電気回路の電圧と電流

何を今更(2020/11/27)。

電気回路の解析法は既に確立している。何を今更と思う方が多かろう。電気磁気学で詳細に理論的に完成していると。

自然の原理。電気回路はエネルギーの伝送回路である。その『エネルギー』の伝播現象を支配するのは『光速度』である。では電気回路理論は『光速度』で論じられているか。全く『光速度』など電気現象に無関係の理論である。自然現象はその根底を光の速度が支配している。電圧も電流も『光速度』に無関係ではあり得ない。

電線路に電源を繋ぐ。その電線路の電気現象は何によって決まるのだろうか。それは主に3つの条件で決まるだろう。先ず、電源の電圧そして電線路の回路特性更に負荷の特性。この3つの条件と位置と時間によって決まる。それらの条件によって、電源の供給する『エネルギー』が基に成る。『エネルギー』には伝送分δpと負荷からの反射分δrがある。その『エネルギー』の回路特性によって決まる伝送速度・光速度の支配下の現象となる。この電気現象は電源が直流であろうと高周波信号であろうと、基本的に同じ現象である。自然世界の現象はすべて同じ原理の基に在るのだ。光も電気もみんな『エネルギー』の空間分布波の現象である。

電圧、電流の式。

一般的な表現式。電源の電圧、電流が決まれば、電線路の任意の位置の電圧、電流は右の様に表現される。電圧に対して、負荷特性で電流の大きさおよび正弦波交流の位相が決まる。所謂交流理論で十分解析できる。しかし、この式の中には『エネルギー』の流れる様子は全く見えない。その光速度で流れる意味が全く見えない。負荷に電源が供給するのは『エネルギー』なのである。その『エネルギー』量を計量して電力供給の電気事業の経済活動を行っているのだ。商売の原料は電線路空間を流れる『エネルギー』なのである。しかしその『エネルギー』を直接観測することはできない。何しろ光速度で伝播する空間分布エネルギー波であるから。

電圧、電流を規定する『エネルギー』。

線路位置x点で時刻tにおける電圧、電流はすべてその点を流れる『エネルギー』によって決まる。勿論その電圧、電流の『エネルギー』に基づく瞬時値など測れない。電気技術量としての電圧、電流は単位も[V] [A]であり、[J]で解釈されていない。

電圧、電流を決める、その時点の『エネルギー』分布量が上の式で解釈できる意味のものである。ただし、負荷Zと線路特性インピーダンスZo=√ (L/C) との関係によって反射エネルギーの伝送路が変るかと考える。その点は実験で確認する必要が有る。今線路電流の測定法で、ダイオードでの検出を論じる準備中。

理解の限界

(2020/11/25)。人と社会の理解。教科書には人や社会は、何処までも正しいことを前提に解かれる。競争して、勝ち残る事を学んで社会人になると知った。しかし、生き方の基本を学校で学ばなかった。国籍や戸籍や住民届や労働基準法や採用事務手続きなど、何も学習する機会を得ず、1964年4月1日に新潟県立新津工業高等学校に行き、働き始めた。最近になって、電気回路の現象の不思議を納得するまで考えて、漸くその自然の真相が理解できた。そんな自然現象を幾ら学んでも、人生には活かせないと知った。学問の自由は独り善がりの趣味程度なのかと。

昨日改めて以前(多分、2015年ごろ)長岡技術科学大学から頂いた『免職処分』の辞令とその説明書を読んだ。とても御面倒な説明書を御作りいただき恐縮の限りです。昭和63年10月7日長岡技術科学大学の電気科教授会に呼び出されて、そこで学生実習の指導をするように云々のお叱りを受け入れたとか。その日は琵琶湖の電磁界研究会での発表で最後の細やかな抵抗をしていた頃で、一寸??。とても研究に先行きが無く悩んでいたとご推察誠に恐れ入ります。確かに高電圧実験設備(備え付けるべき基本設備の筈。しかし何処かに消えたのか設備は設置されていない)が無い。だから実験は出来なかったので悩まなければならなかったとご推察頂いたようです。

