ポインチングベクトル)およびエネルギー流速度v[m/s]の関係を表している。竜巻も宇宙の銀河も全て渦流でその存在を示している。(2013/02/06)現在は力の式に対して、修正したもので解釈している。修正式(dp/dt=rot S [J/m^3/s]=[N/m^2/s])で圧力の時間的変化を加味した解釈で捉えている(追記)。磁場とコイルコイル反発力の訂正話が脇に逸れてしまいました。ここで磁場エネルギー流の解釈を図に示す。マグネットのエネルギー流なお、上の図でコイルとマグネットの接近時に生じる反発力の表現で、エネルギー流に曖昧な点があることに気付いたので、訂正してエネルギー流の近接力の意味を示した。磁石の表面近傍の空間には、必ずエネルギーは実在する。磁束概念を否定しても、磁場解釈の理論などは無くても、エネルギーは確実に実在する。その実在するエネルギーを、空間の中にどのような姿として捉えるかは、それぞれの人の感性に係る問題でもある。磁石同士が強力な吸引力を呈することは誰でも子供の頃から知っている事である。空間に存在するエネルギーを捉えていないのが『現代物理学理論の欠陥』である。それが光量子のエネルギーの実態を理解できない原因になっていると思う。その具体的な視点として、ここに磁石表面のエネルギー流の様相を描いて、その意味を説明した。

電流計は何を計るか

電流計は電流を計ると、誰でも当然のことと思うだろう。電流とは、誰もが電線の中を流れる何かであると思っている。それは『嘘』である。電気回路のエネルギーを伝送するには導線が必要である。一般家庭の電灯線でも最低2本の導線でエネルギーが供給される。大電力は3相3線式の送電線路になる。皆その電線の中を電流と言うものが流れていると解釈しなければ、電気回路の意味が分からなくなってしまう。どこの物理学者に聞いても、電流とは電子が電流と逆向きに流れていると答えるでしょう。電気の基本法則に『オームの法則』があり、学習の最初から電流の意味が教えられる。鉄塔の送電線路で、電線の鋼心アルミ撚り線の設計も電流密度で太さが計算される。流れていない電流が電気回路の基礎概念として世界の物理学教科書の基礎をなしている。物理学理論を解剖する。その好適例として、電流・電子概念を取り上げる。先ず最も身近な「可動コイル型電流計」(直流の電流計)をその考察対象として取り上げる。計測の原理は、電線の中の電流などを計るのではなく、流れると考えている電線コイルの周りの磁気と永久磁石の磁気との関わりで働く相互関連の力を利用しているのである。その電流計の概略図を示す。この電流計の働き・動作機能を解明するには、幾つかの電気の基本法則から考え直さなければならない。電線あるいはコイルの周りに、電流による磁界、磁束が発生する。その『電流と磁界の関係』は①アンペアの法則によって解釈される。(2013/03/05)追記。図に「可動コイル型電流計」の構造を示した。永久磁石の磁場内に計ろうとする回路の電流が流れる可動コイルを組む。電流の量に比例してコイルの磁場と磁石の磁場との磁力の相互作用で、コイル軸に固定した指示針が回転する。その回転量で電流の値を読む方法が「可動コイル型電流計」の動作原理である。『微弱電流』測定は『検流計』による。その原理は同じであるが、コイルに軸に鏡を付け、その鏡の光反射を利用すれば、微弱電流によるコイルの微弱回転をも検知でき、拡大した大きな振れを検知できる訳である。それは電流値の値よりも電流があるか無いかの検知が主な測定目的であろう。要は電流と言うが、電線内に流れている物など全く測定していないのである。空間の磁気状態の相互力を検出しているだけである。

可動コイル型電流計の計測する電気量 電流と電圧の正体にまとめた。負荷電力に関係する量を可動コイルに貯蔵することで、『負荷電流』なる電気量評価をしているのだ(2013/5/29 追記)。

①アンペアの法則 ところが、この事に『嘘』がある。「この磁界と電流の間に途轍もない『大矛盾』が存在する」ことを明らかにすることがこの論文の主題でもある。それは電子概念の矛盾点である。そのことを論じる前に、磁気とは何かを先に考え直しておこう。コイル電流による磁界は②右ねじの法則で共通認識されている。

