電圧とエネルギー

観えなくて測れない物理的実在量、それが空間の『エネルギー』。しかし、それは物理学理論の概念にはない。その空間像の象徴が『光』だ。光は見えてもその『エネルギー』は観えない。

『エネルギー』とは不思議だ。誰もが言葉にするが、その姿を見る事が出来ない。物理学理論で『エネルギー』と言えば、運動エネルギーと位置エネルギーがその意味になる。その物理学理論の『エネルギー』は何となく見えるような気がするかも知れない。ボールが飛んで行けば、その速度で運動エネルギーを感覚的に理解できたように思う。しかし、その飛ぶボールを見ても、ボールが見えるだけで『エネルギー』などどこにも見えないし測れない。速度と質量から計算式で算定することはできるが。蓄電池は電気エネルギーを蓄えた電気製品だ。しかしその貯えたエネルギーを認識できない。どんな像であるかを理解できない。代わりに『電子』で代用して理論を作り上げる。しかしそこでも『エネルギー』を説明出来ない。

貯蔵電気エネルギー。電気回路で『エネルギー』を貯蔵できる要素はコイルとコンデンサである。しかしその『エネルギー』を、その像を見る事はできない。また、抵抗も『エネルギー』を貯えない訳ではない。抵抗もその構造体の中に『エネルギー』を貯えるから、時間積分で温度が上昇する。だから『エネルギー』を貯えたことには間違いがない。しかし、電気回路にその『エネルギー』を再び戻す働きを持っていないのが抵抗体の不思議な機能である。

『エネルギー』

エネルギー W[J] を青色で描いた。それが電気要素の空間に存在する『エネルギー』である。描いて示したと言っても、それは科学的な検証に耐える証明が出来ない。だから物理学理論の概念には成り得なかったのかも知れない。見ることの出来ない『エネルギー』を、その空間像だと言って描いても、物理学理論の概念として受け入れられる論理性もないし、実測できる保証がないから、絵に描いた「餅」と言われても当然のことである。その意味ではこの空間の『エネルギー』の概念認識が無い物理学理論を非難できないかも知れない。それでもこの空間の『エネルギー』を認識することが自然現象を理解するには欠かせない。何か「電荷」の実在を頭ごなしに押し付けるのと、空間の『エネルギー』を押し付けるのと何処か似ているかも知れない。それは電気回路の現象を多くの観点から、各人が確認しながら納得する以外ないのかも知れない。磁石の周りの空間の『エネルギー』の流れと同じことなんだろう。見えないものを在るとは強制的に押し付けるべきではないから。

電気理論による数式で表せば、

コイルのエネルギー     W =(1/2)L×i^2^ [J]           (1)

コンデンサのエネルギー  W = (1/2)C×v^2^ [J]         (2)

となる。このような数学的表現で纏められる意味はとても大きな科学技術の業績である。いくらコイルの中に『エネルギー』があると力説してみても、その量を計れないことを知れば、(1)式が如何に優れた技術的表式であるかを理解できよう。『電流』と言う技術概念とその測定技術が如何に優れたものであるかを。しかし電線導体の中を『電流』や『電子』などは流れていないことも知らなければならない。そこに科学技術と自然現象の真理との差を知る必要が有るのだ。『電子』での解説者は、そこに『エネルギー』の認識を解説する義務がある事もまた分かってほしい。

電気技術論によってこの数式で算定はできるが、決してコイルやコンデンサの中に蓄えられた『エネルギー』は観えないし、測れない。コイルの空間に『エネルギー』があると理解するためには、電気回路技術の多くの計算を通して、感覚的に認識することが大事だ。学んで、そこから深く理解するには、疑問を抱き分からない不思議に直面して、そこを乗り越えて感覚的に納得できるのだろう。『電流』が流れていないことを理解する迄には、長い難しい道を辿る必要があるかも知れない。

電圧は『エネルギー』の評価技術量。見えない『エネルギー』と電圧の関係を考えてみよう。不平衡の空間の『エネルギーギャップ』を電圧として解釈している。コイルとコンデンサの貯蔵エネルギーに対する、その端子電圧には特徴的な差がある。コイルの中の『エネルギー』量を外から推し量ることはできない。一定値の安定した『エネルギー』の貯蔵状態では、端子電圧は零になり、『エネルギー』の量を推し量れない。一方コンデンサの場合は、その貯蔵の『エネルギー』量は端子電圧に直接現れる。コイルもコンデンサも貯蔵する『エネルギー』に違いがある訳ではない。同じ『エネルギー』を貯蔵するのである。同じ『エネルギー』を貯蔵する、その金属導体によって作られる空間構造が違うだけだ。貯蔵するのは『電荷』でもなければ『磁束』でもない。それは見えない『エネルギー』なのである。

電圧 [V] の次元は [(J/F)^1/2^] 。

電気物理(電圧時間積分とエネルギー) (2019/03/26) との関係での記事となる。

線路定数L[H/m]、 C[F/m]の『エネルギー』と端子電圧の関係を考える。線路容量Cに関わる『エネルギー』分布密度をw[J/m]とする。負荷のコイルとコンデンサの貯蔵エネルギーをW_L[J] W_C[J]とすれば、次の式で表される。