 

確かに、平成2年7月27日の暑い夏の日に、学校町の住処に大学の関係者が6,7名来られた。それまで話を聞かなかったが、何時までも五月蠅いので根負けしてその日は提示された白紙の紙に拇印を押した。それが、上の免職処分辞令とその説明文を受け取った事に成ったようだ。しかしその時はただ拇印を押しただけで、何も免職処分辞令などの書類は受け取っていない。その処分の日付に関わる新潟県教育委員会の履歴書もそこに見つけた。以下の通り。

2枚の履歴書で、最後に55年3月31日、願いにより職を免ずる。その辞令の発令者が無い。その意味は、昭和55年4月1日大学の辞令には「前職」欄も空欄に通じるのだろう。大学でも、その年の8月に何か人事の処理が成されたようだ。

その発行年月日が平成2年7月10日。丁度長岡技術科学大学で免職処分をする16日前にわざわざ新潟県教育委員会から取り寄せた履歴書である。

昭和39年4月1日 新潟県公立学校教員に採用する。新潟県教育委員会。から始まる履歴書。しかし、採用事務手続きに、新潟県教育委員会に行ったことも無ければ、辞令交付の経験もない。実は4月の給料を受け取って、中身を確認したら「通勤手当」が支給されていなかった。五十嵐事務長に尋ねた。『1ッカ月通勤してみなければ、分からないだろう』と諭された。その月の通勤手当は永久に受け取れなくなった。その後「採用辞令」らしき書面を多分学校でもらった。公立学校共済組合への加入手続きもしていない。

長岡技術科学大学での採用も、教官としての採用には成らなかった筈だ。『文部省共済組合』への加入手続きもした覚えがない。

共済組合および年金に関して。

基礎年金番号:32‥-‥‥41。年金コード1150。交付年月日 平成16年6月2日。 この交付年月日も不可解で、年金番号も登録に見当たらないようだ。

【組合員証番号】

(1) 公立34‐644139(64年4月1日39番?)。

新潟県立新津工業高等学校。s39年4月1日~s55年3月31日。

(2)61‐01007766 長岡技術科学大学。s55年4月1日~s60年3月31日。

(3)58-280   長岡工業高等専門学校。s60年4月1日~s62年3月31日。

(4)61‐01007766 長岡技術科学大学。s62年4月1日~h2年7月27日。

文部省共済組合は大学も高専も同じ共済組合員番号ではないのか?

新潟県教育委員会では事務手続きを全くしていない。教育委員会に呼び出されて事務局に出向いたのは昭和54年8月10日頃が初めてである。極秘の県外工業高等学校訪問命令で、出張後の報告に参事と指導主事の前に立たされて質問にお応えした。ただその時だけしか新潟県教育委員会に行ったことはない。何故それで公立学校教員に採用された事に成るのか。おそらく教員登録がない筈だ。不可解と己の無知を知ったのは、昭和44年10月1日~昭和45年3月31日。その間は全く何処にも届け無しに、半年間の県外研修をしていた。東京工業大学電気工学科、宮入・片岡研究室。その間の給料を受け取ったか手渡しでは無理だった??何処にもその記録・履歴がない。新潟県立新津工業高等学校(先日確認した)にも新潟県教育委員会にも。

新潟県道への分筆の『法』?

新潟県十日町市大字貝野字岩下(2020/11/21)❓

土地所有権とその法的処理の仕組み。無知が故に、知らずに過ぎて不可解に気付く。己の無知を嘲られているようで、お恥かしい。地番 貝野 甲252番に関する(三頁分)の閉鎖登記簿謄本を取り寄せた。上はその一頁目。3つ程の基本的疑問点を拾い上げてみる。出来たら疑問解消にお力添えを頂ければと思う。

【疑問】昭和五六年弐月弐五日。県道への所有権移転の経過が不可解。一頁左面の記載内容の意味が理解できない。地番欄の記載で、甲弐五弐番がどのような経過を経て枝番壱の表記に成るのか?