②右ねじの法則 電流と磁界の向きの関係を右ねじで解釈して分かり易い。図の(ロ)のように円形コイルに電流 i が流れると、磁気・磁束密度Bの向きに磁石のN極が発生すると同等の意味で説明される。この電流 i が何故磁石と同じ働きをするかは誰も答えられない。それは、電流が何であるかの説明が誰も出来ないからである。電流が電子の逆向きの流れと一応説明するが、決してそれ以上に深くは考えないで済ませているのである。深く追究すると、分からなくなるからである。専門家のそれが得意技である。確かに、コイル電流が磁石と同等な働きをすると教え込み、無理に暗記させるうちに、何となく真理のように思い込むことになる。それが人間の『脳』の機能の特徴であるから。しかし、一つ疑問を持つと、理解できない、納得できない事に沢山ぶつかるのである。ここで簡単に、『磁気とは何か』についても触れておきましょう。もともと自然界に、磁束・磁束密度なるものなど存在していません。電気回路の技術法則として、便利な概念であるから、共通認識に取り入れただけであり、深く考えれば矛盾している事なのである。「静電界は磁界を伴う」を発表してから、磁界とは何かを考え続けて、その意味を自分で納得できる結論に到達した。磁気とは空間のエネルギー流である。

③磁気とは空間のエネルギー流である。方位コンパスを例にその向きを示しておきましょう。マグネットのN極は磁極の向きに対して、エネルギーは左ねじの向きに流れるのである。この向きを決めることに長い時間を要した。物理学理論は空間に存在するエネルギーの実在性を認識していないのである。ポテンシャルエネルギーも運動エネルギーもエネルギーを担う質量を必要としている。光が空間のエネルギーと言う認識が無い。磁気エネルギーは磁束密度、電気エネルギーは電束密度と、その実在しない概念によって捉えているが、そんな概念が無くても、エネルギーはエネルギーとして空間に実在しているものなのである。

さて、そろそろ結論を急ごう。電流が電子の逆流と考えるならば、その電子とは何者かを明快に説明できなければならない筈である。教科書は子供達に教える、未来に向かう指針である。その定義は、負の電荷と小さな質量を持った素粒子であると。もし電線の中を電子が通るとしたら、その電子の定義概念から、電線の外に磁気が発生する訳を説明できなければならない。電子の空間像をどのように認識しているか。誰も答えられない。電子とは、その空間的な実在性を如何に認識するかである。結論は、空間のエネルギー流でしかない。右の図の電流 i  による磁界Bが電子のどんな特質によって生じると言えるのだろう。アンペアの法則は電子・電荷概念の無い時代(19世紀初頭)の法則で、その理論の周回積分値の実証は出来ない。電子が電荷を保持すると言うなら、電気力線が電子に入り込む描像で捉えれれる。その領域がエネルギー空間場となり、電子の領域とも見做さなければならない。その電子のエネルギーが電線金属の中から、金属導体の静電遮蔽を乗り越えて、どんな理屈で導線外部に磁場エネルギーを生み出すと考えるのだろうか。更にもう一つ電子流の矛盾として挙げておかなければならない事がある。電子が負荷にエネルギーを供給するには、エネルギー保存則を補償しながら、どのような供給能力を持つと解釈すればよいのだろうか。殆ど説明できない矛盾である。(2013/04/30 追記)何が矛盾かという意味を解説しておきたい。電気回路で、負荷にエネルギーを供給する。ランプを付けると言う意味は、ランプにエネルギーを供給するから、そのエネルギーをランプでエネルギー形態を変換して、光として放射するのである。そのエネルギーを光に変換して放射する訳であるから、その『担い手』を電子に求めるなら、電子は電源からエネルギーを負荷のランプまで運ばなければならない。負荷で『エネルギー』という荷を下ろして、ランプに届けるとする。負荷に『エネルギー』という荷物を届けて、帰り道は『エネルギー』分だけ身軽になる筈である。電子に『エネルギー運搬役』を課すことは、『電子』概念の定義には無い責務である。『電子』もきっとそんな仕事を仰せつかっても、『エネルギー保存則』に違反する様な大それた責任は取れないと、駄々を捏ねるに違いない。『電子』は行きと帰りで『エネルギー保存則』に戸惑うだろう。要するに電源から『エネルギー』をどのように負荷まで運ぶかという基本的解釈を問うのである。その意味で、基礎のほとんどは矛盾から成り立っている。と看做さざるを得ない。