貯蔵『エネルギー』量はそれぞれの要素の端子電圧との関係で決まる。

wL は端子電圧が掛かる限り、その時間積分で増減する。コンデンサのwc は端子電圧そのものが貯蔵エネルギーを表す。この式から、端子電圧は次の図のような意味と解釈できる。

(1) コイルの端子電圧の意味。電線路に繋がれた負荷のインダクタンスLl[H] とする。コイル端子の電圧もその次元は [(J/F)^1/2^] である。コイルが繋がれた電線路は回路定数 C[F/m]の『エネルギー』分布空間である。コイル端子が繋がれた外部条件によってコイルへの『エネルギー』の入出力が決まる。電線路の『エネルギー』がコイル端子の電圧を表している訳である。電圧がコイルに掛かれば、コイルの『エネルギー』は変化し、その微分がまた端子電圧でもある。

(2) コンデンサの端子電圧の意味。容量 Cl[F] のコンデンサ負荷が線路に繋がれている。コンデンサの場合は、線路『エネルギー』分布により、コンデンサとの『エネルギー』は線路定数 L[H/m] を通して行われる。そのコンデンサの端子電圧はコンデンサ自身の保有『エネルギー』量によって直接決まる。コンデンサ内の空間ギャップでの『エネルギー』の空間分布構造が如何なる形態であるかを判断しなければならない。誘電体の分子構造内に貯蔵される訳であろうから、『電荷』否定の上での捉え方としては分子内での軸流以外予想できない。電極の負極側の高密度分布が予想されるが、未だにその誘電体分子構造内の空間エネルギー分布流は不明だ。結局は、磁性体内と誘電体内で同じような軸性エネルギー流になるかも知れない。前にコイルとコンデンサの磁気ループ (2016/07/13) に考え方を示したが、誘電体での微視的分子構造までは考えていなかった。電極間の『エネルギー』不均衡分布が電圧だという解釈との整合性をどう認識するかの課題かもしれない。

何が電池電圧を決めるか?

電池電圧と『エネルギーギャップ』 (2016/05/08) で考察したが、『電子』ではその訳を説明できない筈だ。電池は『エネルギー』の貯蔵器で、『エネルギー』を使っても端子に現れる電圧は常に一定値である。その電圧を決める意味には『電圧』とは何か?の「問」が示されている。『エネルギー』と電圧の関係が問われている筈だ。ここにまとめの意味を含めたい。

『電圧』という意味

電気理論の基礎概念は『電圧』と『電流』である。

電気の話をするには『電圧』が基になっている。電圧計で測れば針が電圧値何ボルトと表示する。電気回路に示される自然界の真理は電圧計に示されている。と誰もが分かり、疑問を抱かない。

交流電圧。

交流電圧は正弦波も一つの標準であり、それは図のように示される。このような波形を見て、その意味をどのように解釈するだろうか。

物理的実在量『エネルギー』の空間分布量を評価する技術概念量が『電圧』である。

電圧波形は時間で正弦波状に変化することを示している。その電圧値は何処の値と理解するでしょう。電気常識に依れば、電源端子の電圧が電線と負荷の電圧の総和に等しいと解釈する。しかしその解釈には、電線路空間内の『エネルギー』など何処にも意識する事はない。この常識的解釈法には負荷に『エネルギー』を供給する伝播現象の意味が見えない。

電線に電圧を掛ける事は、水路に水圧を掛けると同じ意味で、水の流れと同じく『電流』が流れる必要の論理展開にならざるを得ないことになる。そこで『エネルギー』が電源からどのように負荷に伝送されるかと尋ねれば、物理概念に空間に独立した『エネルギー』が存在するという認識が無いから、答えが出来ない。結局『電子』が『電流』と逆向きに流れると解説するだけで、『エネルギー』の伝播現象を解説しない。

電線路の『電圧』とは電源から負荷まで、すべて電圧位相が異なるのだ。電源から負荷まで電線路『電圧』の値は同じくないのだ。電線路空間を光速度で流れる『エネルギー』の分布量を評価する技術概念であるから。要するに、空間の『エネルギー』を意識しない限り、電気回路現象の本当の姿は理解できないのだ。

易しいと思う事の中にも、とても難しい事が隠されていると思う。分かるという事は、分からないと疑問に思う事から初めて辿り着ける事のように思う。

『電圧』と『エネルギー』の関係を記す前に。

分かるという事

何にも知らないで過ごしてきた。

自分のことが最大の謎になった。

知らないという事に気付かないで過ごした。

ただ電気現象だけに意識が向いていた。

分からないと気付いた多くは電気現象であった。

分からないことに気付いて初めて分かるのか。

『電荷』が存在しないと分かるとは、

それは余りにも大き過ぎる分かるという事だった。

分からないとは気付かない事だったんだ。

気付かないことが最大の恐怖になった。

言葉とその意味(日本国憲法に観る)