その壱の枝番の土地が、「原因及びその日付」欄で、①③甲弐五弐番壱ないし同番参に分筆したのは誰か。表記内容で、既に分泌された壱を更に、壱ないし参に分筆したような意味の表記に読み取れる。このままで、売買契約で新潟県道に移転された事に成るのだろうか。その売買契約の代金が振り込まれた貯金通帳が無い。

 

第一点。赤文字で付記した(1)-1、 (1)-2(一頁)、(1)-3(二頁)および(1)-4(三頁)の関係。

表題部には甲弐五弐番とある。しかし、(1)-1、(1)-3および(1)-4のように枠外の囲み内が何故、「-1」の枝番が 初めから付いているのか?

一頁左半分の赤文字(1)-2の部は、何故、地番が甲弐五弐番壱となるのか?地番弐五弐番に枝番の壱が何故初めから付くのか?

第二点。(2)-1および(2)-2。

一頁。昭和46年3月31日の国土調査による成果。として、細かい地積の土地を纏めて合筆した。誰がどの様な権限で、勝手に人の土地を合筆が出来たのか。権利者(相続権者の筆者)は何も知らない。

二頁左側の八。(何故か順位番号六が掛けている)。合併(合筆の間違い?)による所有権登記。父 金沢好明は既に昭和39年9月に亡くなっているから、死後5年半経過した人登記の法的意義は無いのでは?

同九の所有権移転 原因 昭和36年9月6日も昭和39年9月6日の誤り。

参考にある専門家に尋ねたが、説明を理解、納得できなかった。

 

ペルチエ効果と熱エネルギー

(2020/11/19) ペルチエ効果。

ペルチエ効果を使う熱電素子の構造は図の(1)のような説明で示される。N型半導体とP型半導体を銅などの板で組み合わせて構成される。そこに電圧を加えると、吸熱面と放熱面が生まれる。吸熱面の空気から熱エネルギーが金属板に吸収される。その作用を使って除湿器が造られる。空気からと言うのはその水蒸気が保有する熱エネルギーを吸収することだ。水蒸気は熱エネルギーで水が体積膨張した状態である。吸熱面で熱エネルギーが奪われれば、水蒸気は体積収縮して水になる。それが除湿機の機能原理だ。それはペルチエ効果の説明のように実際の技術として機能している。しかし、何故n型半導体‐銅‐p型半導体の方向に電圧を掛けると銅で吸熱現象が起きるかの原理が理解できない。そこで、(2)図のように、n型半導体を銅版で挟んで電圧を掛けても、吸熱と放熱が起きるのか?予測では、実験すれば吸熱、放熱は起きる筈だ。起きなければ、原理の意味が成り立たない。これはn型でもp型でも同じ筈だ。p型では吸熱、放熱の反応極性が逆にはなるが。

除湿機能と降雨現象。空気中の水蒸気から熱エネルギーを奪えば、水蒸気は水に成って、体積収縮を起こす。気象で地上の低気圧も、上層気流の冷気で地上からの水蒸気が体積収縮を起こすから、空気の水蒸気が上空に吸い上げられ、その結果低気圧となる。水蒸気の熱が上層気流に奪われ、水蒸気が体積収縮を起こす結果、雨となって降り注ぐ。除湿器の機能も自然現象としてみれば、降雨現象と同じものである。その吸熱現象がペルチエ効果ではどのような原理で起きるかの問題と考える。電気回路現象は電子が主役を演じる解釈理論となっている。電子がどのような役割を担っているかを詳らかにするのが科学論の目的だ。降雨現象には電子は不向きだ。その違いの訳が説明できるか?という設問となる。この上層空気がより冷気が強ければ、遂には氷となり雪になる。地上と上空の温度差が急激に大きくなれば、熱エネルギーが空間のチリなどに蓄積され、その熱放射、熱爆発の「雷」となる-雷は熱爆発 (2014/05/23) -。

思考回路。

ペルチエ効果の意味を考えてみよう。図(3)はダイオードに電圧を逆方向に掛けた。これでは回路は on 出来ないから、off である。図(4)はn型とp型の間に銅板を挟んだ。この構造はペルチエ素子の構造と同じだ。原理から考えれば、やはり吸熱と放熱現象が起きる筈だ。銅板を挟むとダイオードのoff機能は消えてonするという意味になる。この構造でもペルチエ効果が表れる訳を説明できなければならない。さてどう解釈するか?