(2013/09/25)追記。『電子』とは?-物理学的「お化け概念」の図。電子とは何者か昭和61年、長岡高専で電気磁気学の講義をしていた『中曽根臨時教育審議会』の抹殺対象の生命の危機の中で疑問の原点に成った。それが『電荷』とは何かであった。(2016/04/27)追記。こんな抹殺対象だったなどと書く自分が情けない。しかし、今考えれば『以下余白』の不覚で既に長岡工業高等専門学校に在籍していなかったのだと分かり、巧妙な方法で殺害するより他に対策が無かったのかと理解できる。

『静電界は磁界を伴う』の検証実験が『電荷』の空間描像を明らかにするための挑戦であった。その後日本物理学会で電流矛盾などを説き明かす説明資料に使った図面である。電荷概念で最も馴染みのある用語は『電子』であろう。素粒子物理学研究では、ヨーロッパのSERNでは『陽子』加速の実験が行われている。『電荷』のプラスとマイナスの違いがあるが、素粒子加速では『電荷』概念に基づく加速は電界によることに成る。そこで、『電子』の加速も『陽子』の加速も、電極の電界方向だけの違いで、原理はみな同じである。『電子』を加速したいとなれば、その素粒子の寸法や形状および電荷の分布状況をどのように認識しているかが重要な原理解釈の基本であろう。それでは皆さんは電荷がどのように素粒子に付帯しているものと解釈するかを答えられるだろうか。そこで考える一つのモデルを示して、その電磁界内での『電荷』および『電子』の実像を考えて見ようと言う意味で示した。今は昔に成ってしまったが、ブラウン管式テレビの『ブラウン管』は、電子銃からの『電子』を制御するブラウン管内の電気回路はブラウン管に張り付けた電磁コイルである。電気理論では、『電荷』は磁界で制御はできない筈なのである。SERNも電磁石で円形軌道上の加速法が採られている。いろいろ苦心の加速説明をしているが、ローレンツ力では『電荷』と『磁界』の間での空間的遠隔作用力の原理説明は出来ない筈である。上の図で、『電荷』と陽極板(プラス電極)間の空間に加速するための電気力線を仲立ちにすると考えたとき、遠隔作用力の元が電気力線と言うことに成る。何故電気力線を仮想すると、加速引力の役目を果たすと言えるのだろうか。電気力線の存在は、それだけでその空間には『電界エネルギー』が存在すると考えなければならないのだが、その場合はそのエネルギーは何が供給しているものと解釈すれば良いのだろうか。陽極からの電気力線かあるいは電子からの電気力線からかにより、どちらが供給する場のエネルギーかを決めなければならない。しかし、場のエネルギーと言う解釈は、粒子加速の場では考えない事にしているようだ。理論物理学では、空間のエネルギーと言う質量に付帯しない概念は曖昧のまま、あるいは無視しているようだ。さて電界と『電荷』の間の力は電気磁気学の理論に従っている。しかし、『電荷』と磁界の間に働く力はどのような原理に基づくのだろうか。『電荷』から電気力線が磁界に届いたとしても、どのような磁界との関わり方で電気力線に作用力が及ぶと言うのだろうか。理論では『電荷』が速度を持つとその周りに磁界が生じると解釈するのが専門家の意見であろう。それがアンペアーの法則の意味であるから。ここではじめて、『電流』が磁界を生むと言う原理を考える糸口に到達した。上の図の『電荷』が移動すると、どのような訳で電気力線が磁界に変化するのだろうか。マックスウエルの方程式がその辺の理由の解釈原理には成っている。『電荷』と『磁界』は原則的に別々の概念であると成っている。『電荷』からどのように『磁界』を生むと説明するのだろうか。『電子』一粒が運動すると、何故『磁界』を生むかが26年前の疑問の原点である。関連の様々な周辺の概念を検討した結果に於いて、結局『電磁界理論』そのものが矛盾のまま構築されて、複雑怪奇の理論体系に成っていると言う結論である。どうぞ皆さんにお願いがあります。電荷が動くと何故磁界で出来ると解釈するかを御自分でお考えいただきたい。この様に法則が成り立っている、言われているからでなく、自身で理論の根本から納得する解釈を導き出して欲しい。その事で、『電流は流れず』と言う意味の『電流』の概念を納得出来ると思う。

磁力密度 f=rot(S/v)  日本物理学会講演概要集第63巻 p.310. に関連記事

参考記事 磁界・磁気概念の本質 電流は流れず 『電荷』と言う虚像 ファラディ電磁誘導則・アンペア周回積分則の物理学的矛盾

数学の論理性の限界

数学は自然科学の記述に欠かせない道具である。しかし、それは科学的概念が真実であると言う暗黙の共通理解のもとでの論理である。電子の物理学的定義は負の電荷と質量を持った粒子であると言う世界の共通認識がある。もしその前提が『嘘』であるとしたら、それを論理的に数学で説明する力は持ち合わせていない。