日本国憲法前文。

日本国民は・・・。・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

とその前文に在る。とても崇高な現代精神がうたわれている。

戦後75年を振り返り、今ある大切な日本を思う時。日々思い感じる事どもに、何か深い悲しみを覚える。この日本国憲法は、昭和22(1947)年5月3日に発布され、新しい民主主義の国として出発したことを祝い、憲法発布記念日として、その5月3日が祝日に指定されている。2000年代に行政改革の名のもとに、行政を監視する「行政管理庁」も現在の総務省内にお隠れになった。政府提出の法律が憲法違反でないかを監視する役割は内閣法制局ではないのか。憲法前文の精神はどのように法律に反映されるのか。

戦後多くの苦しみと屈辱を受けてきた法制度がある。優生保護法による人権侵害が何処に憲法精神の意味を具現していると言えるのか。法律は憲法精神によって、それに反することは許されない筈だ。時効が20年とは、憲法前文に反した違法の法律に正当な意味が有るのか。この度の最高裁の判決(泉佐野市の故郷納税訴訟問題)では、誠にその通りと理解できた。

最高法規という意味が理解できないのだ。

第10章 最高法規 第98条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。 ② 日本国が締結した条約・・。

人権保障の日本国憲法の精神は日本にはないのか。最高法規という意味に理解が出来ない。

裁判官には、憲法の精神を肝に銘じて裁判を行う権威と義務が課せられていると思う。

第3章 国民の権利及び義務

第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。と言う法律とは何か?

この国民たる要件はどの様な法律で定めるのか。具体的に誰でも分かり易い事が求められる。

その亡霊の如き「法例(明治31年)」が憲法を支配しているようだ。昭和39(1964)年改正(池田勇人内閣)。昭和61(1986)年改正(中曽根康弘内閣)。平成元(1989)年改正(竹下登内閣)。これらの改正の意味は何か。

法例第3条[行為能力] 人ノ能力ㇵ其本国法二依リテ之ヲ定ム②外国人カ日本二於テ法律行為ヲ為シタル場合二・・・。

この「人ノ能力」とは日本国憲法の基本的人権を明治時代の「法例」が規定する異常な日本の法律体系に思える。

聞こえてくるのだ。昔の声が。「アジャパー」とか「無茶苦茶で御座りまする」などと仕組みを嘆く声が。

日本国憲法は日本の手本 (2015/06/03)  、日本語に愛を―憲法と日本人― (2015/07/31) 。

エネルギー伝播現象

新しい観方をまとめるに戸惑いもする。次々と新しい姿が現れてくるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

エネルギー伝播と空間特性。図の電線路の回路定数は導体によって構成される空間の構造が決め手となる。その係数を空間構造係数 k とする。

この空間構造係数 k は分布定数回路空間の世界 (2019/10/14) で定義した。平行導線の間の空間の構造係数である。

長く電気現象を理解しようと、その電気回路の中における物理的特性の解釈での疑問と格闘してきた。教科書の理論解説では満足できず、何時も『解らない?』と自己問答に陥る。今確信に在る思いは、余りにも単純でありながら、その姿は科学理論とは懸け離れてしまった。そこには『エネルギー』一つの姿しか見えない。自然の中に少しは科学論らしい姿を表現しようとすれば、哲学的課題との関係で空間構造の解釈になる。電気現象の哲学的課題 (2020/06/21) からの続きでもある。ITの検索には、小学生から中学生の学習のための記事に、電流と電子の解説が多くある。新聞の科学記事でも、科学常識の解説で啓蒙される。そこには『エネルギー』の大切な話は全く見えない。『電子』など決して電線金属の中に流れる訳がないのに、教科書はじめ専門家が『電子』が流れると解説している。筆者が投稿する記事は殆どが教科書の科学理論の矛盾を説くものである。『電子』が流れると解説されれば、それは『嘘』だと言わなければならないから。しかし誰も、物理学の専門家もこの記事に反論を寄せない。科学は専門の科学雑誌に投稿して初めて科学者の資格が得られると見做すのだろう。教職の資格も、所属もない者は無視される?

電気回路はその空間を『エネルギー』が流れる技術装置なのだ。『電流』や『電子』など何処にも流れてはいない。空間のインダクタンスと静電容量と言う二つの科学的評価基準で解釈する人間的な認識なのである。上の図は、光は自由空間を光速度で伝播する。電気は電線で囲まれた空間をやはり光速度(電線が裸線の場合)で伝播する。ここで解説する論の最大の欠点は、空間を伝播する『エネルギー』を科学技術的実験で観測し、検証できない事である。