電子と熱電効果の原理。

電源は決して電子を回路内を循環させる訳ではない。現在も、電子が主役の量子力学が半導体動作原理の解釈理論となっている。もし、電子が電気回路の機能を担うとすれば、電子が電流の逆向きに流れると解釈する限り、無理して『電荷』がその役割を担うと考えざるを得ない筈だ。電子の『質量』では無かろう。しかし、『電荷』が電気回路内を循環する具体的役割を、誰をも納得させるだけの論理性で示し得ないだろう。電子が『エネルギー』の伝送に役割を果たし得るか?電子が『エネルギー』を電源の負側からどのような状態で電気回路に運び出すのか?The electron did not exist in the world. (2020/05/15) 。にも述べた。電子の電荷と質量の空間像が定義できなければ、電子の熱エネルギーに対する機能も述べられない筈だ。電源は、電圧をその規定する値にするため、その繋がる回路の回路定数に対する『エネルギー』の放出源なのである。放出電子の数を調整する機能など電源には無い。電源は電子など制御対象にできないし、無用である。

電源と熱エネルギー。

電源は負側の電極電線路近傍空間を通して『エネルギー』を放出する。この電気エネルギーと熱エネルギーに違いがある訳ではないのだ。熱エネルギーは輻射熱として放出される。所謂赤外線と言う分類の光と見做せよう。可視光線に比べて、何か速度が鈍いような長波長成分と言う物のように感覚的に感じる。しかし電力波と比べれば波長は光に近い筈だが、衣服等に吸収された熱量値しての状況は何か粘性の強いエネルギーに思える。その熱が高密度に貯蔵されれば、遂にはより作用性の強い放射光となる。熱電現象は電気エネルギーと熱エネルギーの間の相互作用の変換現象と解釈する。とは言っても電気エネルギーと熱エネルギーは基本的に空間に実在する同じ『エネルギー』であることに変わりはなく、電池から電線路を通して負荷抵抗の空間構造に閉じ込められれば熱と言う人の解釈になる。

半導体の不思議。

トランジスタのスイッチング機能は技術の結晶に思える。しかしそのコレクタ側はダイオードの逆極性導通としか見えない。そこは吸熱特性を呈する。ダイオード電圧 (2020/08/26)。

 

 

お日様と日向ぼっこ

熱 (2020/11/18) 。
ペルチエ素子型除湿器。今年の夏はこの除湿機の威力に驚いた。小型であり乍らその能力は強力だ。原理は何かと調べたらやはりペルチエ効果らしい。

熱エネルギー。

時代が科学技術への過信の中に居るようで恐ろしい。何が恐ろしいかと言えば、やはり人の意識を導く全体主義的傾向にあるように思う。例をあげれば、核爆弾がある。そこには何の「安全と平和」に貢献する論理的意義を人に解く意味が無い筈だ。しかし、人は人を殺戮し破壊するための『核兵器』を保持して、経済的競争による世界的優位の武器として戦う意識は増大してやまない。核爆弾を使用した結果がどのような世界の姿となるかを予測すらできないのだろうか。未来への予知能力さえ、犯罪的破壊への欲望の前には失ってしまう宿命を背負う、それが偉大なる「人類」の智慧なのだろうか。科学理論と科学技術を考えても不可解なことが多い。自然の世界に『電荷』などない。しかしその無い『電荷』が科学理論の基礎概念として、世界の常識となって来た。何故か理解できない事が世界の未来に向かって進んでいるようで恐ろしい。その理解し難い事の例として、日常生活科学の意味で、『熱エネルギー』について考えてみる。