『基礎科学』とは何だろう

『科学』の始まり、それは人の心に始まる。                           

(2012/08/27)  神経(細胞)と情報伝達機能 について末尾に追記。

基礎科学の大切な事には誰も異論は無いであろう。ところで、『基礎科学』とは何だろうかと考えてみると余りはっきりしていないように思う。その事を9年ほど前に、自分自身の考えを整理するためにも、思い巡らしてみた。そのことをここに公開する意味があると考える。人類の歴史の足跡に刻まれたものが全て科学の心に彩られたものと言っても良いであろう。人が考えること、それが科学のすべてと言いたい。動物だって生きることは考えること。しかし、火を使うのは人間だけである。乾燥した木っころがあれば、摺り合わせて火も起こせる。この「火を起こす」事には大変深い意味が含まれている。道具として石の矢じりや弓を使う事の意味には、さらに心と科学の関わりで興味のあることである。アンデスの山岳地帯で、食べ尽くした動物の骨を上空から落とし、割れた骨の髄を食べる禿鷹の行動。その行動も自由落下の意味を感覚的に捉えた、科学の心に基づいていると言えるかも知れない。弓矢を使う人間には、自然の法則を認識した科学の心があっただろうか。この辺の疑問・解釈にどのように軍配を采配すれば私が納得できるだろうか。こんな調子で、自分を追い込むことで、頭を抱える己の姿を客観的に見詰めるのが考えるときの癖である。この滑稽さに自身で苦笑。この問いに対する答えは教科書には無かろう。だから勝手に自分で答えを決めなければならない。人それぞれで答えが違うかもしれない。違って良い。

私の自分自身への答え                                           「心」と「考える」の言葉の意味の違いが分からない。「考える」のは『脳』の機能の働きであると言えよう。しかし、「何を考える」かの「何を」を決めるのは『脳』であろうか。確かに『脳』の働きなしに思考・行動のすべての生命活動は成り立たない。しかし「何か」を考える基に成るもの、即ち「切っ掛け」は『脳』ではないように思う。何故なら、思考・行動の「考える」切っ掛けを『脳』自身が決めるとしたら、恐らく生命活動の全体が混乱することになると思うからである。「切っ掛け」は全て外界の状況やその人を取り巻く外との関わりであると見る。「考える」と「心」の言葉の含む意味の違いはこの辺にありそうだ。「心」の大切なことは、その人が己自身と己自身以外の対象(社会的、経済的環境、人間関係の環境、自然環境などのすべての外的状況)との関わりに対して、どのように『脳』に「考える」切っ掛けを生みだすかを決めるものであるからである。言わば「心」は、その人の「感性」と同じ意味を表す言葉と考えても良かろう。だから「感性を磨く」と「心を磨く」は究極で一致した意味であろう。外界の事象に対峙した時、その事象の捉え方にそれぞれの個性と言われる特質が表れるのである。「感性を磨く」とは、外界の事象をその奥深くに隠されている核心にまで踏み込んで、その眞相を見抜く力を鍛えることであろう。人間は強いが、際限のない欲望の虜にもなり易い面を持っている。その時点までに積み重ねてきた訓練や経歴によって、さまざまな性向として、その人自身の感性が磨かれてゆくのであろう。欲望に目が眩んでしまう、自分の理論に固執し過ぎる、等の状況によって事の真実を見失う事も多かろう。教科書に書かれたことをすべて鵜呑みにする、あるいは棒暗記するなど、深く考えずに済ます学習態度を長年続けていれば、それがその人の「感性」の感度や性向を決めてしまうものであり、事象の眞實を見抜く力にはならない結果を来たす。そこには「輝く個性」などは生れようがないのである。このような過去の『脳』の使い方が、人間の優れた脳機能のお陰ゆえに(工学的には、帰還作用の蓄積効果とでも呼べば良いのであろう※)、自ら「感性」の良し悪しを作り上げてしまうことになるのである。『脳』の機能は多面的で、様々な経験を通してこそ、外界の事象に対して鋭く、深く見取る「感性」に磨き上げることが出来るのである。ここまで来て、最初の自分に提起した「問い」の一部に対して、「心」と「考える(脳機能)」の意味の違いにだけは一応の自分の納得できる「答え」が得られたと思う。私、素人の独断と偏見であると言われても。