エネルギーの伝播像。その『エネルギー』は伝播定数γ=√(LC) =√(μoεo) [s/m] の速さで伝播する。

先に結論を図で示す。この図に示した黒い点々の影が空間を伝播する『エネルギー』だと言っても、それは物理学理論には無い概念であるから、理解できないかも知れない。『エネルギー』とは何か?を理解するには、物理学理論の多くの用語の意味を自己流に噛み砕いて、日常用語で表現してみて確認する以外には分からないかも知れない。この『エネルギー』は運動エネルギーでも位置エネルギーでもない。交流電気回路のエネルギーは図のように電線路電圧の負側の電線近傍の空間を光速度で伝播する。電流も『電子』も全く関りが無い。金属電線の中など何も流れて等いないのだ。それは光の『エネルギー』が何も無い空間を『振動数』など何も関わりなく伝播することと同じ現象と見做せる。なお、光エネルギー像に描いた像は軸性光量子像 (2019/11/11) に示した解釈である。ここに示した電線路の場合は、この平行導線間の空間を伝播する『エネルギー』は裸電線で、電源が交流電圧の場合を想定している。電線路電圧v[V] とは次元[(J/F)^1/2^]の電線路間の『エネルギー』分布量の評価技術概念である。電圧の負側の電線導体近傍空間を伝播するから、半サイクルごとに図のように分布が反転する。『エネルギー』の分布量は電圧が v[V] の瞬時値なら、回路定数 C[F/m] によって、Cv^2^[J/m] である。このエネルギー分布像は電線路の物理現象としての意味であり、実際には電線路上に図のようなエネルギー分布がある訳ではない。電線路長は長くても送電線路で数百km であるから殆ど電線路の送電端と受電端との電圧位相差は問題にしない。(例えば)50Hz波では、

波長λは右の様に実際にはありえない線路長となる。

理科教育と『電子』。The electron did not exist in the world. (2020/05/15)

電線路導体に『電子』など決して流れていないので、子供達への教育で「嘘」を教えてはならないことを伝えたいのだ。教科書を書かれる方々によく知って頂きたいのです。電線路の『エネルギー』は光速度で伝播する事は間違いない。決して『電子』がそのような電気エネルギーを運べる訳が無いのです。『電荷』はこの世界には存在しないのです。反論やご意見をお聞かせください。

戦後75年間の不可解?

わが身に起きた愚かさの思いと戦争と政治の現実を伝えたくて。行政とは何か?

人権と政治行政の関係。人が人として平等に生きる社会でありたい。行政が人の個人としての情報をどのように取り扱っているかを教えることが民主主義の教育の基本の筈である。三権の意味や日常の生活で誰もが意識して居なければならないことがある筈。戸籍の意味。住所届の必要性と意味。労働契約の意味。知らないでは済まないことをすべて教える義務が教育機関・行政に課されている筈だ。それが民主主義と言う社会制度における義務教育に課された役割である。隠して、不平等は許されない事だ。筆者のような無知による愚かさを生きないで済むように。

日本国憲法。労働基準法。教育公務員特例法。その法律の存在する意義は何か?人権とは?

今から56年前の昭和39年6月16日。新潟地震が発生した。その時、新潟県立新津工業高等学校の電気科実習室に居た。遠く蒲原平野の先には新潟コンビナートの石油基地がある。その燃える黒い煙が遠くに見渡せる場所だ。揺れる中で、危険も顧みず大きなボール盤を倒れないように抑えていたことを思い出す。帰りは列車もなく、兎に角帰ろうと徒歩で帰途に就いた。途中でバスに乗ることが出来、乗り継ぎながら長岡までたどり着いた。その年の春4月から、そこで教育と研究の仕事で16年間過ごした。今日こんな写真を見つけた。忘れていた。昭和39(1964)年の7月とある。秋には東京オリンピックが10月10日開会式での祭典があり、その初年度に参加していた。申し訳なくも最前列で写って居た。主催:全国工業高等学校長協会。後援:島田理化工業(株)、三菱電機(株)。90名ほどの参加者。

しかし、新潟県教育委員会と言う教員の採用機関に採用されていなかった。教員は『公立学校共済組合』に登録して、正式な教員と認定され、正規の処遇が成されるようだ。愚かにも筆者は新潟県教育委員会での採用事務説明を受けたことも、その採用に関わる諸手続きをしたことも無かった。新潟県教育委員会に出向くことが全くなかった。しかし、愚かにも少しも採用されていないなどとは気付かなかった。

不可解と疑いの関係事項

1.学級担任。

2年目(1965)4月から、学級担任を任された。電気科2年生、翌年続いて同3年生で卒業させた。その年(1965)の夏休み中には、教育委員会の指導課からの要請で工業科教員の研修講習会に参加した。茨城県の日立製作所の各工場、最後は本社研究棟で1週間程の研修を受けた。各県からの指導的中堅(筆者を除き)の参加教員での構成(7人程)であった。

続いて4年目(1967) から再び2年間、電気科2年生、同3年生の担任をした。そして卒業させた。4年続けて学級担任をした。その訳は何故か?昭和50年度も電気科2年生、翌年3年生と続けての学級担任。アルバイトでの学級担任とは子供達に対して許されない筈だ。