熱電効果。

 ペルチエ効果、ゼーベック効果あるいはトムソン効果と熱と電気回路の間の現象が有る。とても気になる事に、物理学で高度な理論が解説されているが、空間に『エネルギー』が流れているという認識が無いようだ。具体的問題として、例を挙げてみたい。透明なガラスの真空容器を想定する。その中に光を照射する。光は当然真っすぐその容器を通過する。その場合、真空容器の中を通過する間、光の『エネルギー』はその波長の長さ当たりで真空空間に実在することを物理学理論では認識しないのだろうか。光が振動するか、しないかには関わりなく、光の『エネルギー』は空間体積を占めて実在すると解釈するのだが、物理学理論では如何なのかを確認したいのだ。物理学理論では、恐らく空間に光の『エネルギー』が分布するとは認識していないと思う。その『エネルギー』の空間分布については科学的、実験的測定による検証は不可能な事であるから。どんな真空空間でも光は『エネルギー』の分布密度の光速度伝播現象の基にある。立派な科学理論にとっては、空間に『エネルギー』が実在すると認めれば、その『エネルギー』を構成する素粒子論は成り立たなくなるから、科学常識の根底から崩れてしまう。『エネルギー』はどこまで小さくなっても『エネルギー』で在り続けるから。とても大変な問題なのだ。そこで熱と『エネルギー』の関係のことになる。

検索で「驚き桃の木山椒の木」なる記事を見た。試しに、「熱とエネルギーの違い」で検索した。結果のトップに、高校で「エネルギー」、「熱」やその違いがわからない方へ・・Carefreechen.com>化学.に「エネルギー」は燃料で、「熱はエネルギーを燃やした後のゴミ」と言う表現で説明されていた。現代物理学理論が理解できない筆者には、科学常識がどこに在るかも分からない。熱とは『エネルギー』の一つの姿としか認識できない。お日様に、この小春日和にあたれば、体も心も温かく温められる。この暖かい事の意味を、日常生活感覚で感じる事を物理的現象としてどの様に解釈するかと皆さんに聞いてみたい。科学技術開発の研究には何の役にも立ちそうもない日常生活科学論だ。お日様の光を受けると体が暖められる関係を『熱』と『エネルギー』で説明してほしい。熱は決してゴミではない。それでは地球がゴミの為に温暖化しているとなる。魚を焼いたり煮炊きをするのもゴミの御蔭か?みんな熱エネルギーの御蔭なんだ。『エネルギー』と言う用語の使われ方は曖昧だ。資源論になると確かに化石燃料などの燃料を『エネルギー』と言う用語で表現し、解釈して使っているようだ。しかし灯油でも重油でもウランでもそれは『エネルギー』では決してない。それは『エネルギー』を利用するための原料物質である。必要なのは『熱』であり『動力』であり『光』なのだ。それが全て『エネルギー』なのだ。太陽が放つ光も全て『エネルギー』なのだ。光は物に吸収されれば、光速度の空間『エネルギー』が『熱』に変換されるのだ。地球の植物の質量にもなるのだ。太陽の核融合が『エネルギー』の発生原理だという科学論も筆者にはとても理解できない事だから、未来の夢として温めておきたい。

科学理論への懐疑。みんな1987年(昭和62年)の『静電界は磁界を伴う』から始まった『電荷』否定に端を発している。ロゴウスキー電極空間の磁界 (2020/06/08) 。熱の正体と不明 (2020/08/18) や燃える酸素の力とは? (2013/11/07)にも同じような記事があった。🙇。

変圧器のエネルギー伝送現象

変圧器はファラディーの法則の適用によって解釈する科学技術設備である。大電力の伝送は変圧器に因る高電圧化が欠かせない。

ファラディーの法則。
その原理はコイル内の磁束φ[Wb]の時間的変化率によって、端子に発生する電圧が決まる事を示している。コイルの巻き線数nに比例する電圧vが発生する。
  v=n(d φ/d t) [V]
と表される。この式によって、電磁誘導現象の理解が容易だ。しかし、この法則は磁束と言う技術概念が使われているから、その意味を理解することが必要になる。もし自分が、初めて先生から磁束がコイルの中に発生すると電圧が生じると聞かされた時、簡単に理解できるだろうか。コイル内の空間に、磁束と言う線束が貫通するという磁束の物理的概念に疑問を抱くか、抱かないか。殆ど疑問など抱く余裕が無いからその言われたままを記憶して、磁束が自然界にはあるのだと理解する。