脳の不思議に踏み込んで                                         ※ 帰還作用の蓄積効果 とは何かを、図解によって説明したい。図一 脳の構造。    図二 脳の機能。図三 生命(心)の脳。の三つの図に分けて、「帰還作用の蓄積効果}と言ったことの意味を説明したい。図一は脳の構造と知覚器官(般若心経の文言の眼耳鼻舌身意から意を除いた意味を込めた)を単純化して示したものである。図の各部の番号(1)、(2)及び(3)の関連を脳の機能と言う面に絞って表現したのが次の図二である。                                         「外界事象」とは自分自身を取り巻く外部の自然環境や社会的状況等すべての事柄を含めたものである。その外界事象を情報として内なる自身に取り入れ、またその事象に対する自身の意思や行動を外界に発するものを(1)検知・発心動(※)器官として表した。その出力には危険から身を守る行動、獲物を捕獲する知恵、愛の思いに生まれるときめき、発汗その他の分泌物、言葉や書画での心の表現・芸術活動などの生命活動のあらゆる外的形象が含まれる。

(2)脳基幹(※)として纏めた部位は脳の中心部の深くに位置した諸器官(脳幹、海馬、小脳、視床下部、さらに脊髄をも含めた)であり、この脳基幹が生命を司る中枢部位であり、その人の生命の全象の源になる「こころ」の在りかと私は考える。あらゆる外界からの情報、大脳での思考情報のすべてを融合して、全体を統合した最も有効な調和情報として生命の姿を決めている。その意味を込めて、その部位の機能を情報統合・指令・管理中枢と考える。医学書の説明では、その部位の近辺に「橋」と言われる部位がある。しかし、その「橋」の働きについて詳しい説明が見当たらない。そこで、「橋」と言う言葉の意味を、私の考える『脳』の全貌をどのように捉えれば良いかの一つの手掛かりとして意味付けたいと思った。情報は決して単純な一方通行の形態ではないと思う。だから、特に大脳との情報のやり取りは、この脳基幹との間で複雑なやり取りを繰り返しながら、ある思考結果に収斂するものと考える。その為の情報の配送機能を受け持つ器官が必要であろうと考え、その役目を「橋」に託したのである。当然、(1)の出力器官に対しても、情報伝達の「橋」の役目の存在は同じように必要であろう。結局、脳全体の機能はある部位ごとに独立しては意味を成さず、全身の機能が一体の生命の塊としてしか意味をなさないものであろう。

(3)大脳は脳梁によって支えられ、脳の全体を覆うように大きな体積を占める。ここは脳基幹からの情報に基づいて、思考(分析・判断・評価・整理)する中枢と観て良かろう。(2)脳基幹と(3)大脳は外界事象の情報に基づいて、さまざまな処理情報に変換しながら、二つの間で情報の交換・分析様態を作り続けて、常にある方向性あるいはその瞬間対応の最適化をなすことに努めるように働くものと考える。この「ある方向性」と言うものが、その時点までのその個人の辿ってきた『脳』の履歴に大きく関わるものであろうと考える。『脳の履歴』とは元々あるハードとしての『脳』に、如何なる脳機能の鍛錬をしてきたかを『脳』のソフト機能としてそれぞれの個人の脳特性(個性と言ってよかろう)になっているのであろうと言うことを、そのように表現した。このように全くの独断によって自分の『脳』の内部を自分で分析して、その脳機能の全体像を解釈してみて、何とか自分を納得させられるだけの結論が得られたと思う。

以上の脳機能の解釈を、心(生命)の外界事象との関わりをどのように意味付ければよいかを1つの図案に表現してみた。それが図三である。生命(心)は単一ではその意味を失うものと思う。その生命すなわち『心』は己を取り巻く外部との関わりがあってこそ生きている。その『心』に生命の意味の重心を置いて、『脳』の機能の意味を考えた結果を図案化したものである。(辛巳カノトミ 神無月 20日  記 2001.10.20)