2.半年間の内地留学

昭和44年(1969)、丁度大学紛争で荒れていた頃であったが、希望して東京工業大学の電気工学科の研究室に内地留学をさせて頂いた。秋の10月1日から翌年3月31日までの6月間であった。確かに今になって考えれば、その内地留学申請書を正式に提出した覚えがない。その時は高野校長であった。どの様な手続きであったか不明だ。それ程世間知らずで居たかとお恥かしい。その内地留学で、最新の研究室の魅力を経験し、パワーエレクトロニクスの技術の高さとその魅力に取りつかれた。学校に戻ってからは、実験室に閉じ籠り、新しい半導体制御技術を生徒実習に取り入れようと実験装置作りと自己研修に深入りした。電力用半導体制御回路、ワードレオナード等を生徒実習に取り入れる等は指導要領の逸脱であったかも知れないが、全国的にもおそらく無かっただろう。電動機の始動法などには意義が見えなかったから。

最大の不可解

3.新潟県教育委員会の任命状および委嘱状。「知事部局」からの手紙。

昭和53(1978年)母が亡くなり、長岡市役所で何かの手続きをしていた。急に呼び出しの管内放送が掛かった。電話だと言うので出ると、新津工業高校の八子校長であった。内容は⦅県からの引き受けて欲しいという話がある。承知した方が良いが、どうするか?⦆と言われた。「分かりました」と答えた。今は、その事の意味が悪意に満ちた「策略」以外に何も思えない。新潟県教育委員会に採用されていない、全く新潟県教育委員会には教員としての管理台帳もない筈だから。

それは昭和53(1978)年4月28日。任命状 発令者は新潟県教育委員会教育長。

 

 

 

 

 

 

 

この、工業「電気工学1」の専門調査員に任命する。㊙の文書である。筆者は「電気工学1」(電気理論)の授業担当をしたこともなく、専ら電力系(電気機器、発変電、送配電など)の授業しかしていない。この指定の日に参加したことは確かである。しかしその一度きりで、内容は3回とあるが他に調査の会合への連絡もなかった。その担当の代表者は長岡工業高等学校の柳町教諭であった。何の意味の㊙任命状か?これが教育を担う教育委員会の事務責任者、行政職の教育長の発令とは如何なものか?教育委員長ではないところに『教育の政治からの中立性』が懸念される。

 

翌昭和54(1979)年6月にはまた委嘱状が来た。

この委嘱の意味は、その年の7月16日から7月21日までの 昭和54年度産業教育指導者養成講座(工業科)ー文部省主催の東京工業大学での養成講座ーでの講座参加の意味であったのか?

 

 

 

 

実はその後に、とんでもないことがあった。夏休みに入ってから、突然自宅に「新潟県知事部局」から極秘の書面が届いた。しかしそれは結局新潟県教育委員会が取り仕切る『県外先進校の視察業務』であった。昭和54(1979)年8月6日~8日の2泊3日の工業科指導主事の指定の高等学校訪問であった。昭和57年度から新しい教育カリキュラムが実施されることになっていた。工業科の教科内容が大幅に変更され、学習能力の或る意味での対策でもあったのかとは思う。当時長岡技術科学大学が開学され、そこで少し研修を受けていた。

その昭和54(1979)年の12月初めに、川上学長の面接を学長室で受けた。「割愛人事」だと言われた。しかしその意味も知らなかった。その後いろいろ不可解な事があったが、翌(1980)年3月7日に、長岡技術科学大学で『宣誓式』があり、行った。電気系の二人の先生と3人一緒であった。その日は工業高校の卒業式であったが、教頭に連絡して欠席した。3月末に教員移動が新聞に掲載される。自分の名前も隅に、「退職」?とあった。新潟県教育委員会の発表として。正式登録も無い者を社会的に体裁を取り繕った行政手法としか思えない。筆者の採用を管理していない訳だから。

その後の長岡技術科学大学での処遇はどう考えても闇の中での取り扱いであった。正規の事務的手続きは全く執り行われていなかったようだ。『文部省共済組合』への登録手続きもしていない。だから教員とは見做されていなかった筈だ。大学に入る時も、去ってからも一切事務手続きに関わったことが無い。それを人権侵害と言わずに何と言えるか。

自己反省。何でここまで愚かな人生を歩いて来たかと呆れるだけだ。すべてが暗闇の中を過ごしてきた。一人の人間としての取り扱いをされていなかったように思う。意味の分からない事ばかりに最近になって初めて気づくのだ。電気学会に加入していなかったように思う。会費を納めていなかったから。新潟県長岡市学校町に古家を購入して住んだ。

以下については、不動産屋が処理していたようだ。当時の話を後で何故かと思ったことがある。原戸籍や除籍簿を要求された。今ならその訳が分かる。

しかし、その不動産登記(?)もなく不動産取得税も請求された覚えがいなかった。銀行通帳が無かったから、銀行の借入金も通帳に記録がない筈だし、給与の振込もないし、記憶にない。全く不可解だ?

新潟県教育委員会(新潟県知事)にお尋ねしている。

先般、正式の教員として採用していない。新津工業高等学校での非正規アルバイトのような仕事であろう。公立学校共済組合員の登録はない。と教えられた。

確かに給与の振込銀行口座も無かった。昭和55年の給料明細書に、共済短期掛金:9110円。共済長期掛金:12908円。は何処に収めたのか?さらに電気科主任手当てが支給されていた。しかし振込先は労働金庫本店口座である。しかも昭和55年4月分として5360円の振込がある事になっている。既に存在しない職務に支払われたのか?何故私の銀行口座が無かったのか?すべて印鑑を押して、手取り額の支払いを受け取っていた。考えれば、内地留学中の給与は受け取っていなかったのかと理解できない?