変圧器の構造。
基本的には、巻き数の異なる二つのコイルと鉄心からなる。

自然界に磁束は実在しない。
鉄心の役目は何か?鉄心が無ければ変圧器の機能は望めない。その鉄心の物理的役割は何か。技術概念としての磁束は鉄心の中を空間より多く通せるからと解釈する。技術概念ではそれを飽和磁束密度と言う言葉で捉える。磁束の飽和値が高いと解釈される。変圧器の役割は二つ以上のコイルの間で、異なる電圧を発生する電圧変換設備と言えよう。電圧という科学技術量を変換し、電圧を変えながらも『エネルギー』をコイル間で同じ量で伝送する機能を持っている。磁束は無くても『エネルギー』は自然界に実在する。それなら磁束でなく『エネルギー』で変圧器の現象を理解すべきではないか。科学技術法則はとても便利に自然現象を利用する手法を提供する。とても分かり易い。しかし、技術法則と言う物は、自然界に無い概念を定義して、自然を利用しやすく取りまとめる理論と言えよう。だから専門技術者は、簡単に技術概念を駆使して利用技術理論を使いこなせる。しかし概念が専門的な定義に因っているため、なかなか一般の市民には採りつくことの難しい理論となっている。もっと自然の本質に迫った解釈法なら、市民も理解し易い筈なのだ。理科教育はその考え方に基づく方向性を採るべきである。みんなが未来の科学技術に、その安全性や安心への意見表明による責任が発揮できるように。変圧器のコイルを巻く中心に鉄系の鉄心が使われる訳は何かを考えただけでも、その自然の特性や機能を理解することは難しい。しかし、自然現象が全て『エネルギー』がその主役を担っている事に思い至れば、必ずや分かったと安堵できる筈である。其処に科学技術と自然現象との関係を見つめる魅力がある筈だ。鉄心の内部に『エネルギー』が侵入するに時間を要するから、1次側の電源からの印加電圧による『エネルギー』供給に対して、十分対応できることになる。コイル電圧はコイル内部貯蔵の『エネルギー』が飽和したら『ゼロ』となる。鉄心内部に『エネルギー』が流入している限りコイル短絡には成らない。

自然の本質は分かり難く、複雑である。経済的効果を求めるなら、あまり役立たないかも知れない。しかし、精神的な安心感を得られる。複雑な技術概念は分からなくても、自然現象としての奥深くに秘められている不思議を心で体感できるから。その上で、技術法則を学習すれば、その技術的解釈法がとても優れている結晶だという事も解る筈だ。技術屋さんの専門性がなくても、大よその利用概念が分かって技術への理解で、未来科学技術の安全への自分なりの責任を発揮する基礎を身に付けられる。それが理科教育への大事な眼目と考える。

『エネルギー』で見る変圧器。
変圧器の機能は『エネルギー』の状態を1次と2次で変えて、伝送する電気設備である。この『エネルギー』を物理学理論ではどのように捉えているかを筆者は知らない。残念ながら、その認識が物理学理論には無いとしか思えない。電気磁気学で、電界と磁界の概念を空間電磁場に適用して理論が構築されている。その電界とか磁界と言う概念の意味を深く突き止めれば、必ず『エネルギー』に行き着く筈なのだ。それは光の半波長も空間の『エネルギー』の分布の認識に行き着く筈なのだ。しかしその解釈はどうも物理学理論には無い。それは自然を深く突き詰めて考えていないからではないかと勘繰らざるを得ない。電磁場を電界と磁界と言う概念で理解できたと解釈する限りは、空間に実在する『エネルギー』には届かない。宇宙論で高尚な理論を唱えても、足元の電気回路内の『エネルギー』が観えない限りそれは未来の世界観には届かない。単に変圧器の内部の電気現象でも、そこには『エネルギー』がその機能の主役を演じているのだ。上の図に大まかな変圧器の中の巻き線周りでの『エネルギー』の分布とその電気要素コイルとコンデンサ機能からの捉え方を提示した。