「基礎科学」の話から大変それてしまった。何故こうなったかは自分でもよく分からない。しかし、「科学する(用語?)」と言う事はその人の『心』と自然の姿との共感・共鳴があって初めて成り立つものと思う。そのことから心と外界事象との関わりに思いが向いた結果であろう。結局は図三の表現に「基礎科学」の本源があることを述べたかったのであろう。私が物理学会で発表するときに、必ず『心』にこだわりを感じるのも、科学者の感性と言うものへの疑念があるからである。科学者に求められるものは「純粋な真理への憧憬の心」であろう。素心での自然との対話こそ科学者が立ち戻るべき道であろう。そこに至るには、子供の頃の無欲な心に磨き続ける環境で育てられなければならないだろう。親が子供に接するときの躾や小言が「将来に高収入を得るため」や「高い地位に就くため」に勉強しなさい等と言うようでは、気掛かりだ。現代物理学の基礎理論は基礎に値するだけの価値が無い程、その論理性の欠落と矛盾の上に展開されている。『教育』は決して点数で評価できない処に、その本当の意味が隠されている。「勉強」と「教育」の深い意味を込めて、やはり図三の「生命(心)の脳」を噛み締めたいと思っている。

図三 生命(心)の脳                                             図三で、外界事象(現在)と人の生命の中に「過去と現在」と言う表現で、現在と過去・未来を分けた。この図案は自分でも満足している。ここに再掲したい(2012/08/27 追記 )。外界事象を現在としたが、そこから心窓(知覚器官ー視覚、触覚、嗅覚等ーを通して入る情報の入り口を表した)の情報を人は現在と感じる意味である。しかし、夜空の星を見上げれば、その光は現在の光とは言えない。百年前の星の光かもしれない。現在とは人の認識に関わり、その人がどのように解釈するかにもかかっている事である。太陽でも8分前の光である。星座の姿も現在と言う時間の解釈で、星座の位置関係は全く異なるものである。宇宙と言う世界まで含めれば、現在と言う時刻もどう解釈すれば良いかと、外界事象の意味も大変深い意味を持つ事になる。目で見た情報の時刻の意味まで「眼」に責任を負わせるのは酷であろう。それはその人の心の中『脳』に責任を取ってもらわなければ真実は見えない。専門と言う学問分野では、天文学のみに限らず、殆どが自らの集団の理論体系に『脳』が染められてしまうのである。それは私自身が経験したことである。電気理論の「電流」を一つの信仰のように自然の真理として認識していた。長い教鞭で、生徒、学生に得意になって指導法を工夫しながら教えてきた。ところが、それが『嘘』であることに気付いた。電線の中に「電流」などが流れ得ないことは、論理的に全体像を統合すれば、当然のこととして悟ることが出来る筈である。自分の『脳』の中に蓄積された専門理論、即ち電磁界理論の基礎概念が瓦礫のように崩れ去るのである。電流は流れず にその事を記した。『脳』に蓄積された知識が全て曖昧で、頼りないことに気付いた時、初めて学問の奥深さと意味を知ることになる。今となれば、「電流」などと言う物理概念がなんと滑稽なことかと思うと同時に、人間の『脳』と『基礎科学』との関わりに、その社会的意義を重ね合わせて、考え込まざるを得ない。

神経と情報伝達機能(2012/08/27) 全くの素人が生命科学の領域に口を挟む事を恥ずかしいと思いながら、一言書きたい。科学技術の安定性を保つには「帰還制御」の機能が自動的に働く事が必要条件である。そんな工学的な見方が、いつも頭にある。人間の行動を考えた時、脳で行動の指令を出すと見て良いだろう。しかしその指令が何を判断基準に発せられるかと考えると、なかなか難しいことのように思える。小刀で、物を斬り込む作業を考えても、脳からの指令とその行動の状況の情報とが合致しているかどうかを、比較して整合性が取れている状況下で初めて、脳からの指令が伝わったと言えるのであろう。鉄棒の離れ業をこなす空中運動の指令と身体状況の関係も同じ事であろう。『神経細胞』の働きの機能は、本当に脳の指令の「伝達」がその役割であろうか。その信号の伝達速度の限界はどの程度であろうか?等素人には理解できない疑問が多過ぎる。どうしても、工学的観点から考えると、全ての外界情報・身体位置情報などを脳に伝える機能が『神経細胞』の役目に思えて困っている。脳からの発信情報は本当に『神経細胞』を通しているのかと理解できないでいる。『信号は全て縦波の電磁エネルギー波である』から、身体の空間を通してどこからでも伝達できる筈である。しかし指先の痛みや、位置、熱さ等は神経細胞を通さなければ、その的確な情報は脳に伝わらないと思う。だから、「神経細胞」の機能は「帰還フィードバック機能」のように思える。以前「ストレッチ」で体の関節を調整しながら、その効果は骨と骨を繋ぐ「靭帯」の柔軟性の鍛え方が重要であると思った。そんな運動を通して、頭を巡らしていた事が「神経細胞」の機能であった。