公立学校共済組合にも登録されていない者が、新潟県の産業教育指導者養成講座への参加要員として選定されるのか?新潟県教育委員会には筆者の教員としての管理台帳もない筈だ。しかも文部省主催の講座である。文部省が正規の教員でないこと位知っていた筈である。上のことについて回答を待っている。

それから、僅か6年後の昭和60(1985)年3月長岡技術科学大学から長岡工業高等専門学校へ邪魔者排除の対策が採られた。其れが中曽根臨時教育審議会である。文部省はすべて承知の上で(舞鶴鎮守府戸籍転籍)の社会的に抹殺する仕組みを執ったとしか思えない。政治には全く無関心のノンポリであったが、その後の数年間で経験した理解できない社会的不条理に身の危険を感じ取り、止む無く昭和63(1988)年身を隠さざるを得なかった。理解しかねる身に降りかかった「不可解な出来事」の意味を解くための長い暗夜行路の旅であった。振り返れば新潟地震のあの災いが56年間の闇の始まりであった。

舞鶴鎮守府と義務教育。

昭和20(1945)年4月、京都府舞鶴市の舞鶴国民学校に新1年生として入学した。8月15日の終戦を迎えた。その後故郷には昭和24年4月まで『戸籍』が無かった。恐らく新潟県中魚沼郡貝野村立貝野小学校には転校手続きもなく、中学を卒業するまで、義務教育の履歴が日本政府機関には無いと思われる。

舞鶴鎮守府の軍の公舎で、その館に入った処の右側に大きな「鯉の滝登り」の絵図が掛けられていたのを覚えている。その館の前広場に、戦闘機か小型の飛行機が据えられてあった。父ともう一人の軍人が飛行機に乗せてくれた。精々2人乗り程度の座席であった。

昭和14年(1939)12月1日。舞鶴鎮守府へ戸籍転籍 貝野村役場 村長。  昭和16(1941)年 9月2日。充員召集 舞鶴鎮守府。   昭和16年12月19日。香取丸へ戸籍移動 香取丸。   昭和20年(1945)9月1日。海軍上等兵曹。(以上、父の軍歴票)。

昭和19年2月7日。香取丸被弾沈没。   同年3月31日。香取丸船籍除籍。

昭和20年4月。舞鶴国民学校へ新1年入学。  昭和20年8月15日終戦。終戦時の住所:京都府舞鶴市字溝尻 海軍住宅。即刻、父(戦後の後片付けがある)を残して汽車を乗り継ぎ故郷に帰る。

昭和20年8月28日。厚木基地にマッカーサー司令官着く。   昭和20年9月2日。ミズリー号甲板で日本代表団、無条件降伏調印式。

昭和22年5月3日。日本国憲法発布。   昭和23年1月1日。民法(戸籍法)改正。

昭和24年4月・・日。父母の子供(三女)の出生届により戸籍編成と戸籍事項。昭和14年からの舞鶴鎮守府の関連期間が記載なしの不明のままだ。

今ようやく専門家(?)として、電気現象の意味を自然界の中の深い『エネルギー』の仕組みとして捉えるところに到達した。しかし、日本社会の中で、得た認識をどう生かせるのかとその社会的活躍の場が見当たらない。余りに己の愚かさを日本社会で弄ばれている様だから。日本が法治国家なのかと理解できない!

電気現象の哲学的課題

1990年(平成2年)に『JHFM』単位系-エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系 (2010/12/18) ーを作った。自然現象は『エネルギー』がその根源をなすとの認識である。その時の課題が真空透磁率μo[h/m]と真空誘電率εo[F/m]の『エネルギー』の伝播現象に果たす空間構造の哲学的解釈であった。

伝播定数γ=√(CL)  [s/m] 。それは『エネルギー』の単位長さを伝播するに要する時間。光速度と同じ物理的意味であるが、光速度の逆数で評価するものでもある。記事、空間定数とエネルギー伝播現象 (2019/09/14) が参考になるでしょう。

電線路空間は線路定数によって統一的にその特性を評価できる。その電線路空間を伝播する『エネルギー』の特性を特徴付けるのは電線路単位長当たりの C[F/m] およびL[H/m] そして伝播定数γ[s/m]である。線路定数は分布定数回路空間の世界 (2019/10/14) に示した。