まとめ。空間エネルギー分布 が変圧器巻き線空間を支配している。その様子を上の図に示した。その『エネルギー』が変圧器外部回路にどう表れるかを右にまとめた。エネルギー電線路分布量δxx[J/m]はその電線路回路定数 Cx,Lxによって電圧から決まる。伝送エネルギーと反射エネルギーは負荷整合からのズレによって自動的に決まる。

変圧器の機能解釈で、ここまで辿り着くまでに、変圧器‐物理学解剖論‐ (2011/09/13)。変圧器の奇想天外診断 (2015/06/03) 。変圧器の技術と物理 (2019/04/12)。などがある。中でも・・奇想天外診断は思い付きの単純な実験ではあるが、それ以降の電気回路解釈に決定的な指針となった。『エネルギー』論への確信となった。

導体と空間とエネルギー (2020/11/28) をこの変圧器の現象説明のために先に示した。

植物二題

白花頂上華。
灌木と言えようが、細い枝を伸ばし、その先に1cmにも満たない真っ白い多弁の花を咲かす。

 

 

花瓶に挿して部屋を飾ったが、余り輝かない。きっと寒い外気に輝くのだろう。

 

 

 

 

 

ポトスと気根。
もう十数年部屋につるしている。不図気づけば、長い気根を伸ばしている。適度に水は差している。調べると根が充分張れなくなると伸びるような解説がある。ほぼ30cm前後の長さに伸びている。
植物の命と地球の古代の不思議に思いが飛んでゆく。

 

 

 

最近の壁紙に米国、ミシガン州スペリオル湖の情景が出た。地質学の専門的解説はとても詳しく、岩石について語られている。しかし、このスペリオル湖の岸の岩も、地球が成長してその痕跡として今ある。初めから地球がこの大きさであった訳はない。すべて太陽からの光の『エネルギー』が創り上げたとしか考えられない。地球の命はすべて植物が創り上げたと空想が広がる。どんな火山もその噴火する溶岩も古い地球の何かの命が噴出したものと思う。太陽の『光』が命の基の⦅エネルギー⦆であると。植物の細胞一つの姿も筆者には理解できない不思議が詰まっている。白花の花弁一つも、ポトスの気根の命の仕組みもみんな驚嘆の自然の姿だ。その自然の姿にはどこにも物理学理論の『電荷』も『電子』も不要だ。

戦争と戦後

人は何故争うか。国家と言う集団組織同士で争えばそれが戦争。人と人との争いは喧嘩で、殺人事件にもなる。

戦争と戦後は未来への人の生き様を示す。75年前に〈第二次世界大戦〉と言う大きな犠牲と悲しみを残して、新たな戦後の歩みを始めた。平和への国際連合の仕組みの下での歩みを始めた。

日本の戦後は、広島・長崎の「原子爆弾」による惨劇を残して始まった。「核廃絶・核禁止条約」への日本の参加を切に望む。今は、戦後に生まれた若い人々がその社会を創り進んでいる。戦後世代がその中心になって未来に進んでいる。戦争とは、街も平和も全て無残に消し去ってしまう結果を承知で起こすのだろうか。誰が戦争を起こすのだろうか。それは未来への希望をみんなが自分の意見を表明しないところから始まると思う。物言わないで我慢する生き方、姿勢が大きな過ちに進む基になると思う。政治は自分が造るものと言う意識を忘れたところに、危険が墓穴を造っている。選挙に行かない人が一人一人政治から離れて、危険な未来を作る道に進むのだと思う。筆者自身の生きた過去を反省にして。