電線路の電気現象についてまとめるにあたって、今も自然の時空構造をどう解釈すれば良いかと疑問のままであるので、最終的課題として提起しておきたい。

ロゴウスキー電極空間の磁界

はじめに(2020/06/09)。
電気工学の分野に「高電圧工学」がある。高電圧送電系統の安全設計に欠かせない基礎工学部門である。雷が送電線路に及ぼす影響を調べるに、高電圧放電現象を研究する標準電極がロゴウスキー電極である。直流の高電圧をその電極間に印加すれば、その空間は静電界と言う電場になる。電気理論では、その電極の間の空間には一定の静電界が両電極のプラス、マイナスの『電荷』によって発生すると成っている。決して磁界は存在しないことになっている。実は大学の卒業研究が高電圧のアーク放電に関するものであった。電力回路制御論と電気磁気学理論との理論的統一への道が高電圧工学のロゴウスキー電極間の空間のエネルギー流に導かれて、今日の物理学理論の根源を問うことになった。The electron did not exist in the world. (2020/05/15)。それは1987年春からの、中曽根臨時教育審議会(*)の不気味で、不可解な中での政治と教育の中立性に関わる事件とも言えよう。

静電界中の磁界。初めに結論を示そう。それが下図のロゴウスキー電極間の空間のエネルギー流である。自然界には『電荷』は存在しない。だから、高電圧工学の研究の基礎概念である『電荷』による電極空間の電界は実際はその空間を還流しているエネルギー流の場である。その空間にマグネットを設置して、いわゆる電界強度を強めれば、磁石のマグネットの向きが変化する。現在の科学理論の『パラダイム』では解釈できない現象である。以下の記事の結論を示した。

 

ロゴウスキー電極間の空間に、磁界が存在することを実験で確認した。今になれば、電界と磁界は単独の電磁場とはならないことを当たり前のことと認識している。だから静電場に磁界が在って当然との認識に在る。しかしそれは、現在の電気理論の教科書の解釈には無い。それが「科学パラダイム」と言う現在の科学理論の世界に問う緊急の課題でもあることになる。

『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質-
その実験結果の写真は Friction heat and Compass (2020/03/22) でも説明した。

『静電界は・・』の結果の、そのむすびに、 4. 実験事実に基づいた電磁界への考察と課題 として良くまとめてある事を知った。現在は、そこで指摘した課題を忠実に確認して、全体像として科学理論の矛盾を解明してきたと一つの安堵に居る心地だ。その翻訳を印す。

以下の翻訳文の中に出てくる方程式とその番号(3)、(4)および(5)を示した。これらの式はマックスウエル電磁場方程式を光速度ベクトル c=cj によって表現したものである。エネルギーの伝播方向を座標のyj軸とした。なお、(3)式はポインティングベクトルであるが、この式は瞬時値としては余り意味が無い(1秒間の値と見える)ので、別に取り上げて論じたい。
(翻訳)
4. Consideration of electromagnetic fields based on experimental results and future challenges. It was experimentally confirmed that a magnetic field exists in a constant electric field (electrostatic field) as shown in equation (5).Therefore,it can be said that equations (4)and(5) are basic equations that express the essence of electromagnetic fields.The meaning of equation (4) also includes the concept that there is an electric field around the permanent magnet and the earth,and there is also a flow of electromagnetic energy. Next we discuss the relationship between “charge”and”energy”as an important point discovered from the experimental results.Figure 3.The fact that the directions of b and c are opposite,we must conclude from Equation(3) that the directions of electromagnetic energy flow are opposite in b and c. This means that “positive charges”radiate electromagnetic energy to the surrounding space,and “negative charges” have the property of absorbing energy from the surrounding space.Although the current electromagnetic field theory is constructed based on the concept of Coulomb force acting between electric charges, experimental facts demand the need to regard it is “field proximity force”from the concept of electromagnetic energy flow.I am keenly aware of necessity of revising the laws supporting the current electromagnetic field theory from the electromagnetic energy flow and it’s propagation trajectory.

新世界―科学の要― (2015/03/05) にロゴウスキー電極間の空間のエネルギー流を示した。その意味を冒頭に既に示した。結局その結論が上のむすびで述べた目標であった。

ロゴウスキー電極の負極性の電極間のエネルギー流は、Fig.Energy flow and proximity action force. の図のように流れると一つの結論に到達した。そこにはマグネットの磁極近傍が Axial energy flow の場であるとの解釈が必要だ。その事によってはじめて電磁場の電磁力がエネルギー流間の近接力によるとの解釈に至る。発表当時に予稿論文で述べたとおり、下部電極側は正の電荷として理論は捉えているから、そこからエネルギー流が外向きに流れ出る意味で同じことと言えよう。上部電極は周辺からエネルギーが流れ込む意味で、適切であった。

「課題」アーク放電に関して。図のような静電界中のエネルギー流で解釈する根拠はあくまでも感覚的なものに依るため、論理的な論拠は無い。場合に依れば異なるエネルギー流であるかもしれない。図の解釈では、「アーク放電」の発生原因を説明する論拠の見えないことが欠点である。負電極面から流れ込むエネルギー流が電極空間で竜巻状に回転しながら正電極側から外に流れ出るのかも知れない。そこに軸流によるアーク放電路の発生が見えるかも知れない。なお、負電極近傍空間がエネルギー密度の高い不平等電磁場空間(エネルギーギャップ)が電圧の意味である。

今でも驚嘆に感じることは、イギリスのバートランド・ラッセル博士の『物理概念はエネルギーに集約されるだろう』と言う自然世界への感覚である。博士に拍手。

(*)戦後75年を前にして。思う事様々に。

光の相対速度と空間

Light never makes its way for the observer.It’s just a matter of nature. (2020/06/04)

光とは世界の不思議を背負っている。道端に咲く花をみれば、その鮮やかな色彩も光の姿だ。不思議が故に、その科学論も不可解な世界を生み出す。1675年の昔、レーマーが光の速度の測定をして、毎秒22万kmの有限な速度であることを発見した。それは観測者と光の関係が相対性であることをも示している。素敵な感性に基づく実験による業績だ。しかし1905年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を発表した。アインシュタインは光の速度測定の実験はしていない筈だ。光速度はほぼ30万km毎秒と今は理解している。空間定数とエネルギー伝播現象 (2019/09/14) 光はその伝播する空間媒体によってその速度が決まる。金属導体があればそれは障害となり、回析現象も起きる。光は空間エネルギー分布波であるから。電磁波とアンテナ導体との関係と同じ性質を示す。その上で、『光速度一定』とはどの様な空間座標に対しての意味かをハッキリさせなければならない。

光はいつも『相対速度』で観測される。光は厳正な世界創造の役割を担っているから、決して観測者に対して光速度一定にはならない。空間と時間を司っているから。光は基本的に一定の光速度で空間を伝播するエネルギーの縦波である。その基準空間は光の光速度によって規定される世界の標準であるから。一定の光速度の光の観測者が、その基準空間座標に対して静止していない限り相対速度で観測することになる。天体からの光となれば、観測者との相対運動によって、それは『相対速度』になる。しかも地球上での観測となれば、地球の運動体の速度の影響がない筈はない。光は魔術師ではないから、規定の光速度であれば必ず相対性の基に在る。朝日と夕日の太陽光線は何故違うか。当たり前の現象を素直に観測して考えてほしい。光も空間に分布したエネルギーの周期波でしかないのだから。何も振動する物理量など無いのだから。観測上直交成分で観測できたとしても、観測技術の問題でしかないのだ。電気回路のエネルギー伝播現象と基本は同じものだから。電気回路のエネルギー流を電圧と電流で解釈する技術概念と同じものでしかないのだ。古い投稿記事に、光の速度と空間特性 (2011/5/22) がある。その記事は分かり難い。改めて、大切な内容なので、ここに再度書き直す。電気現象の解釈で、光エネルギーの伝播現象の理解なくしては困難であるから、『電荷』否定と同じく統一的な基本に光の解釈が重要であるから。

光規定空間

光が空間と時間を司る。その意味で、光の速度と言う解釈の基本に、その空間の定義が明確でなければならない。図は地球での観測になっているから、回転体の空気層に包まれた観測環境は理想的ではない。光の伝播に障害となる地球であることは間違いない。しかし、天体からの光がどのような空間で光速度一定という意味を認識できるかを考える意味で取り上げる。星から光が放射されたとする。その速度はどの様な空間に対して時間と空間長さを規定して伝播するのだろうか。決して地球上の観測者の運動に合わせて速度を決める訳ではない。光が伝播する直線状の伝播距離と時間は決まった光の速度によって規定される筈である。その軌跡によって光の速度を規定する空間座標を想定することが出来よう。その光が障害のない空間に付けた道が直線で規定する空間座標が定まる空間を『光規定空間』と定義する。その空間に於いて光は『光速度一定』と言える。

光相対速度のベクトル図

光の伝播を空間ベクトルで解釈する。光規定空間を直交座標 Xi, Yj and Zk で規定する。この座標上で、光の軌跡は直線となり、速度は光速度の一定値となる。光源S(t) が座標原点O(時刻t=0 )で、単位ベクトル nc の方向に光パルスを放射した。光源 S(t) は単位ベクトル ns の方向に速度 V で運動している。

時間 t で光と光源の位置ベクトルは(1)式で示される。

光と光源の空間軌跡の間には単位ベクトルのスカラー積によって、 θ=cos^-1^(nc・ns) の角度がある。さて、光源からの光パルスは光速度で時刻tでは P(t) 点に到達している。さて光源に観測者が居て、その放射パルスの位置 P(t) 点をどのように認識するか。その空間距離は r となる。

その距離は(2)式となる。その距離 r は光源から見た光の時間 t で進んだ距離と見做される。時間で割ればそれは光の相対速度となり。

(3)式となる。この式の意味は、光源から光が放射された瞬間から光源の運動や、観測者の運動には一切関わりなく光規定空間で光速度一定の速度で伝播することを示す。その光と時間と距離の関係は全く普通の相対関係にあることを意味したものであり、決して特殊な関係は無いという意味である。

そこには運動体上の観測者と光の速度の認識の基本問題が存在する。もし角度が、θ=π とすれば、観測者と光のパルス間の距離は相対的に光速度と観測者の速度との加算となる。

光の相対速度 cr

相対速度 cr (3)式。光が相対速度に関して、特殊な意味など持っていない。

むすび

光はすべてのものに平等である事をその基準としている筈だ。科学理論においても特権階級の席は作らない。