今日、新潟日報の2,3面の記事を読んで、また嫌われることを言わなければと思った。『北方領土の返還問題』が一つ、もう一つは座標軸、世代間格差。である。北方領土返還問題は既に2島返還で進んでいた問題がいつの間にか4島返還の話になっている。素人ながら、そんな4島返還が可能と思う人が日本にいるのだろうか。永遠に不可能な問題を掲げて、残念ながら「ジェスチャー」問題にしているとしか思えない。戦後に、日本は何故『北方領土を失ったか』その原因はどこに在ると考えるのか。日本で、自身で戦後に『戦争の責任』がどこに在ると政府は表明したか?その戦後問題は決着していると考えるのか。同じ惨劇を未来に起こさない為には、そこが肝要ではないか。どうしても未来の平和を守りたいと思えば、戦争の原因をみんながしっかりと認識してこその政治問題と思う。韓国の『戦時労働補償問題』も、政治決着と言うけれども、被害を受けた方々はその政治決着にどのような関りで納得したのか。『北方領土返還問題』と重なって悲しみになる。

政治は民主主義の根幹である。政治は選挙によって未来の世界を選ぶ仕組みだ。選挙を棄権したら、未来に責任を放棄したことになる。そこに民主主義のみんなに責任を持たせた仕組みがあるのだ。選挙が投票率60%以下ではやり直し位の政府の意識が必要だ。学校教育は、政治問題を大いに話せることで、みんなの未来への責任を意識付ける大切な機会の場だ。

導体と空間とエネルギー

(2020/11/07)エネルギーギャップ。
電磁気現象は『エネルギー』の動態を捉えて、その世界が観えるようだ。決して『電子』ではその真相は観えないだろう。
空間に在る『エネルギー』の姿を決めるのは、その空間構造を規定する金属導体と観ることも出来よう。その見方を纏めてみた。
電圧とエネルギーギャップ。


エネルギーギャップ。

少しづつ電気現象における『エネルギー』の姿が観えてきた。それらを繋げて行くと、すべての現象が金属導体とその近傍に関わる『エネルギー』の姿である。近接した導体が有れば、その間の空間にエネルギーが分布する。その分布の姿は、必ず不均一である。と解釈する。その様子を上の図に示した。コンデンサもコイルもその導体の間に不均一に『エネルギー』が分布する。その不均一分布を『エネルギーギャップ』と唱えたい。それはダイオードのp型と n型間に存在する不均一エネルギー分布との解釈と同じとみる。ダイオードはその『エネルギーギャップ』によって導通「オフ」状態となっている。n型側に『エネルギー』を加えれば、ダイオード「オン」となる。そのように基本的に空間構造体内に『エネルギー』が存在する姿は不均一である。その『エネルギーギャップ』が電気回路の回路定数、特に容量C[F/m]との関係で端子電圧V[V]となる。

『エネルギー』と光と空間定数。上の捉え方が誘電率εo[F/m]および透磁率μo[H/m]と光伝播現象との関係の哲学的考察につながるだろう。 

自由と平和は尊い

自由も平和も努力なしには得られないから尊いと言える(2020/11/03)。
先日、ある新聞の座標軸と言う記事に教えられた。ドイツの反ナチス運動指導者のマルチン・ニーメラ―牧師が残した言葉。
本当にその通りと思った。少し違うが、次の言葉を書き記して置きたい。

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、私は社会民主主義者ではなかったたら。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、私は労働組合員ではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげるものは誰一人残っていなかった。

 自由も平和も、それがどの様なものかを理解できないから。自由の無い中で生活を経験し、自由を束縛された中で生きた時、初めてその意味を知るのだろう。
自由も平和も、それを手に入れる事を意識して、生活することは無いだろうから。

自由と平和は気付いた時には、それが無くなったことを知る時だろうから。

自由と平和、それを守る事は、それが観えないから余程意識しないと消えてしまう。それを守るには大きな知恵と心の戦いを必要とするから尊いのだろう。

何のために軍備や戦争兵器を準備するのか?自由と平和など気付いた時には無くなっているのだ。

『学問の自由』は目に見えるものではないから尊いのだ。『自由』とは目に見えないのだ。『学問の自由』はどこを探しても売ってはいない。『平和』もカネでは買えない。

失って初めて気付くもの、だから尊いのだ。